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© 2026 Yuriko Uchida.
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作品一覧
- 陽が昇る時 / when the sun rises
- 地球温暖化(焼畑農業)/Global warming (slash-and-burn agriculture)
- 夢中散歩/strolling while absorbed in something
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特別対談
2025年特別対談 内田百合子×エリック・デュバリ
素材に託した記憶と祈り、内田氏の作品が語りかけるもの
エリック・デュバリ(以下 デュバリ):本日はお時間をいただき、ありがとうございます。パリで内田先生の作品を拝見した時から、この日を楽しみにしていました。
内田百合子(以下 内田):私もエリックさんに会えて本当に嬉しいです。実は、昨年のパリに出展する少し前に体調を崩していたのですが、エリックさんからいただいたメッセージのおかげで、リハビリを乗り切ることができました。
デュバリ:そう言ってもらえると、私も嬉しいです。それでは今回の作品「人生の軌跡」の話を伺いましょう。実は初めて見た時、素材がとても個性的で、何を使っているのだろうとすごく不思議に思っていました。
内田:これは工芸用の紐です。リサイクル素材で作られているものです。元々押し花の制作が中心だったのですが、自然由来の素材は時間と共に変色してしまうので、色が変わりにくい表現のため、取り入れるようになりました。
デュバリ:そうだったのですね。「人生の軌跡」というタイトルですが、どのような思いが込められているのでしょうか?
内田:その名前のとおり、幼い頃の記憶、戦時中の風景を表現した作品です。空襲警報で逃げ込んだ防空壕、竹藪などがモチーフとなっています。あの頃の記憶で忘れられないのは、焼夷弾を父親が抱えて外に捨てにいった時のことですね。本当に生死の境目を彷徨うような状況でした。
デュバリ:何と言葉にしてよいかわかりません。本当に強烈な思い出ですね。
内田:広島と長崎に原子爆弾が落とされたというニュースにも、ひどい衝撃と不安を味わった記憶があります。
デュバリ:私も原子爆弾をアメリカが落としたという事実には、大きな衝撃を受けました。そのイメージを、抽象的ながら作品に表現したことがあります。何か自分の中では抱えきれないような衝動を覚えたのだと思います。
内田:私は、原子爆弾の投下地を見学しに行ったことがありますが、その時、改めてすごく気持ちが苦しくなったことをよく覚えています。「もう二度とこのようなことはあってはならない」という平和への思いを作品に込めるようになりました。
デュバリ:悲しい思い出の作品ですが、しかしとても美しくもあります。美しさが悲しい思い出を広く伝える上で重要な役割を果たしているとも言えますね。
内田:他にも、地球温暖化や砂漠化などへの思いを込めた作品もあります。
デュバリ:確かに環境問題も平和に対する脅威の一つですね。そういえば内田先生は、作品制作にリサイクル素材を使われていると聞きました。それも、環境問題に対する表現の一つなのでしょうか?
内田:はい、色々なアプローチで社会問題に対する思いを作品に表現してきました。
デュバリ:内田先生は戦争や環境破壊など、極めてシビアな問題をテーマにされています。しかし内なる平和、内なる幸福というものは、自然と表出してくるものです。先生の平和への強い思いがあるからこそ、悲しみの中にも安らぎが見えてきます。
内田:私の作品で、1人でも多くの方が、心に平和が訪れて、穏やかな気持ちになってもらえたらと願っています。これまでにも展覧会では芸術大学の先生や著名な画家の先生から審査を受けてきましたが、ある先生から言われた「生とは、死を越えなくてはいけない」という評は、今でも私の胸に強く残っています。
デュバリ:そのメッセージはまさにその通りだと思います。平和にも繋がります。他にも印象的な評価、言葉などはありますか?
内田:協会展の大賞をいただいた時の言葉もよく覚えています。私と主人はこれまでに何度か富士山に登りに行ったことがあるのですが、その際に道端で自然の草花を採取したりすることがあります。家に持ち帰って押し花にするんですね。その時の協会展では、その時の押し花を取り入れた作品を出したのですが、思いがけず大賞をいただくことができまして、審査員の先生から「内田さん、この作品は、ご主人の力も加わったお二人の作品ですね」と言われまして、とても感激したことをよく覚えています。
デュバリ:とてもドラマチックな評ですね。押し花を通してご主人と過ごした時間まで表現されていたということだと思います。
内田:そうですね、それから、「どんな雑草、道端の花であっても、大賞を取ることはできます」とも言っていただき、すごく励みになりました。
デュバリ:確かに、美しく作られた花は美しいです。道端の花が、美しい作品になることに意味がありますよね。
内田:それと、エリックさんの手紙に返事が書けなくてごめんなさい。
デュバリ:いえいえ、気にしないでください。
内田:それと、パリの展覧会に参加できたこと、とても光栄です。
デュバリ:むしろ私の方こそ、この素晴らしい作品を紹介できて光栄です。パリの友人からもこの作品が好評で、「どんな素材を使っているのか」といった質問を多く受けました。今日、無事に質問の回答をもらえて、本当によかったです。
内田:よかったです。ところでエリックさんはどうしてこの道へ?
デュバリ:若い頃、とても仕事が忙しくて、そのリラックスのために絵を描き始めました。そんな中で、ナイフで描く技法に出会い、だんだんと絵の世界が広がって行きました。今は自分の精神などを純粋に表現する方向へと興味が向かっているところです。
内田:それはとても素晴らしいですね。私も自分の中のものを表現し、感じるままにやっています。
デュバリ:その点は、私も同じです。感じるままにやっています。
内田:私がそうするのは、世の中の人の心があたたかくなるような、ほっとするような気持ちになってほしいからです。
デュバリ:そこで、作り手と見る人の間に会話が成立するわけですね。
内田:実は今日、デュバリさんにプレゼントを持ってきました。受け取っていただけますか?
デュバリ:ありがとうございます。素晴らしい写真ですね。ここに載っているのは、すべて内田先生の作品ですか?
内田:はい、押し花の作品もあります。
デュバリ:素晴らしいですね。まるでゴッホの作品のようじゃないですか。これが筆と絵の具ではなく、押し花や紐素材で描かれているというのは驚きです。しかも、バリエーションが豊かですね。こちらは風景画ですか?
内田:こちらは、万里の長城に行った時、その印象を表現した作品です。
デュバリ:私も、押し花のアートを知らなかったわけではないですし、植物の素材を使った芸術作品を見たことがないわけでもありません。ただ、内田先生の作品を目の当たりにすると、それが押し花の世界のほんの一面に過ぎなかった、そう感じてしまいます。
内田:私以外にも押し花をやっていらっしゃる方はたくさんいますし、自分の表現もそこから違う表現、作品作りをやったりしてきましたので、自分こそが押し花の芸術だという思いはまったくありません。ただ、自分の良いなと思うことを、一つ一つやってきた結果として、見てくださる方が喜んだり心が温まるような気持ちにできればと思っています。
デュバリ:このように素晴らしい内田先生の作品世界が、もっと多くの人に見ていただけるといいのですが。
内田:押し花は難しいですね。色が変わりやすいですから。写真だから、何とかお渡しすることはできましたが。
デュバリ:やはり自然の素材を管理することは難しいのですね。こうして写真で見られるだけでも、良い時代になったと言えますね。内田先生の作品はフランスに展示された時からぜひご本人にお目にかかりたいと思っていましたが、本当に今、先生に魅了されております。本当にありがとうございました。ぜひまたフランスにもお越し下さい。本日はありがとうございました。
過去の特別対談
個展ブース
特設個展ブースin 日欧宮殿芸術祭2021
会期:2021年6月4日~6日
会場:シャルロッテンブルク宮殿(ドイツ・ベルリン)
主催:一般社団法人 日欧宮殿芸術協会
運営:クリエイト・アイエムエス株式会社
特設個展ブースin アジアジャパンアートビエンナーレ2021
会期:2021年6月4日~6日
会場:ザアートハウス(シンガポール)
主催:一般社団法人 日欧宮殿芸術協会
運営:クリエイト・アイエムエス株式会社
特設サイト
特設ブース in FOUND ART & CULTURE JAPAN
会期:2024年10月30日~11月05日
会場:アルマンド・ショモ ギャラリー(フィレンツェ)
主催:一般社団法人 日欧宮殿芸術協会
運営:クリエイト・アイエムエス株式会社
アートヒストリー
序文
押し花アートの世界で国際的な活躍を続ける内田百合子は、その独創的な表現によって押し花という枠を超えた純粋なアートとして高い評価を受けている。まさしく唯一無二と呼ぶにふさわしいその世界観がどのようにして生まれたのか。その半生と共に探っていきたい。
幼少期
内田百合子は昭和17(1942)年9月4日、神奈川県の横浜市に農家の五女として生まれました。兄弟姉妹は上に姉4人、妹1人に弟1人、そこに父母も合わせると全員で9人にのぼります。現代で考えるとすごい大家族のように感じますが、昭和17年頃では全世帯のうちおよそ60%以上の家庭が4人以上の兄弟構成であり、さほど珍しくはなかったようです。
ところで農業を営む家では、家族総出で畑仕事や田植えをするというのがごく当たり前のことだったようです。内田も学校から帰ると当然のように家の手伝いに明け暮れていたそうで、時に農作業、時に弟や妹の面倒を見たりすることが日課となっていました。
そんな大変な日々ではありましたが、楽しい思い出もありました。中でも姉妹で連れていってもらった牡丹園は鮮明に記憶していると言います。ただしそれは牡丹の花ではなく、園内で写生する人の姿でした。見る見るうちに目の前の風景が紙の上に表れていく様子はまるで魔法のようで、内田は牡丹園に行くたびその絵描きさんがいないか探すようになっていました。そしてその姿を見つけると、時間が過ぎるのも忘れて見入っていたそうです。
そんな大変な日々ではありましたが、楽しい思い出もありました。中でも姉妹で連れていってもらった牡丹園は鮮明に記憶していると言います。ただしそれは牡丹の花ではなく、園内で写生する人の姿でした。見る見るうちに目の前の風景が紙の上に表れていく様子はまるで魔法のようで、内田は牡丹園に行くたびその絵描きさんがいないか探すようになっていました。そしてその姿を見つけると、時間が過ぎるのも忘れて見入っていたそうです。
もう一つ、特別な思い入れがあるのが絵日記の宿題です。それは勉強と家の手伝いばかりの日常にあって、数少ない芸術の世界とのつながりでもありました。こうして絵を描く楽しさを知った内田は、いつか自分も自由に絵を描きたい、自分なりの世界を表現したいという希望を抱くようになっていったのです。
学生時代
百合子は小学校を卒業後、地元の中学へ入学します。生活は相変わらず学校と家の仕事を行き来する暮らしでしたが、忙しい日々の中で押し花を制作するなど、徐々に芸術への興味や憧れを形にする機会が増えていきました。
しかし当時の日本は、戦後の復興で新たな混乱が生じていた時代です。勉強するなんて親孝行どころか贅沢だと言われてしまうのが当たり前でした。そんなご時世にあって、絵の勉強をしたいなんて言えるはずもありません。
殊に内田の父親は昔かたぎの人でした。子どもが親に意見するなんて言語道断、恐くて厳しいお父さんだったと言います。
結婚
内田百合子は昭和40(1965)年、22歳で結婚します。兄弟、姉妹、私の子供3人おり、当時は14人以上も抱えるほどの大所帯でした。内田も嫁いで早々に家業の手伝いに加わりますが、花屋は店頭の華やかな見た目からは信じられないほどの重労働でした。朝は早く、冷たい水や枝葉のトゲに素手で挑む地道な作業には、農作業の手伝いで鍛えられていた内田も、慣れるまで一苦労だったと言います。
それでも新しい仕事には、店先に並ぶ花々の美しさ、可憐さがありました。これは実家の農作業には無い喜びであり、やりがいでした。いつしか内田にとって花々は家の飾りや贈り物の枠を超えて、無くてはならない身近な存在へと変わっていったのです。
- 自宅の土地・ 内田園芸店 1986年
- 自宅の土地・新築した 内田園芸店 2002年
芸術家の道へ
花屋として、また母親として懸命に働いていた内田でしたが、40歳の時に腸の病気で突然倒れてしまいます。長年の勤労が祟ったのかもしれません。改めて今の仕事の大変さを認識すると同時に、自分のやりたかったことをやっておきたいという気持ちも芽生えました。
一時は体重38キロにまで落ちてしまうほどの闘病期間を経て、内田は花屋の仕事に戻りました。その一方で、友人に勧められて押し花を始めます。花が身近であったこと、また夫の理解があったことも手伝って、徐々に押し花の世界に傾倒していきました。最初は、自分の納得できるものができれば良いと思っていました。ところが何の気無しに出品した神奈川県展で、内田の作品は高く評価され、なんと神奈川県知事賞に選出されます。思いがけない栄誉に戸惑ったものの、自分の表現が認められたことは大きな自信にもなりました。これをきっかけに、内田の表現世界はより自由で豊かなものへと変化していきます。それは押し花という枠を超えて、芸術表現として大きく羽ばたいていくこととなりました。
現在、内田の表現世界は海外からも多くの賞賛を受けています。しかしその胸には、いつも感謝の心があると言います。
「子どもの頃、夕飯の席で絵描きになりたいと言ったら、父親に二つ返事でダメだと言われたことがあります。父親なりに私のことを心配していたのでしょうが、あの時のことは今でも忘れられません。それがこの歳まで自分の作品を制作して、海外の方に鑑賞してもらったり、賞をいただけるようになったのは、周りで支えてくれた夫や家族、指導してくれた先生、友人たちのおかげです。
それと、今では父親にも感謝しています。あの時、絵の道が簡単でないことを教えてくれたからこそ、現在の自分があるわけですから」
経歴
内田百合子 Yuriko Uchida
1942年 出身
師:小林アンナ
作品出展国遍歴(JEPAA関連事業):ドイツ、フランス、イタリア、カナダ他











