森耕治の西洋美術史論 「ヴィーナスの誕生」

「ヴィーナスの誕生」 ボッティチェリ 1483年ごろ ウフィッツイ美術館

「ヴィーナスの誕生」は「春」と並ぶボッティチェリの最高傑作です。この作品は、その芸術性のみならず、裸婦像を、女神に仕立てて、等身大で堂々と描いた、その世俗的で自由なエロス表現という点でも、画期的なものでした。約半世紀後に制作されたティッツアーノの代表作「ウルビーノのヴィーナス」(ウフィツィ美術館)と同様、後世への影響力は、計り知れないものがあります。
また本作は、初めてキャンバス地を使って完成された作品の一つであり、絵画技術史を振り返る上でも貴重な一作です。それまでポプラ材のパネル上に、卵をメデュ―ムにしたテンペラ画法で描くのが主流でしたが、乾燥させた木材の入手そのものが困難な上に、壁にかけるのも難しいほど重すぎるという難点がありました。この経済的かつ物理的制約を、キャンバスの使用によって克服したのです。
また絵の具にも、油水混合メデュ―ムを作るなど、最先端の技法を取り入れていました。テンペラに油を混ぜることで彩色層に柔軟性が生まれ、キャンバス繊維の伸縮や振動に強くなり、さらに湿気にも強くなるなど、画材レベルは飛躍的に向上しました。言いかえれば、「ヴィーナスの誕生」は、世界で最初の等身大裸婦像の一枚というだけでなく、絵画技術史上も、当時の最先端の技術が用いられていました。

それでは、この作品を「ヴィーナスの起源」と「画面概略」の二つの観点からご紹介いたしましょう。

 

「ヴィーナスの起源」

そもそもヴィーナスとは何者なのでしょうか? 現在では総じて美しい女性の代名詞のようにもなっていますが、れっきとしたギリシャ神話の女神です。

また宇宙がまだ混沌としていた超太古に、すべての神の母方の先祖に当たるガリアという女神がいました。このガリアが天空神ウーラノスを含む最初の神々を生みました。ウーラノスは全宇宙を治めた最初の神様であり、有名なオリンポス12神の主神ゼウスの祖父でもあります。ガリアとウーラノスの間には6人の男の神様と6人の女性の神様を生まれ、巨人族の起源となりました。巨人族は、孫となるゼウスが率いるオリンポスの神々の連合軍との間に、世界最初の世界戦争「ティタノマキア」を引き起こしましたが、制空権を制して最終兵器「いなづま」を手にしたゼウス率いるオリンポス軍の勝利に敗れます。

「ウーラノスと踊る星々」 カルル・フリードリッヒ・シンケル(1834年)ベルリン工科大学建築美術館所蔵

本題に戻りましょう。ウーラノスとガイアの間には、キュクロプスと呼ばれる3人兄弟の子供も生まれました。しかしこの3人の息子たちはいずれも一つ目の巨人で、その醜さを嫌った父ウーラノスによって、3人はタルタロスという地の奈落に落とされてしまいました。

この非情な仕打ちに怒った女神ガリアは、巨人族の末っ子クロノスを復讐に差し向けます。父ウーラノスを襲ったクロノスは、父の男根を切り落として、エーゲ海に投げ捨てたのです。その時に、ウーラノスの血とエーゲ海の波の泡が合体して生まれたのがヴィーナスでした。つまり、愛と美の女神ビーナスは、陰湿な身内の復讐劇の末に生まれた存在なのです。

 

画面概説

この作品に描かれているビーナス誕生のエピソード(正確には、誕生後にヴィーナスがキプロス島に流れ着いたシーン)は、当時のフィレンツエェの僭主ロレンツォ・デ・メディチの家庭教師であり、詩人だったアンジェロ・ポリツィアーノの詩「スタンツェ」に描写された情景とほぼ一致します。またヴィーナスの顔のモデルは、当時絶世の美女として知られたシモネッタ・ヴェスプッチというのが通説になっています。彼女はロレンツォの弟で、1478年に大聖堂で暗殺されたジュリアノ・デ・メディチの愛人でした。この説の裏付けとして、シモネッタの出身地がイタリア北西部のリグーリア海岸に面した港町ポルトヴェ―ネレであったことが挙げられます。ここは通称「ヴィーナスの港」として知られ、この町で育ったシモネッタをヴィーナスのモデルとして選んだとしてもおかしくはないでしょう。

ボッティチェリの工房で描かれたシモネッタの肖像画

本作の画面中央には、巨大なホタテ貝コキーユ・サン・ジャックの上に立ったヴィーナスが、恥じらいのポーズを取っています。ホタテ貝は、後世でも男女の愛の寓意として数多の絵画に用いられました。ヴィーナスは、ホタテ貝に乗ったまま、画面左の西風の神様ゼピュロスに、西風となる息を吹きかけられて海を漂流していました。

左のゼピュロスは略奪婚したクローリスを抱きかかえています。この二人の吹きかける息が、白い線で表されています。ところでクローリスは、もう一つの代表作「春」の右側に描かれています。ヴィーナスは、ゼピュロスの西風に吹かれて、最初にシテ―ル島に流れ着き、今、ようやくキプロス島の岸辺に流れ着いて、そこで右の「春の女神」に赤いマントを着せてもらうところです。

左:ゼピュロス 右:クローリス

ここで、西風にあおられる二人の女神の長い髪の毛と、赤いマントに注目してください。このように風になびく長い髪の毛と衣服、または、十字架上のイエスの腰布が風に揺れる様子は、15世紀の第4半世紀に始まった新しい表現様式なのです。

もう一度ヴィーナスに注目してください。女神が右手で胸を隠し、左手で恥部を隠すしぐさは、当時メディチ家が所有していた俗に「メディチのビーナス」と呼ばれる彫刻に酷似しています。現在はウフィツイ美術館の所蔵です。「メディチのビーナス」の存在は、遅くとも1559年には知られていましたから、この絵のビーナスのモデルになったことは間違い無いでしょう。

またヴィーナスの姿勢に注目してください。右足のかかとを浮かしてつま先のみで立ち、膝を少し曲げています。左足はしっかりとかかとをつけたまま、上体と顔を少し向かって左に曲げています。しかし左手は下ろしたままなので、結果的に左肩が下がり、反対に左の腰は上がっているので、体全体は軽く弓型に湾曲しています。このように片足をまげて、上半身を曲げることで、体の曲線美を強調する方法はコントラポストと言って、古代ギリシャ彫刻の特徴でした。ミロのビーナスはその典型です。 この姿勢は、「春」におけるヴィーナスのそれと同じです。

ところでこのヴィーナス、ずいぶんと首が長く描かれていると思いませんか? それに身体は典型的な8頭身。非現実的ですが、裸体美のカノン(美的規範)を、ボッティチェリが既に確立していたことを示唆しています。このような首の長い8頭身の裸婦は、ルネッサンス末期のマニエリスムのカノンにも繋がります。

次にビーナスの顔の拡大写真を注意深く観察してください。下描きの、細かい線で肉付けしたハッチング(線描)が透けて見えます。特に鼻から目じりのあたりに顕著です。

右目の瞳からは、まるで正面の景色が見えるような錯覚を覚えます。また瞳の中の光の輝きも白い一点で決まっています。

ヴィーナスの顔の拡大

画面下の海は、手前を暗くして、遠景を明るくしています。波は三角形の集まりで表して、遠くになるにつれて、その大きさを小さくするという、線遠近法にも空気遠近法にも基づかない圧縮された遠近法が用いられています。

そしてビーナスの周りには、愛のシンボルである薔薇が西風に吹かれて舞っています。

ここでもう一度、画面右に注目してください。ここは陸の世界であり、人間の住む世界でもあります。今、出迎えた「春」の女神が、金糸で縁取られた真っ赤なマントをビーナスにかけようとしています。そのマントは、花の模様で飾られていて、その赤は明らかにバーミリオン(赤色硫化水銀)に、マダーレーキがかけられています。たとえギリシャ神話にかこつけていても、裸体の表現が教会からにらまれていた時代です。ややこじつけっぽい演出ですが、裸体を覆う意思があることを示すことで、露骨な裸体描写に見せないようにしたわけです。

ところで、「春」の女神がビーナスにマントを着せる行為ですが、これは、トロイア戦争中に、ビーナスが、「春の女神」を含む3人の季節の女神によって織られた服を身にまとっていた、という伝説に基づいています。またヴィーナスは、これを纏うことで、不死の女神へと進化すると考えられます。

マントを着せる春の女神

最後に背景ですが、林がずいぶん黒ずんでいます。これは、緑土テール・ヴェルトの典型的な暗色化現象です。緑土は古代から用いられた顔料の一つですが、ラピスラズリと同様、オイルと混ぜると濁る性質があります。そのため19世紀後半に、クロム化合物の一種であるビリジアンがグリーンの顔料の主役となりました。

フィレンツェのウフィツィ美術館に行かれる機会がありましたら、「ヴィーナスの誕生」を、以上ご説明したように、世界最初の等身大裸婦像の一つであること、それに技術上も、革命的要素を含んでいたこと等を念頭に置いて見ていただければ、新しい鑑賞の仕方ができるのではないでしょうか。