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美術史家・森 耕治の欧州美術史論 Vol.8
アルブレヒト・デューラー、ルネッサンスを描き変えた男

「28歳の自画像」

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)は、15世紀末から16世紀初頭に活躍したドイツ・ルネッサンスを代表する画家であり版画家です。彼なくしてドイツ・ルネッサンスを語ることは不可能でしょう。とりわけこれから解説する木版画の「黙示録」や、銅版画の「メランコリア」等に認められる細密画のような緻密で繊細なデッサンによって、彼は版画技術の限界を押し広げ、後世の版画家たちに大きな影響を与えました。また「毛皮のエリのついたコートを着た自画像」のような厳かな内面性の表現等には、イタリア・ルネッサンスの追随さえ許さない、彼独自の天才性が遺憾なく発揮されています。15世紀末から16世紀初頭に活躍し画家たちの中で、デューラーは、イタリアを含む西ヨーロッパ最大の巨匠の一人と位置付けることができます。

ところでドイツ・ルネッサンスというと、美術史に詳しい方は「それは北方ルネッサンスというのが正しいのでは」とおっしゃる方もいらっしゃるかと思います。確かに昔はそういう呼称が主流でした。かつて東京の某大学の美術史の先生が、まじめな顔で、「ドイツもベルギーも同じこと。全部ひっくるめて北の国は『北方ルネッサンス』でよい」と私に発言したこともありました。
「北方ルネッサンス」とは、イタリアから見て北の国を意味します。でも冷静に考えればドイツもベルギーも西ヨーロッパにあって、冗談にも北ヨーロッパではありません。ドイツに行って「ドイツは北の国」などというと馬鹿と言われます。「北方ルネッサンス」は、かつてルネッサンスとはイタリアが本場、それ以外の土地は亜流という偏狭な考え方から生まれた呼称であって、徐々に消えつつある用語です。

「13歳の時の自画像」

これはデューラーが13歳の時に銀筆(シルバーポイント)で描いた自画像です。デューラーは俗に「自画像の発明者」とも呼ばれています。巨匠というのは、さんざん苦労して、年を取ってから世の中に認められる気の毒な人もいれば、ピカソのように、10代ですでに卓抜した技術を持っていた早熟の天才もいます。デューラーは後者に属する天才でした。
頭の上と袖の下に、最初、構図をためらったらしいシルバーポイントの痕跡が残っていることや、左手(鏡を見ながら描いたので右手のように見える)が細すぎて、人差し指が長すぎること、右手は左手の袖の下に描いた跡が残っていることなど、一部未熟さが残っているとはいえ、素晴らしい才能と芸術性を発揮しています。現代なら、芸大生でもこのレベルまで描ければ立派なものです。
画面の右上には、デューラー自身によって、後年にコメントが書きこまれています。「これは1484年に、私が鏡の前で描いたものだ。その時私はまだ13歳だった」デューラー自身、まだ修業中に描いた、この自画像の出来栄えに誇りを感じていたのでしょう。
話が脱線しますが、この自画像制作に彼が使用したであろう鏡は、それ以前の時代に、お金持ちが使用した凸面鏡ではありませんでした。ベニスのムラノ島の職人たちが、1470年ごろに開発した平面な鏡だったはずです。それ以来、ベニスの鏡産業は、17世紀末まで、約2世紀間にわたって西ヨーロッパで鏡の市場を独占し続けました。ベニスの独占を崩したのは、ルイ14世が創った国営鏡工場でした。自画像一つにしても、その時代の技術革新が背景にあるのです。
ところで、ここで使われたシルバーポイントというのは、鳥の骨を十分煮込んでから焼いて粉末にした塗料を、膠水に溶いて紙に塗布し、その上を銀のかけらを軸につけたペン状のものでデッサンする技術です。鉛のかけらを使用しても似た効果を出すことができます。でも鉛筆と違って消しゴムで消すことはできません。描きなおしのきかない、正確さを要求される技術です。
また使用された「紙」も、デューラーが生まれ育ったニュルンベルクで生産されたであろう、古い麻布から作られた麻紙で、現在のコピー用紙並みの薄さを誇った良質のものです。

「アザミを持つ自画像」

「アザミを持つ自画像」 拡大図

これはデューラーが22歳の時に、旅先のストラスブルグで描いた自画像「アザミを持つ自画像」です。羊皮紙上に油水混合技法で描かれています。羊皮紙上に描いた理由は、旅行中に両親が決めたお見合いの相手アニエス・フライに見せるために、簡単に丸めて故郷のニュルンベルクに送れるように配慮したためです。
作品の概要
彼は約30度の角度をつけて座り、目だけは正面を凝視しながら、片手でアザミに似たとげ状の葉を持つヒゴタイサイコという草を持っています。暗くて質素な背景から浮かび上がる彼の若々しい表情には、静かな自信と知性が溢れて、静謐な雰囲気が強調されています。また、まっすぐ正面に向けられた視線は、観客をくぎ付けにします。
画面の一番上には、制作年の1493と、Myj sach die gat, Als es obenschtat (物事は、主が決めた通りに私に起こる)と書き込まれています。これは「結婚できるかどうかは主に委ねます」という意味だと理解できます。
服装
彼は純白のモスリンのシャツに、ベルベットのローブを羽織り、その肘と袖口には飾りがつけられた高価なものです。更にローブの上から光沢のある革製のベストを着ています。
また赤い糸状の房がついた、ベレー帽に似た帽子をかぶっています。これらの高価な服装は、彼が富裕層の子弟であり、社会的にも安定した地位にあることを、お見合いの相手アグネス・フライに誇示したと思われます。
ヒゴタイサイコの意味
画中でデューラーが持つヒゴタイサイト(英語Eryngium)は、アザミに似た植物で、この絵では、明らかにアザミとして用いられています。アザミは荒れ地に自生して、その鋭い葉で人を刺します。そのために、キリスト教絵画においてはしばしばイエスの受難のアレゴリーとして用いられます。したがってこの絵においても、デューラーの信仰心の表明と理解できます。
しかし、もう一つ意味があるのです。ヒゴタイサイのドイツ語はMannertreuであって、「夫の忠実と貞節」も意味します。つまり画面の一番上で「結婚のことは主に委ねます」という意味の神妙なメッセージを書き込んでおきながら、下では「良い夫になります」と積極的にアピールしているのです。デューラーのしたたかさが垣間見られる作品です。

「改悛の聖ヒエロニムス」

これは早熟の天才デューラーが、25歳の時に描いた「改悛の聖ヒエロニムス」です。デューラーは制作の2年前に所帯を持ち、そのあとイタリアへの2度目の修行旅行も果たして、画家として脂が乗ってきたところでした。作品は梨の木のパネルに油水混合技法で描かれています。
画面中央で跪いているあご髭を生やした初老の老人が聖ヒエロニムスです。彼は4世紀後半から5世紀にかけて活躍した聖人で、教会博士の名でも呼ばれえる神学者でした。
聖ヒエロニムスは当時の教皇ダマスス一世の命によって、古いラテン語の新約聖書をギリシャ語年から原書からラテン語に翻訳し、旧約聖書はヘブライ語からラテン語に訳し直すという偉業を20年以上の歳月をかけて成し遂げました。彼の訳した聖書は、ずっと後、1545年のトリエント公会議で、公式のラテン語聖書と認められました。

「夜の天体」

「星の落下」

ところで、いきなり横道にそれますが、このパネルの裏には「夜の天体」と呼ばれる、隕石落下のエピソードが描きこまれています。これは、「エンシスハイムの隕石」と呼ばれている、1492年11月16日の当時のハプスブルグ・オーストリア領、現在のフランス・アルザス地方のエンシスハイム村の近郊の麦畑に落下した本物の隕石です。落下当時は150キロもあった大きなもので、落下地点に直径2メートルものクレーターを作りました。

うわさを聞いてやってきた神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、それを神からの「縁起の良い知らせ」として、村の教会の内陣に鎖宙づりにさせました。この隕石は、宙づりのまま1793年まで教会で保管されていました。
デューラーが描いた「夜の天体」は、このエンシスハイムの隕石落下の様子を描いたものというのが通説になっています。

それでは、デューラーは単なる好奇心から、4年前に見たか聞いたかした隕石の落下を気まぐれに聖ヒエロニムスの絵の裏に描きこんだのでしょうか。
これは決して偶然ではありません。まず新約聖書の「ヨハネの黙示録」の第6章に、腐敗した世の中に天罰の一つである「天の星は地上に落ちた」という記載があります。つまり「星の落下」はれっきとした聖書のエピソードなのです。しかもデューラーは翌年の1497年から1498年にかけて、木版画芸術の最高峰ともいえる「ヨハネの黙示録」の挿絵15枚を制作して、そのうちの一枚が「星の落下」でした。
それに「星の落下」は、当時の民衆の間で広く信じられていた世紀末思想の一つである「最後の審判の15の前兆」の11番目の印でした。
皇帝マクシミリアン1世が、「最後の審判」を暗示するはずの隕石を、神の「縁起の良い知らせ」と言って教会に宙づりにしたのには、為政者として民衆の不安を取り除くためだったのでしょう。

それでは本題に戻ります。この絵には、ヒエロニムスの荒野での4年に及ぶ苦業と、後にライオンを手なずけたエピソードの二つが合成されています。その二つのエピソードを13世紀に書かれた聖人伝説「黄金伝説」からご紹介しましょう。まず「荒野での苦行」には次のように書かれています。
「荒野での苦行」
彼は荒野に出ていった。そこで(イエスがかつて行った荒野の)苦行を行った。「私は砂漠にとどまって、ひどい場所で、灼熱の太陽に焼かれながら孤独に耐えた。でも私は、砂漠の中でも、ローマで数多くの誘惑の中にいると信じて修業を続けた。苦行衣で被っていた身体のあちらこちらが変形して、醜悪な様相を呈していた。肌は汚れ、まるでエチオピア人のような色になっていた。毎日涙を流さず、うめき声をあげずには生きていけなかった。もし睡魔に襲われたなら、私の乾いた骨のために乾いた土の上で寝た。(中略)もし主が、私に平穏をくださったなら、昼夜の区別なく自分の胸をたたき続けた。」彼は荒野で改悛の苦行を4年間行った後、ベツレヘムに帰った。
「ライオンのエピソード」
次にライオンのエピソードです。修道院で、ヒエロニムスが修道僧たちと聖書を読んでいた時、ライオンが足を引きずりながらやってきました。修道僧たちは驚いて逃げてしまったのですが、ライオンは怪我した足をヒエロニムスに見せました。とげが刺さって、そこから傷口が広がっていたのです。ヒエロニムスは修道僧たちを呼び戻して可能な限りの手当てを施しました。
怪我が治ったライオンは、それ以来修道院で飼われることになりました。その頃、修道院にはロバがいて、毎日森から薪を運んでくるのが日課になっていました。ライオンはそのロバを守って監視する役になりました。
ある日、ロバが森で草を食んでいた時、ライオンは不覚にもぐっすり寝てしまいました。その間に、偶然通りかかったラクダの隊商がロバを見つけて、だれも見ていないのを幸いにロバを盗んでいったのです。目が覚めたライオンは、そこら中ロバを探し回りましたが見つかりません。それでたった一匹で修道院に帰っていきました。でも、それを見た修道僧たちは、おなかが減ったライオンが、ロバを食べてしまったと誤解してしまいました。そしてライオンは、ロバを食べた罰として、毎日ロバの代わりに森から薪を運んでくる仕事を言いつけられました。
ところが、ある日久しぶりに草原を走っていったとき、偶然、隊商たちがラクダと一緒に友達のロバを連れているのを見つけました。隊商たちは、現れたライオンを見て逃げ出したのですが、ライオンは、そのままロバとラクダたちを修道院まで連れて帰り、修道僧たちの大歓迎を受けたということです。
「画面概説」
それでは、もう一度画面に注目してください。場所は恐らくパレスティナかシリアの荒野でしょう。背後に幻想的な岩山が見えます。これと同様の岩山は「レオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』にも描かれています。また画面左上に覗く教会の屋根は、場所が人里離れた荒野であることを暗示しています。
一日中苦行を続けていたヒエロニムスは、遠くの空が夕日で赤く染まっているにもかかわらず、まだ修業を続けています。彼の横ではライオンが見守っています。
彼の苦行中には、ライオンはまだいなかったはずですが、ここでは、後のエピソードを暗示していると考えられます。もしくは画面上の男が、ライオンで有名なヒエロニムスであることを容易に分からせるための印として用いているとも考えられます。この種の印を「アトリビューション」といいます。
彼の前には、枯れ木に差し込んだ十字架が見えます。その十字架を見つめながら、彼は襲ってくる睡魔と闘おうとして、右手に聖書を、左手に石を握って、その石で自分の胸を打っています。
彼の足元には、枢機卿を意味する赤い服と円盤状の大きな枢機卿帽子が脱ぎ捨てられています。枢機卿とは法王の最高顧問の職で、過去に日本の司教も5人ほど枢機卿に任命されました。現在の枢機卿の帽子は、正面に3つまたは4つ角のあるものですが、昔は円盤状で、現在でも枢機卿の基本的な紋章には、円盤状の帽子があしらわれています。

ここで、最初に説明した世紀末思想の反映である「星の落下」について思い出してください。デューラーが活躍した15世紀末のドイツでは、単に世紀末思想だけでなく、僧侶階級の腐敗も目立っていました。この絵の制作の翌年には、フィレンツェで宗教改革の先駆者と見做されるサヴォナローラが処刑され、21年後の1517年には、マルティン・ルターの95条の論題によって宗教改革が始まりました。
デューラーはこの絵で、聖書をラテン語に訳したヒエロニムスの苦行を表すことで、腐敗した世の中に「聖書への復帰」を求めたように感じられます。

「4人の騎士」

これはデューラーの木版画の最高峰ともいえる「ヨハネの黙示録」の15枚のうちの一枚である「4人の騎士」です。当時、世紀末を予言していると広く民衆に信じられていた新約聖書の「ヨハネの黙示録」の第6章に書かれているエピソードです。
天界の子羊が、主が手にした巻物の7つの封印のうち、第1から4番目の封印を開く度に現れた4人の騎士を視覚化したものです。
デューラーはこの15枚の版画を個別にではなく、一冊の本として「ヨハネの黙示録」のラテン語全文を見開きページの左側に、挿絵の版画を右に添えて印刷させました。これは1445年ごろに、ドイツのグーテンベルクが発明した活版印刷技術に、 さらに芸術性をも加えて発展させたことになります。

まず細部の解説に入る前に、少し技術上の点に触れます。この絵は縦39.5センチ、横28.5センチの小さな「板目凸版木版」(いためとっぱんもくはん)です。
板目とは木の幹に沿って縦向きに切った板のことです。バレンでこすってインクを紙に刷り込み場合には、大抵この板目の板を使用します。代表的な例は浮世絵です。凸版とは、元となる絵を板に転写またはコピーしてから、その褐色の線の描画部のみを残して周囲を彫り込み、版画で黒い線となる部分を、周囲よりも突起させることです。そして彫り残した突起部分にインクを塗って、紙を乗せてバレンでこすって印刷します。
こういえば何でもないようですが、実際には髪の毛ほどの線を彫り残した跡が画面いっぱいにあり、まさに1ミリ単位以下の、金銀細工師の神業のようなものです。版木(はんぎ)を彫ったのは別の職人であろうという意見も少なくないのですが、デューラーが幼い時に、父の工房で金銀細工師としての修行を積んだことを考えれば、自分で彫った可能性は否定できません。

それでは画面に注目してください。ここに書かれた4人の騎士は、右端から順に見ていくと理解しやすくなります。まず、一番右の騎士を見てください。弓矢をもって突進しています。これは「白い騎士」と言って、「ヨハネの黙示録」第6章に次のように書かれています。「白い馬が現れ、乗っている者は弓をもっていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った」
この「白い騎士」が神学上何を意味するのかは神学者の間でも意見が一致していないようですが、乗っている馬の色が、純粋さを表す白であること、また「勝利の上に更に勝利」と書かれてあることから、私はイエスを暗示しているのではと思います。
また、19章にはもう一度白い馬の記載があって、そこには「見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』『真実』と呼ばれて、正義をもって裁きまた戦われる。」と書かれています。ますますイエスのように感じられます。

2番目の騎士は剣を頭上に振りかざしています。これは俗に「戦争の騎士」と呼ばれています。その者については「火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。またこの者には大きな剣が与えられた。」と書かれています。

中央に一番大きく描かれた3番目の騎士は、黒い馬に乗って右手で天秤を持っています。この天秤は決して銀行業や裁判官を表してはいません。穀類が高騰して民が飢えて飢饉になることを意味しているのです。

最後の4番目の騎士は青白い「死の騎士」です。このガリガリの骸骨みたいな騎士には「地上の4分の1を支配し、剣と飢饉と死をもって、さらに地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた」と書かれています。その「死の騎士」の下には、殺された人々が横たわっています。左端には、王冠をかぶった王様の姿も見えます。
この絵ではデューラーは決して聖書の記載を完全には忠実に表そうとはしていません。でも素晴らしい想像力と技術が結集して、木版画の技術は頂点に達したといえます。

「野うさぎ」

「大きな草むら」

デューラーは人物だけではなく、動植物の描写でも素晴らしい業績を残しました。その中でも、ウィーンのアルベルティーナ美術館が所蔵するこの「野うさぎ」が最も有名です。縦25センチしかない小品ですが、水彩絵の具で、細筆を使ってまるでうさぎの毛一本一本が見えるかのように描かれています。またうさぎの瞳も、拡大写真で観察すると、うさぎの瞳には外の世界が映っているような錯覚に陥ります。
デューラーは野生のうさぎをどのようにスケッチしたのか全く感心してしまいます。また何の目的でデューラーがこのうさぎを描いたのかは不明ですが、1504年作の銅版画「アダムとエヴァ」の下側にうさぎは描かれていることから、そのための習作であった可能性もあります。
またアルベルティーナが所蔵する「大きな草むら」は、デューラーの細密画家としての才能を十分に発揮した作品です。日本では「芝草」というタイトルでも知られています。沼地に生えた種々雑多な雑草が、現代のスーパーリアリスムの作品としても通用しそうなくらい迫真に迫っています。「野うさぎ」とならんでデューラーのリアリスムの傑作の一つに数えられます。
注意して草を一つひとつ観察すると、左側には黄色い蕾のあるタンポポが、右下には大きな葉のオオバコが描かれているようです。植物学者の見解では、さらに牧草の一種のカモガヤとか、セイヨウノコギリソウ、その他全部で9種類の草が描かれているそうです。
ここまでリアルなので、当然現場でスケッチしたと思いたいのですが、チューブ入りや固形の水彩絵の具がなかった時代のことです。おそらく草の種類別にアトリエ内でスケッチした後、それらをデューラーの天才的な想像力で「合成」したと考えるのが妥当かもしれません。

「28歳の自画像」

これはデューラーが28歳の時に描いた自画像です。「毛皮の襟のコートの自画像」とも呼ばれます。これはデューラーの最高傑作というだけでなく、贋作の歴史という観点からも、非常に興味深いエピソードがあります。

それでは、まずミュンヘンのピナコテークが所蔵する真作からご説明します。この自画像は、対称的で厳密な構図が特徴です。彼の顔と体はほぼ完全に正面を向いており、この対称性は神聖なイメージを強調しています。また彼は正面を見据え、観る者と直接目を合わせています。これらの表現法は、当時のキリスト像に似ています。つまり、彼は自身をキリストに似せることで、芸術家としての神聖な使命感を示したと考えられます。
左上には、彼のイニシャルのDとAを金文字で組み合わせた、モノグラムと呼ばれるサインと、制作年の1500が書き込まれています。
この事実上のサインであるモノグラムの存在は、それ以前のルネッサンスの巨匠達であっても、大半が作品に署名を入れなかった時代に、画家が「これは自分の作品である」と表明した点で画期的です。特に版画家としても名高かったデューラーは、生前から自分の版画が模作されて、流布していることに悩まされていました。
まだ著作権という概念自体がなかった時代に、金文字のモノグラムは、唯一真作であることを示す証だったのです。ただし贋作者が、モノグラムもコピーしてしまうこともありました。

「28歳の自画像」-拡大図(金文字部分)

次に画面右上に注目してください。デューラー自身によって、ラテン語で次のように書き込まれています。“Albertus Dürer Noricus ipsum me proprijs sic effin gebam coloribꝫ aetatis anno XXVIII.”「私はニュルンベルクのアルブレヒト・デューラー。私は自分を永久な色で描写する。28歳」
彼はここで「永久な色」と書いています。これは、一種のナルシストであったデューラーが、自分の名声が永久不滅であるようにと願ったという解釈が一般的です。確かに、彼はこの自画像をずっと手元に置いておいて、死ぬ直前に地元のニュルンベルク市に寄贈か売却されて、1805年まで市役所に展示されていました。
でも、画家の立場から考えるなら、「永久な色」の意味には、次の2通りの解釈が可能です。

「13歳の時の自画像」

「アザミを持つ自画像」

「自画像」

1.彼が堅牢性に富んだ絵の具の開発に成功したことを意味します。油絵具の原料となるオイルは、乾性油と呼ばれるもので、これは約180度の温度で4~5時間熱し、それを日光(紫外線)に当てて、酸素を吸収させることで、徐々に体積を減少させながら固体になります。この酸化重合と呼ばれる工程を経た蜂蜜状の粘性の高いオイル(乾性油)を絵の具に使用すると、何十年たっても色が暗くなりにくい、つまり「永久の色」が作れるのです。ただしこのままだと粘性が高すぎて筆が負けてしまうため、テレピン油を蒸留して混ぜる必要があります。このテレピン油の製造法も「永久の色」の秘密の一つです。
つまり、彼が工夫を重ねて、油絵の具に混ぜる乾性油をはちみつ状に半ば乾燥させ、非常に堅牢性に富んだ理想的な酸化重合オイルに加工して、さらにテレピン油の製造業者の協力も得ていたと考えられます。これが一つ目の解釈です。

2.デューラーは、「永久」という文句に、もう一つ別の意味合いを込めたと思われます。デューラーは画中で、当時の肖像画の常識に真っ向から反して真正面を向いています。見開いて正面を凝視した顔が、薄暗い背景から浮かびあがり、彼の長い天然パーマの髪の毛は、リアルさを増しています。そして彼の軽く胸元まで上げた右手は、祝福を与えるイエスのジェスチャーのようです。つまり「永久の色」とは、「人間はやがて死んでしまうが、キリストは永久不滅である」ことを暗示していると考えられます。

「サルバトール・ムン ディ」 レオナルド・ダ・ ヴィンチ
1500年頃

ところで、これを過去の3枚の自画像と比較しても、表現法が全く異質であることに気づくはずです。過去の3枚はすべて、向かって右に30度身体を回して、神妙な面持ちでポーズをとっています。それに対して1500年の自画像は正面向きです。ルネッサンス期からバロック期にかけて、正面向きまたは真横の肖像画は、ハンス・ホルベインの肖像画等に極めて稀にあるだけです。
特に真正面の肖像画は、当時のキリスト像と聖母像にほぼ限定された描き方であったと言えます。また17世紀のフェルメールが「天文学者」を真横にして描いたのは、それが近所の天文学者を描いたのではなく、旧約聖書のモーセのイメージを表しているからです。
もう一度「自画像」に戻りましょう。この画面から受ける印象は、極めて厳かで威厳に満ちて神聖ですらあります。それに真偽の疑わしいダ・ヴィンチ作とされるキリストを表した「サルバトール・ムンディ」に画風が似ていることも、興味深い点です。少なくともこの自画像が、イエス・キリストを表しているという見解には説得力があります。
それに、これが単なる肖像画でなくキリスト像だからこそ、デューラーの死の直前に、彼の生地であるニュルンベルクに寄贈されて、市役所の「銀の間」に1805年まで、約3世紀間にわたって掲げられていたのでしょう。

また彼が1943年に描いた「悲しみの人としてのキリスト」という素描の顔が、「自画像」に似ていることもイエス説を強めています。キリストの顔のモデルを自分の顔にした例は、17世紀の巨匠ルーベンスの大作「ゴルゴタの道行き」(ベルギー王立美術館)にも認められます。

「苦しみのキリスト」

「ゴルゴタの道行き」

ところで、この絵にはもう一つの解釈が可能です。「自画像」の2年前に制作された、木版画15枚からなる「ヨハネの黙示録」があります。これは当時、世紀末を予言していると広く民衆に信じられていた、新約聖書の「ヨハネの黙示録」からインスピレーションを得ています。
そして「自画像」が制作された1500年、つまり世紀が変わった年に、人々はそれまで恐れていた世紀末の破局が避けられたことを知りました。つまり、「自画像」には、世紀末の戦争や、飢饉、恐ろしいペスト等から自分たちを守ってくださったイエス・キリストに感謝して、主を信じて真面目に生きていこうという、一種の信仰告白が込められていたと考えられます。

「自画像」の贋作
生前から西ヨーロッパで人気を博していたデューラーは、彼の版画の贋作に悩まされていました。版画の模作は、いったん版さえ作れば大量に売りさばけます。彼の死後も、模作は増え続けて、一説よれば19世紀までに、その数は数十万点に達したであろうと推定されます。
これに似た現象は、「快楽の園」を描いた怪物画家ヒエロニムス・ボスの油絵と版画でも起こりました。ボスの模倣者として最も有名な画家は、農民画家ブリューゲルです。ただしブリューゲルは、初期のボス風の画風から脱して、「バベルの塔」や「幼児虐殺」等に認められるような、スペイン圧政への抵抗画家として、見事な転身を遂げました。

デューラーの数多い贋作の中で、最も有名な物が、ニュルンベルクのデューラーハウスにあります。この贋作は、1799年頃ニュルンベルクの画家Abraham Wolfgang Kufner(アブラハム・ウォルフガング・キュフナー)によって、本物を横において、巧妙に作られたものです。
キュフナーは、当時ニュルンベルクで安定した評価を得ていた画家兼版画家でした。その彼に、ニュルンベルク市はデューラーの「自画像」を貸し出しました。
貸し出された理由は不明ですが、恐らく、ニュルンベルクまで進出していたフランス革命軍から、作品を隠して保護する目的があったのではと推測されます。
しかし、デューラーの真作を預かったキュフナーは、魔が差して、実に手の込んだ贋作作りを計画しました。
彼は、補強のために麻布で補強されていた真作の木製パネルを、鋸でちょうど半分の厚みになるように切断して、2枚のパネルにしました。つまり、本物はパネルの厚みが半分になったとはいえ、表側はそのままでした。そして、その「本物」の裏側に、補強用の麻布を貼り付けて、さらに赤いスタンプを押して、何事もなかったかのように偽造しました。
一方、半分にされた裏側のパネル(オリジナル)の内側には、何も描かれていないわけですが、キュフナーは「本物」を横に置いて、そこに巧妙に模写したのです。そして、その贋作(木のパネルだけは本物)を元の額縁に収めて、後日ニュルンベルク市に返却しました。
キュフナーは、その後1805年に、秘かに隠していた本物の「自画像」を、ミュンヘンのバイエルン選帝侯美術館に売却することに成功しました。しかしニュルンベルク市には、市が真作と信じ続ける「自画像」があったので、彼の犯行が明るみに出た次第です。
ミュンヘン側は、被害者のニュルンベルク市に、売却された真作は「正当な売買によるものだった」と主張して返却を拒みました。その結果、真作は今でもミュンヘンのピナコテークが所蔵しています。一方、キュフナーが描いた贋作は、ニュルンベルクのデューラーハウスに保管されています。また犯人のキュフナーは、事件発覚後、数年間の禁固刑を受けましたが、出所後はニュルンベルクに戻って、画家として生涯を終えたようです。

さて真作と贋作を並べて比較すると、その違いは歴然としています。贋作は全体的に細部がぼやけていて、背景のモノグラムと右のラテン語の文字が消えています。また天然パーマの長髪も、霞がかかったようになっています。

「28歳の自画像」

(贋作)「28歳の自画像」
アブラハム・ウォルフガング・キュフナー 1799年

この両者の差は、真作が、制作からすでに300年ほど経過していたために、ニスが老化して暗色化し、その上、画面表面がずいぶん汚れていたためと思われます。贋作者の犯罪行為は一切擁護しませんが、キュフナーは、真作の細部が模写できなかったというよりも、真作の劣化と汚れによって、細部を正確に模写しようがなかったのです。
地方の一画家として歴史に埋没するはずだったキュフナーが、この贋作一点で、歴史に名を残したことは非常に皮肉な話です。幸い、たとえ贋作者の名が犯罪史と贋作の歴史上に残っても、贋作自体は、ヨーロッパでは多くの国で破壊処分になり、フランスでは贋作の写真の公表自体が違法となっています。でもキュフナーの贋作は、歴史的に特殊なケースとして保管されて残り、写真もインターネット上で見ることのできる、数少ない例です。

「アダムとエヴァ」

これはデューラーの銅版画「アダムとエヴァ」です。プラド美術館には、等身大の油彩画「アダムとエヴァ」も所蔵されています。
まず版画のアダムとエヴァの肌の部分に注目してください。1498年制作の木版画「4人の騎士」と比較すると、「アダムとエヴァ」には肌の部分にほとんど線描描きした跡が見えません。それでもちゃんと陰影がついています。実際には、デューラーはビュランと呼ばれる細いノミで、非常に細かな線を使って、遠くからでは線の集まりだとは思えないほどデリケートな描写法をここで完成させました。
例えば影をつける時には平行な線を集めて、濃くするにはその密度を上げたり、垂直な線を交差させて濃度を調整しています。彫り残した線にインクを乗せる木版画では、そこまで微細な作業は不可能でした。デューラーが木版画から銅版画に移行したのには、技術上の必然性があります。
同じ年にデューラーが描いたインク描きの習作と比較しても、その完成度には唸らされます。
完成度の高さは版画の技術だけではありません。この版画が制作されたころ、ヴェニス生まれで、ちょうどデューラーと同じニュルンベルク市に住んでいて、皇帝マクシミリアン一世に抱えられることになったイタリア人の画家兼版画家ヤコポ・デ・バルバリから、人体の理想的なプロポーションについて大きな影響を受けたことが知られています。
デューラーによる人体の理想的なプロポーションの探求は、彼の死後に出版された絵画論である「比例概論」によって知ることができます。
この版画による「アダムとエヴァ」はデューラーによる人体比例の探求の最初の帰結と言えます。

「アダムとエヴァ」 拡大図1

アダムとエヴァ」 拡大図2

「アダムとエヴァ」 拡大図3

それでは改めて画面に注目してください。場所は旧約聖書創世記に書かれたエデンの園です。画面中央には、神がこれだけは食べてはいけないといった善悪の知識の樹が描かれています。その木の下側を注意してみると、なんだか人の顔に見えます。デューラーが意図的に企んだように思えます。
そして、その木の両脇に立ったアダムとエヴァが、やや暗く描かれた背景の森から浮き出ています。俗にいう「北方ルネッサンス」の油彩画において、上半身を描いた肖像画の背景を暗くして人物を浮かび上がらせる方法は、15世紀半ばから行われてきました。
しかし、私の知る限り、版画の歴史において、明るい人物像の全身が、暗い背景から浮き出たような描き方がされた最初の例の一つです。これは、それ以前の木版画では、画面上にデリケートな明暗をつけるのが困難だったためです。
また画中には、ネズミ、眠たそうな猫、アダムの後ろの牡鹿、エヴァの足元のウサギ、右端の牛が描かれています。それから忘れがちですが、画面右上の岩場の上には、山羊が一匹描かれています。
あえてこれらの動物に寓意学的解釈を加えるなら、牡鹿は男性の性的アレゴリーです。またウサギには現代仏語でもchaud lapin(熱いウサギ)という表現があって、好色または精力絶倫という意味があります。どうやらアダムの背後に牡鹿を、エヴァの足元にウサギを描きこんだのは、決して偶然ではなかったようです。

ところで、中央の善悪の木に蛇が巻き付いて、エヴァに禁断の実を渡しているように見えます。聖書には、決して蛇がエヴァに禁断の実を渡したとは書かれていないのですが、デューラーが精いっぱい想像力を働かせた所産でしょう。
エヴァは、左手に禁断の実をすでに隠し持っていて、これを、アダムが躊躇しながら差し出した左手に渡そうとしています。

またアダムは右手で木の枝をつかんでいます。その枝には、オウムが止まっていて、枝につるされた看板には、まるでオウムが言ったかのように、デューラーの名前とサインが書かれています。このあたりが天才デューラーの茶目っ気です。

この版画において、デューラーはもう一点、歴史に残ることをしました。二人の足に注視してください。アダムは右足を半歩後ろにずらして、つま先で立ち、踵を宙に浮かせています。反対にエヴァは、左足を軽く曲げて、つま先で立っています。このようなポーズは「コントラポスト」といい、古代ギリシャ彫刻によく見られる女性の身体を美しく見せる方法です。典型的な例は「ミロのビーナス」です。デューラーはドイツ・ルネッサンスにおいて、初めて「コントラポスト」を取り入れた一人です。

アダムとエ ヴァ」 ルーカス・クラナッハ(父) ベ ル ギー王立美術館蔵

アダムとエ ヴァ」 デューラー 1507年 プラド美術館

次にマドリッドのプラド美術館が所蔵する、3年後に板に油彩で描かれた等身大の「アダムとエヴァ」を見てみましょう。ここでは、二人の身体は完全な8頭身で描かれています。またエヴァの「コントラポスト」のポーズがより誇張されて、より色っぽくなりました。彼女は少し身体をひねりながら、横目でアダムを誘惑しているようです。一方アダムは、躊躇しながらも、すでにリンゴを受け取って、身体も視線もエヴァの方に吸い寄せられています。
版画では描かれていた森も動物たちも省略されて、二人の裸像が暗いバックからくっきりと浮かび上がっています。宗教画でありながら、エヴァの裸体美が強調される結果となりました。

さらにこの絵を、同時代に活躍したドイツ・ルネッサンスのもう一人の巨匠クラナッハの描いた「アダムとエヴァ」と比較してみると、同様に8頭身で、まるでデューラーの版画と油の2枚の「アダムとエヴァ」を足して2で割ったような画風になっています。16世紀初頭のドイツ絵画の変遷をたどる上で、興味深い点です。

「ヘラーの祭壇画」
後年のコピー(オリジナルは1507-09年)フランクフルト歴史美術館

これはデューラーが1507年から1509年にかけて、フランクフルトのドミニコ会士教会のために制作した多翼祭壇画です。デューラー自身が描いた中央パネルには「聖母被昇天」と「聖母の戴冠」、二つのエピソードが描かれています。これらのエピソードは、聖書には記載がないために、1517年から始まった宗教改革後は、プロテスタントの間では避けられるようになりました。
注文主はフランクフルトの裕福な織物商人であり、フランクフルトの市会議員でもあったヤコブ・ヘラーです。祭壇画の名前「ヘラーの祭壇画」は、この寄贈者ヤコブ・ヘラーの名にちなんでいます。
弟子が描いた左のパネルには、注文主のヤコブ・ヘラーの守護聖人である大ヤコブの殉教図が描かれ、その下にはヤコブ・ヘラーが帽子を脱いで、跪く姿が描かれています。右のパネルでは、妻カタリナの守護聖人であるアレクサンドリアのカタリナが、彼女の殉教のシンボルである潰れた車輪と一緒に描かれています。その下には、彼女がロザリオを手にして祈る姿が表されています。
残念ながらこの絵は、後の1614年にマクシミリアン一世バイエルン公が購入したのち、ミュンヘンの宮殿で発生した火事によって焼失しました。幸い購入直後にヨプストゥ・ハリッヒという画家が制作したコピーによって、オリジナルの様子を知ることができます。

それでは、まずこの中央パネルに描かれた「聖母被昇天」のエピソードについてお話ししましょう。「聖母被昇天」と「聖母の戴冠」という伝説は、新約聖書には記載がありませんが、13世紀にヤコブス・ド・ヴォラギネというドミニコ会出身のジェノバの大司教が編集した聖人列伝「黄金伝説」に書かれています。
聖母は15歳でイエスを生み、33年間イエスに付き添った後、48歳の時にわが子が十字架につけられました。聖母はその後も24年間生きて72歳になりました。
その聖母マリアが、やってきた天使によって3日後に天に召されることを知り、世界中に宣教に行っている使徒たちが、自分の臨終に立ち会ってくれるように天使に願い入れ、聞き入れられました。
まずイエスの愛弟子だった聖ヨハネが白い雲と共に聖母のところに現れ、次に他の使徒達も現れてきました。

「ヘラーの祭壇画」 後年のコピー 中央パネル

「聖母の戴冠」

そして臨終のとき、彼女の魂は現れたイエスに抱かれて天に運ばれました。その後、使徒達はイエスの指示にしたがって、聖母の遺体をジョザファットの谷に運び、そこで見つけた新しい棺に遺体を収めました。このジョザファットの谷は、イエスが磔になる前夜に最後の祈りをしたオリーブ山のあるところです。
その三日後に、イエスが天使たちと共に降りてきて、使徒と3人の処女達の前にあらわれ、次に聖母の魂が現れました。その聖母の魂が棺を開けて、聖母の身体を大勢の天使たちが天国に運び上げたという伝説です。つまり聖母は魂も体も天国に上がったというカトリックの重要な教義です(聖母被昇天は、プロテスタント教会は認めていない)。
それでは中央パネルに注目してください。バチカンが所蔵するラファエロの「聖母の戴冠」と比較すると、構図とコンセプトに近似性が高く、デューラーが2度のイタリア旅行中にそれを見て、影響を受けた可能性があります。棺から聖母の遺体が消えたことに気づいた12人の使徒達が、一斉に天に上った聖母を見上げています。でも中央の白い衣の使徒は、聖母が棺から消えたことが信じられずに、棺の中を覗き込んでいます。右の赤い衣の使徒は、両手を合わせて祈っています。
この合掌する手の素晴らしいデッサンがウィーンのアルベルティーナ美術館に保存されています。また右下で跪く使徒の足の裏のデッサンは、ロッテルダムのボイマンス美術館に所蔵されています。

「合唱する手(デッサン)」

「足(デッサン)」

左端のブルーの使徒は、全然関係ない左の方を向いています。これは使徒の間でも、信仰の度合いに差があることを表しています。
画面の中央の田園風景に注目してください。遠くに長髪の男性が大きな看板を持って立っています。これはデューラー自身です。その看板の下に、はっきりとデューラーのサインが見えます。

「ヘラーの祭壇画」後年のコピー 中央 デューラー自身

「ヘラーの祭壇画」後年のコピー 中央パネル 三位一体

次に画面の上部を見てください。天に魂と身体の両方を持ち上げられた聖母は、主とイエスと聖霊によって勝利の冠をかぶせられるところです。向かって右側が主です。左手に地球を表す球を持っています。左のイエスの脇腹には、十字架上で槍に刺された聖痕が見えます。一番上の輝く半円の中には、白い鳩の姿をした聖霊が描かれ、これによって三位一体を表しています。
その下で聖母を持ち上げる天使たちには、二通りあることに気づくと思います。まず顔しか見えずにあとは全部翼で覆われている天使です。これは最上位の天使でセラフィムと言います。次に顔と翼と手も見える天使です。これは智天使(ちてんし)またはケルビムと言って、上から2番目の地位にある天使たちです。イタリア絵画では、プットの名でも登場する愛嬌のある天使たちです。右上のケルビムは竪琴をもっています。

「メランコリア」

これはデューラーの銅版画の最高傑作とみなされる「メランコリア」です。エングレービングと言って、銅板に極細のノミのようなもので、線状の溝を彫り込んでいく技術です。この版画のタイトルは、左上のコウモリの羽に書き込まれています。でもそのタイトルの最後に大文字のIが見えます。これはずいぶん過去から現在まで論議を呼ぶ謎の一つです。

「メランコリア」 拡大図 タイトル部分

ただの飾りという説もあれば、当時のドイツでTYPUSと呼ばれた記号であるという興味深い説もあります。Typusというラテン語には、イメージ、シンボルといった意味があり、この画面上にたくさん描かれた謎の寓意を示唆していると考えると納得がいくと思います。タイトルからしてこんなに謎に包まれていますので、非常に謎ときには面白い作品と言えます。
そこでデューラーの作品の分析の仕方をここで変えてみます。彼が後世に影響を与えた画家の作品からスタートして、この「メランコリア」に逆戻りして考察してみたいと思います。その考察に使うのが、この17世紀初頭にローマ、マントバ、ヴェニスで活躍した画家ドメニコ・フェッティ作の「メランコリー」です。マントバ時代には、カラヴァッジョとルーベンスの影響を受けた、明暗の激しい画風が特徴でした。でも人生最後の2年間滞在したヴェニスの画風に染まって、通常ヴェニスティア派と定義づけられることの多い画家です。残念ながら34歳の若さで早世してしまいました。
フェッティ作の「メランコリー」は、彼の作品中最も完成度の高い作品の一つで、当然注文が相次いだらしくて、数点の異なるバージョンが知られています。その中でも有名なのが、ルーヴルとヴェニスのアカデミア美術館所蔵の二つのバージョンです。両者の構図はほぼ同じですが、ヴェニスバージョンは、背景が茶色になっていることと、背景の右上が緑の植物で覆われている点が異なります。

「メランコリー」

ドメニコ・フェッティ作の「メランコリー」(ルーヴル・バージョン)概説
絵の舞台は荒野の中の廃墟です。そこに若い女性が跪き、大きな石の上に聖書らしい本と頭蓋骨を置いて、それらを右腕で抱え込んでいます。憂色漂う情景です。
ここでは仮に「若い女性」と書いておきますが、注意してみると、100パーセントの確信をもってこの人物が女性だとは言い切れません。女性っぽい美男子、もしくはアンドロジンヌ(男女両性)といっても差支えないはずです。このようにモデルの性別が不明瞭、またはあえて男性を女っぽく描いた例は、カラヴァッジョの代表作の一つ「果物籠を持つ少年」を挙げることができます。

「彼女」は左手を額に当て、頭蓋骨の上に覆いかぶさるようにして瞑想にふけっています。このように、女性が頭蓋骨を持って瞑想する祈る姿は、イエスの女性弟子だったマグダラのマリアの典型的なポーズなのですが、この絵では、直接マグダラのマリアを表しているわけではなさそうです。

彼女の足元には灰色で足の長い犬がいて、右端の棒につながれています。これは猟犬のグレイハウンドに似ています。これは愛する者への忠誠のアレゴリーと解釈されてきましたが、本当の意味は後述します。
その犬の左右には、床に水瓶、筆の束、パレット、彫刻に大きな本が無造作に置かれています。筆とパレットの存在は、画家自身の祈りを画面上の女性に託しているとも想像できます。
また画面左の暗色化した部分には、かすかに地球儀と砂時計のようなシルエットが見えます。砂時計は17世紀のフランダースやオランダで「ヴァニタス」という静物画で頻繁に用いられたモチーフで、通常人生の儚さと不可避の死を暗示します。
しかしここでは、地球儀と砂時計の存在は、科学の進歩を暗示して、背後の廃墟と並置することで、神の教えに反した科学の発展を戒めているように思えます。

デューラーの「メランコリア」との関連性
さてこのドメニコ・フェッティの作品に、デューラーが一世紀以上前の1514年に制作した銅版画「メランコリア」がインスピレーションを与えたことは通説となっています。事実、「メランコリア」とドメニコ・フェッティの「メランコリー」には、絶対に偶然ではありえない類似性が多く存在します。デューラーの版画の理解には、フェッティの作品が大切なヒントを与えてくれます。
デューラーの版画上では、石の上に腰かけた天使が憂鬱気に左手をあごにあて、右手でコンパスを持っています。ここで、フェッティの描いた「メランコリー」の「少女」の姿とデューラーの天使を見比べてみましょう。フェッティの「少女」像は、デューラーの天使を左右反対にしたものであることは疑う余地がありません。また、元のアイデアが天使であるなら、当時の天使像の習慣に従って、フェッティがモデルをアンドロジンヌ(男女両性)として描いた理由が理解できます。

「メランコリア」 拡大図 ユピテル魔方陣

その天使の頭上には、どの方向に足し算しても答えが34となるユピテル魔方陣、別名木星魔方陣が描かれています。その一番下の行の2番目は15、3番目は14で、二つ足すと1514となって版画の制作年と一致します。

デューラーと同時代に生きたドイツの魔術師で、有名な「オカルト哲学」の著書アグリッパ・フォン・ネッテスハイムによると、メランコリーには、芸術家に関するもの、政治家に関するもの、そして神学者にかかわるものの3種類があって、それらは土星の運行によって影響を受けていると看做されます。そして、その土星の悪影響を緩和し、幸運やチャンスをもたらす衛星が木星なのです。言い換えれば、画中の木星魔方陣は、不幸から身を守る占星術的意味が込められています。
また足元には、石工や大工が使う道具類が散乱していて、少し離れたところには、石の多面体も転がっています。これは、世の中の混乱や騒動を暗示していると言えます。

次に背景の家に注目してみましょう。この家には梯子が立てかけられていて、天秤も壁にかかっています。この梯子の意味は、旧約聖書の創世記第28章に書かれた「ヤコブの夢」を暗示していると思って間違いないでしょう。イサクの息子ヤコブは、旅の途中で夢を見ました。その夢の中で、彼は端が天に届くほど高い梯子を見ました。しかもその梯子には、神のみ使いたちが上ったり下りたりしていたのです。目が覚めてから、ヤコブは枕にしていた石を記念碑として建てて、先端に油を注いでその場所を神の家と名付けました。

そして梯子の横に吊るされた天秤は、キリスト教徒が死んだ直後に、天使によって天国か地獄行きかを判断される道具です。そして家の正面に取り付けられた砂時計は、「神による審判が下る時」を表していると思われます。
また家の前には、イタリア語でプットと呼ばれる幼子の姿をした翼のついた天使が、これまた憂鬱かつ退屈そうな表情で同じ方向を所在なさげに見つめています。
そのプットの前には、地面にやや不器用な姿で猟犬のグレイハウンドが寝そべっています。フェッティの作品でも同様の犬が描かれていました。このグレイハウンドの存在は、絵の解釈で決定的なカギを与えてくれます。

この種の犬は、デューラーも2度旅行したイタリアでは、猟犬として古くから飼育されていました。現代イタリア語ではグレイハウンドはレブリエロですが、古いイタリア語ではヴェルトゥロ(Veltro)と呼ばれていました。このヴェルトゥロはダンテの「神曲」の地獄篇に地獄の猟犬として書かれています。
つまり、画中のグレイハウンドは、地獄のアレゴリーだったのです。

「メランコリア」 拡大図 猟犬

画面の左上には、海とその上にかかった虹が見えます。創世記によると、虹は、大洪水の後、もう二度と洪水を起こして生き物を滅ぼすことはないという神様がノアに言われた契約でした。つまり人類の希望の象徴なのです。
つまり、デューラーの絵には、神の家、現世の混乱と最後の審判、地獄、それに遠い海のかなたに見える神の約束である虹が、同一画面上に描かれているのです。

これで、画中の天使が何を考えているのかおよそ見当がついたと思います。画面は、悪と欺瞞が渦巻いて混沌とした世の終わり、アポカリプスを表しています。足元では、地獄の猟犬がいつ目覚めるか分かりません。でも主が約束した虹はまだ遠い海の向こうにあります。天使は悩みながらも、コンパスや天秤を使って、アポカリプス後に、キリスト者一人一人を最後の審判にかけることでしょう。

「マクシミリアン一世の肖像画」 1519年 ウィーン美術史美術館

これはデューラーと同時代を生きた神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世の肖像画です。マクシミリアン一世は芸術の愛好家であり、芸術家の庇護者としても知られています。
1477年、フランスのナンシーの戦いで、フランダースを支配していた最後のブルゴーニュ公シャルル突進公が、一人娘のマリ・ド・ブルゴーニュを残して戦死しました。その結果ブルゴーニュ公国は瓦解してしまいました。まだ皇太子だったマクシミリアン一世は、許嫁であったマリ・ド・ブルゴーニュと結婚して、フランダースの併合を企むフランスのルイ11世と戦い、フランダースを含むハプスブルク家の版図を広げた英雄と見做されます。

制作年は1519年と画面右上にサインと一緒に書かれてあります。シナノキの板に描かれた油絵ですが、一部油水混合技法が併用されていると言われています。背景には、油と混ぜると非常に濃い濁った緑になる緑土テール・ベルトが鮮やかな発色を示しているところから、背景の緑の箇所にテンペラ画法もしくは膠と混ぜたデトランプ技法が用いられた可能性があります。
またこの絵の下絵になったデッサンも、ウィーンのアルベルティーナ美術館に保管されていて、そこには「1518年6月28日月曜日 アウクスブルクの宮殿の上の階の小さな部屋で、アルブレヒト・デューラーがマクシミリアン皇帝の肖像画を描いた」と記されています。この記載のおかげで、デューラーは、皇帝が帝国のアウクスブルクの議会に参列した際に、肖像画の依頼を受けて、下絵のデッサンを制作したことが分かります。
このデッサンを元に、麻布上にデトランプで描いた実物見本が制作されました。そして翌年1月12日の皇帝の死去後に、パネル上に完成させたと思われます。

「マクシミリアン一世の肖像画の下絵」

では画面に注目してください。画面上のマクシミリアン皇帝は、伝統的な30度身体を回したポーズを取り、厚い毛皮のコートに、ブローチのついた大きな黒い帽子をかぶっています。
白くなった髪の毛と、疲れたような眼差しからは、若い時に「最後の騎士」との異名さえもった往時の雄姿は想像もできません。
左手には大きな果物を持っています、この果物はわざわざ中身が見えるように一部切り取られていて、そのおかげで、これがザクロであることが分かります。果汁が赤いために、キリスト教絵画では通常十字架でイエスが流した血、つまり受難を暗示します。幼子イエスを抱えた聖母子像には、時々イエスがザクロを持った姿で描かれています。
ここでマクシミリアンにあえてザクロを持たせたのは、彼がフランドルを領土に組み入れて、反乱やフランス王国の介入にも屈せず、版図を広げたその苦難の人生を、イエスの受難に重ねて描いたといえます。もちろん皇帝を神聖化しようとする意図もあったはずです。

「マクシミリアン皇帝の凱旋門」

しかし1500年制作の正面向きのイエスを彷彿させる「自画像」のように、決して大げさでもなければ、威厳を強調するわけでもなく、上の紋章やラテン語の説明がなければ、リアルに描写された普通の貴族の肖像画として通用するでしょう。
左上に描かれた紋章には、ハプスブルグ家の紋章である双頭の鷲があしらわれています。それを取り囲むように、かつてブルゴーニュ公国のフィリップ善良王が創設した、金羊毛騎士団の勲章が描かれています。
その横にはラテン語で、マクシミリアン1世の肩書やら生年月日、それに没した年月日等がまるで活字のような字体とローマ数字で書き込まれています。
その後、1512年に皇帝マクシミリアン1世は、ニュルンベルク市に対して、デューラーの業績と皇帝への奉仕に応えるために、デューラーの税金を一切免除するように要望しました。更に皇帝は1515年に、版画「マクシミリアン皇帝の凱旋門」の制作の対価として、ニュルンベルク市にデューラーに100グルデンの年金を、皇帝に代わって支給するように命じました。

「4人の使徒」 1526年 アルテ・ピナコテーク

これはアルテ・ピナコテークが所蔵する、デューラーが死の二年前に制作した二連画の「4人の使徒」です。彼が生まれ育ったニュルンベルクの市議会のために制作されました。これが彼の現存する最後の作品となりました。またこの作品は、デューラーのプロテスタント思想が明確に表された作品でもあります。
左のパネルには、赤い衣の聖ヨハネが聖書を読む姿が、画面上最も目立つ形で描かれています。これは、当時急速に帝国内に広まっていたマルティン・ルターの「聖書に立ち返る」思想の反映と受け取れます。

この絵の制作の9年前の1517年には、マルティン・ルターの有名な「95か条の論題」が発表され、1521年にはルターの破門。同じ年には帝国議会はルターを法の保護の外に置くと宣言しました。ルターは逮捕をまぬがれるために、フリードリヒ3世ザクセン選帝侯の城に逃げ込んで、そこで新約聖書のドイツ語訳に取り組みました。言い換えれば、これは生まれたばかりのプロテスタント思想を擁護した作品なのです。

その反対に、聖ヨハネの後ろには、半ば隠れるように、大きな金の鍵を持った聖ペテロが、聖ヨハネの持つ聖書に、うつむくように視線を投げかけています。聖ペテロはカトリック教会で、初代のローマ法王と見做されています。聖ペテロが持つ鍵は「天の国の鍵」と呼ばれていて、そのことは、マタイによる福音書第16章にイエスの言葉として書かれています。「わたしはこの岩の上に私の教会を建てる。冥府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける」
初代ローマ法王である聖ペテロを後ろの方に描いて、しかもその聖ペテロは、聖ヨハネの持つ聖書を読んでいるわけです。これは暗にカトリック教会の権威を否定していると理解できます。

「4人の使徒」 拡大図  聖ペテロ

「4人の使徒」では、白い衣の聖パウロが大きな剣と分厚い聖書を持った姿でこっちを見つめています。彼が手にする剣は、彼がローマで斬首されて殉教したことを暗示しています。また大きくて分厚い聖書は、聖パウロが「ローマの信徒への手紙」「コリントの信徒への手紙1」等、伝統的に新約聖書中の13の書簡を書いたといわれていることを示唆しています。

聖パウロの左に、胸から上だけ見える男は聖マルコです。聖マルコは聖パウロの顔をじっと見ています。冗談にも上品には描かれていません。伝承によると、聖マルコは聖パウロの通訳を務めて、聖パウロが語ったイエスの生涯を書き残したといわれています。彼が丸めた紙切れをもって、聖パウロを見つめているのは、その伝承に基づいています。

技術的な点について言えば、この作品では、晩年に取り組んだ人体のプロポーションの研究が実を結び、向かって左の赤い衣の聖ヨハネと右の聖パウロが、等身大で、かつ見事な8頭身で描かれています。しかしこの絵から受ける印象は、洗練された美しさはあっても、木版画の「4人の騎士」で見せたような野心と覇気が感じられず、何か物足りなさを感じます。人体の理想的なプロポーションを会得したのと同時に、彼の内部にマニエリスムが生じ始めていました。たとえ巨匠といえども、画法の完成は、マンネリスムの始まりということです。
またこれ以降、神聖ローマ帝国内のプロテスタント地域では、旧約聖書『出エジプト記』第20章に記された十戒の一つ「偶像崇拝するなかれ」を忠実に守るために、聖人の像が描かれることは少なくなりました。
まとめ
さて駆け足でデューラーの作品を鑑賞してみました。彼はその豊かな色彩と、繊細で緻密な描写によって、ドイツ・ルネッサンスを確立しました。また肖像画において、個々の人物の特徴を精密に描写しただけでなく、心理的深みと個性まで表現することに成功しました。さらに版画技法を高度に発展させて、それはヨーロッパ内に広く普及しました。
彼の作品とその変遷を通じて、ドイツ・ルネッサンスが、イタリア・ルネッサンスとは異質の発展を遂げて、ヨーロッパ内に大きな影響を与えたことをご理解いただけたなら幸いです。

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