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美術史家・森 耕治の欧州美術史論 Vol.7
カミーユ・クローデル、不遇の天才女性彫刻家

カミーユ・クローデル

彫刻家と呼ばれる職業が歴史上に初めて名前を残したのは紀元前27世紀のイムホテプ(?-BC2610? エジプト第3王朝の宰相占星術師、医師)まで遡りますが、女性に限ると17世紀の彫刻家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの実妹カンヴァルターノ・ベルニーニの登場を待たねばならず、さらにカンヴァルターノの没後も彫刻家=男性の職業という構図が常識とされてきました。
そんな男社会の彫刻の世界がまかり通った19世紀後半に颯爽と登場したのがカミーユ・クローデルです。彼女は自身のセンスとオリジナリティをもって優れた作品を発表し続けましたが、不幸にも同じ彫刻界の権威だったオーギュスト・ロダンと愛人関係にあったため、生涯そのレッテルに苦しみ続けました。
本来、「男性だけが彫刻家」の古い常識に風穴を開ける存在となるはずだったカミーユ・クローデル。今回は彼女の作品を通してその真実の姿に迫りたいと思います。

「老いたエレンヌ」 1881-1882年、カミーユ・クローデル美術館、テラコッタ

カミーユ・クローデルの事実上のデビュー作となった「老いたエレンヌ」別名「老婆」は、現存する作品中、最も古いものの一つです。モデルの女性は、クローデル家の年老いた召使エレンヌです。カミーユはこの像をまず石膏で制作して、3年後の1885年にテラコッタ像(素焼き)の第2バージョンを制作しました。残念ながら最初のバージョンは現存しませんが、第2バージョンが前作を忠実に再現しているとすれば、カミーユは若干17歳にして天才的な才能を持っていたと言えるでしょう。
本作品制作の約3年前から、彼女は彫刻家アルフレッド・ブーシェの個人指導を受けていました。ブーシェの作品は、やや誇張されたリアリズムによって表現された物悲し気な女性像を得意とし、その作風はカミーユのバックグラウンドにも少なからず影響を与えています。

「目標に向かう人物群」アルフレッド・ブっシェール

ところで彫刻家を志したカミーユでしたが、その頃のフランス国立美術学校には女子の入学が認められていませんでした(女子の入学が認められたのは1897年)。そこで彼女は、1881年にモンパルナスのグランド・ショミエール通りにあった私立美術学校「アカデミー・コラロッシ」(現在もある美術学校グランド・ショミエールではない)に通い、本格的に彫刻の勉強を始めます。

アカデミー・コラロッシの授業風景

同校はパリで女性の入学を認めていた二つしかなかった美術学校の一つ(もう一つはアカデミー・ジュリアン)で、後に黒田清輝が師事した外光派のラファエル・コランが絵画部門で教えていました。「アカデミー・コラロッシ」のもう一つの特徴は、ライバルのアカデミー・ジュリアンが、女性には男性の倍の授業料を要求していたのに対して、授業料の男女平等を貫いた点です。いわばカミーユ・クローデルは、女性芸術家の社会的権利がようやく認められだした困難な時期に生まれた芸術家でした。

アルフレッド・ブーシェ

また「アカデミー・コラロッシ」に入学したのと同じ年、近所のノートル・ダム・デ・ション通り117番地の部屋をアトリエとして借りて、制作活動にも取り掛かりました。ちなみにこの通りには19世紀から1920年代のエコール・ド・パリの全盛期まで数多くの巨匠たちが居住していたことが明らかになっています。
カミーユとロダンとの出会いもまさにこの頃のことでした。彼女を指導してきたアルフレッド・ブーシェのフィレンツェに留学することとなり、その代役として白羽の矢が立ったのがロダンだったのです。その時系列からもおそらく「老いたエレンヌ」もカミーユのアトリエで目の当たりにしていた可能性が高く、すでに1882年時にはすでにロダンが彼女の突出した才能に気づいていたに違いありません。

オーギュスト・ロダン(1891年)

オーギュスト・ロダンAuguste RODIN 1840-1917

19世紀フランスを代表する彫刻家。パリのプティト・エコール(後の装飾美術学校)に学んだ後、エコール・デ・ボザールを受験するものの失敗、建築装飾の仕事にたずさわり生計をたてる。1875年イタリアを旅行、ルネサンス彫刻に大きな影響をうけ、その成果は《青銅時代》(1876年)に結実する。80年にはフランス政府より、新設されたパリ装飾美術館のために扉の制作を依頼され、以後20年をかけて《地獄の門》の制作に従事する。また、84年に《カレーの市民》、91年に《バルザック記念像》と記念碑的な彫像の制作を依頼されるなど、国際的な名声を確立した。白樺派との交流など、日本との結びつきも深い。
アルフレッド・ブーシェAlfred Boucher 1850-1930
フランスの彫刻家。父親がノジャン=シュル=セーヌに住む彫刻家のジョセフ・ラムス(Joseph-Marius Ramus)の庭師になったことで、ブーシェの才能が見いだされ、ラムスから指導を受けた。地元の人々の支援を受けて、1869年にパリのエコール・デ・ボザールに入学し、ポール・デュボアやオーギュスタン・アレクサンドル・デュモンに彫刻を学んだ。1874年にサロン・ド・パリにデビューし、1877年から1878年の間、イタリアに旅した。1881年のサロンに出展した作品「La Piété Filial」は高い評価を得た。
当時としては珍しく女性にも門戸を開いており、ロール・クータン(Laure Coutan-Montorgueil)やカミーユ・クローデルの才能を見出し弟子にしたことでも知られる。

シャクランタラー

「シャクンタラー」(原タイトル SACOOUNTALA)はカミーユ・クローデルが23歳で手がけた彼女の代表作の一つです。
高さ1.9メートルにも上る男女が抱擁し合う群像は、1888年に開催された「フランス芸術家協会」の公募展に入選しました。この公募展は、17世紀から続いてきたサロン(官展)が1881年に民営化されたもので、当時フランスで最も権威のある公募展でした。その上、彼女の入選作品には、審査委員会によってMENTION HONNORABLE(モンション・オノラーブル)という評価までつきました。これは正確な意味での賞ではありませんが、事実上の「努力賞」のようなものです。まだ弱冠23歳だった新人作家カミーユ・クローデルにとって、巨匠ロダンの威光が背後にあったにせよ、輝かしい未来が開けたかに見えました。
本作は1888年の入選作(石膏像)をオリジナルと見做すのが普通ですが、それも含めて、素材と名前の異なる5つのバージョンが存在します。まず1886年作のテラコッタ(粘土の素焼き)の習作2点。サロンの入選作。1905年制作の大理石バージョン「ポモナとウェルトゥムヌス」。これは、古代ローマの天才詩人オヴィディウスの「変身物語」に書かれた恋物語のタイトルを借用したものです。また同年に制作されたブロンズ像には、ABANDON (「信頼」)という別タイトルが付けられています。
同じコンセプトの作品を、異なる材質とテクニックを違えて制作した理由は、尽きぬ探求心と向上心の表れであったと同時に、後世に残しやすい大理石とブロンズ像での制作を望んだためだと考えられます。また大理石とブロンズは非常に高価なため、使用するには発注元からの経済援助が不可欠だったことも理由の一つです。

テラコッタバージョン

「信頼」ブロンズバージョン

シャクンタラーとは
まず作品の理解のために、タイトルになっているシャクンタラーの物語をご紹介したいと思います。シャクンタラーとは、インドの叙事詩「マハーバーラタ」に登場する女性です。彼女は、プール族の王ドゥフシャンタ王との間に息子バラタを生み、バラタは後にインド全体を支配する王となりました。
しかし、カミーユ・クローデルは、直接インドの叙事詩を読んだのではなく、それを基に制作された戯曲「シャクンタラー」の第7章と8章からイメージを得て作品化しました。この戯曲は台本を詩人兼劇作家のテオフィル・ゴーティエ、作曲をエルネスト・レイエ、振付をロマンティック・バレーのリュシアン・ペティパが担当するなど、当時トップレベルの才能が結集して作られました。長い歴史の中で様々に変化してきた作品ですが、1858年7月14日に帝国オペラ劇場で初演された際のあらすじをご紹介しましょう。

-ドゥフシェンタ王は、狩りの途中で立ち寄ったブラフマー(ヒンドゥー教の神)の寺院で美しいシャクンタラーと偶然出会います。王は一目ぼれして二人は恋に落ちてしまいました。ところがそこに家来がやってきて「森の中に狂った象が出没して、森を荒らしまわっています」と報告しました。この象をしとめられるほどの武人は王以外にいないため、彼は弓矢を持って森に行ってしまいました。一人残されたシャクンタラーは、王が彼女を置いて宮殿に帰ってしまったと思い、涙に暮れて、花の上で寝てしまいました。
そこに像をしとめた王が戻ってきました。眠っているシャクンタラーを見つけて抱きしめようとしますが、目覚めた彼女は拒んで、寺院に逃げ込んでしまいます。
しかしドゥフシェンタ王は、彼女を祭壇から引き離して苔で覆われた台に連れて行き、足元に跪くと、彼女を両手で抱きしめました。恋に酔いしれたシャクンタラーは、王の肩に頭を傾け、王の額に口づけをしました。その時王は、彼女に指輪をはめました。この指輪は、王宮の扉を開けるためであり、王の婚約者である証でもありました。

カミーユ・クローデルの作品は、シャクンタラーが王の額に口づけする瞬間を表しているのです。

作品概説
サロンに出展されたオリジナルの石膏像は腕と足が失われているため、1905年に制作したロダン美術館の大理石バージョンを通して解説したいと思います。ちなみにブロンズ像バージョンには、ローマ神話の恋物語「ポモナとウェルトゥムヌス」と言う別のタイトルがつけられています。
跪いたドゥフシェンタ王に、しっかり両手で抱きしめられたシャクンタラーは、捨てられたと思いこんでいた疑念が晴れて、目を閉じたまま、夢心地で王に身を委ねています。右足をくの字に折り曲げて、右手で乳房を覆い、左腕は力が抜けたかのように下に垂れています。脱力してドゥフシェンタ王の肩に覆いかぶさるようなシャクンタラーの姿と、跪いてほぼ垂直のまま彼女の体重を支える王の姿の対比が実に美しい作品です。
1888年に石膏のオリジナルがサロンに発表された時、すでにロダンの「接吻」と「永遠の春」との類似性が指摘されており、ロダンの影響を疑う声もありました。
確かにロダンの2作も愛する男女が抱き合う姿が表現されており、カミーユの作品と全く別物とは言えません。またロダンはカミーユの先生であり愛人でもあったわけですから、その影響力は非常に大きかったことは事実です。しかし愛する二人の作品に共通性があるということは、むしろロダンがカミーユから影響を受けたのではないかとも考えられます。
さらにロダンの2作品は女性の心を射止めた男性目線の観点から制作されていますが、カミーユの「シャクンタラー」は、男に跪かせて「愛の勝利」を得るという逆転した立場から構想が練られています。さらに興味深いことに、「シャクンタラー」を発表した翌1889年にロダンが制作した「永遠の偶像」を見ると、ロダンが「シャクンタラー」から影響を受けたことが明白です。この時期の二人は、作品においてもインスピレーションを分かち合っていたことが伺えます。
またカミーユが1882年の夏まで師事していた彫刻家アルフレッド・ブーシェの1881年のサロン受賞作「ローマの慈悲」もカミーユの「シャクンタラー」に酷似しており、むしろ彼女は恩師の作品を脳裏に置いて本作に取り組んだのではないでしょうか。
ちなみにアルフレッド・ブーシェのイタリア給費留学は「ローマの慈悲」がサロンで受賞したことをきっかけに実現した経緯があり、言うなればカミーユとロダンを結びつけた作品と言えるでしょう。

ロダン「永遠のアイドル」

アルフブー「ローマの慈悲」

制作の経緯
カミーユが「シャクンタラー」の制作に着手したのは、1886年10月頃と考えられます。彼女が11月8日に友人のフロランスに送った手紙には、「今日、実物よりも大きな2つの人体に取り組んでいます。毎日モデルを二人使っています。朝は女性を、夜に男性を使っています。」と書かれています。

カミーユとジュシー

カミーユは同年の5〜9月にかけて、共にロダンのアトリエで働いていたジュシー・リップスカムの家族と英国で長い夏休みを過ごしていました。
しかしカミーユとロダンとの間には、英国に行く前の時点ですでに愛人関係が出来上がっていました。そして愛人の不在に耐えられなかったのは、ロダンの方でした。カミーユの英国滞在中に、彼女たちがワイト島に旅行することを知ったロダンは、ジュシーにこんな手紙を送りました。「何日間か、私も同行できるようにアレンジしてください。散歩する歓びが、冬の後に、アトリエで働く力と快活さを与えてくれることを知っていますね。」

ロダン「カレーの市民」

しかしその願いは聞き入れられず、そこでロダンは知恵を絞って8月25日に、彼女たちがフランスに戻って来るなら、カレーの町で出迎えて、市内を案内すると申し出ました。ロダンはその2年前に、カレー市から代表作「カレーの市民」の注文を受けていましたから、ロダンの生徒としては最高の待遇だったはずです。それでも二人の美女は、ロダンのオファーを断ってしまいました。

結局カミーユは9月中旬にパリに戻りましたが、ロダンの言いなりにはなりませんでした。なかなか自立心旺盛で、気性が激しいところがあったようです。とうとう根負けしたロダンは、次のような「敗北宣言」ともいえる「契約書」を書きました。この文書は、現在ロダン美術館が保管しています。
「本日、1886年10月12日から将来にわたって、マドモアゼル・カミーユ・クローデルのみを生徒として取ります。可能なすべての手段を使い、また彼女の友人と私の友人、特に影響力を持つ私の友人たちによって、彼女のみを保護します。(中略)今後私は、どのような理由をつけてもマダム……の家には行かず、彼女に彫刻を教えません。5月の展覧会後に、イタリアを一緒に旅行して、少なくとも6か月間は、解消できない関係を維持した後、マドモアゼル・カミーユは私の妻となります。(中略)私と関係のあった女性をモデルには使いません。マドモアゼル・カミーユが、町の服飾学校で着たドレス姿、多分夜会用ドレスの姿を、カルヤット(写真館の名前か?)で写真撮影します。マドモアゼル・カミーユは、5月までパリにいること。マドモアゼル・カミーユは、1月に4日間、彼女のアトリエで私を迎え入れること。ロダン」
この文書によって、ロダンが、カミーユとのイタリアへの婚前旅行と、結婚を約束していたことが分かります。結果的には、約束はカルヤットでの肖像写真の撮影以外は実現されなかったとはいえ、ロダンの敗北ともいえる、この「契約書」は、「シャクンタラー」において、愛人の前で跪いて、結婚を約束したドゥフシェンタ王の姿に重なります。
「シャクンタラー」にカミーユが込めた思いは、自分の女子生徒とモデルに次々と手をつけた巨匠ロダンを屈服させ、跪かせ、結婚を約束させた「愛の勝利」とその喜びではなかったでしょうか。
ところで、1888年の公募展に入選後、カミーユは大理石のバージョンの制作のために国に大理石の購入援助を願い出ましたが、許可されませんでした。大理石で制作する夢は、1905年に国ではなく、メグレ伯爵夫人の注文で実現して、同じ年にブロンズ像のバージョンも、ウージェンヌ・ブロによって鋳造されて、その年のサロン・ドートンヌに出展されました。
その後、1888年作の石膏による入選作は、世の中から忘れ去られ、1975年に、ヴァル・ドゥ・ロワールのベルトラン美術館の倉庫で、ガラクタの中から発見されました。その時には、シャクンタラーの両腕と、ドゥシェンタ王の左の足首から先がなくなっていました。その半身不随となった石膏像は、現在ベルトラン美術館で公開されています。

「ワルツ」 1889-1905年 ロダン美術館

「ワルツ」はカミーユ・クローデル最高傑作の一つです。全裸の男と、下半身だけをベールで覆った女性が、ゆっくりと夢心地で踊っています。女性のベールは地面に溶け合い、腰まで渦を巻いています。ワルツの回転は、この渦巻くベールによって象徴的に表されています。女性の右手は男性の左手から滑り落ち、身体は大きく後ろに傾いて今にも倒れそうです。それを男性が右手で抱きかかえながら、女性の首筋にキスをしているように見えます。繊細な官能表現の中に、カミーユの不安感がにじみ出ている作品です。
ところでこの群像で表現されているのは、決して華やかな舞踏会で踊るワルツではありません。この点についての理解が本作を語る上で極めて重要なのですが、順に解説していきましょう。
カミーユは、この作品でロダンの威光と、彼の重厚で静的なリアリスムから脱して、独自の流れるような動きの中に、官能と不安感が同時に表された、繊細な女心を表現することに成功しました。
すでに絵画の分野においては、印象派のベルト・モリゾやメアリー・カサットのような優れた女性画家たちが活躍していましたが、体力とコストがかかる彫刻の分野においても、女性が巨匠になりうることを示したことで、芸術的にも、また女性の社会進出と言う見地からも重要な作品です。
ところで「ワルツ」には、石膏製の最初のバージョンを含めて3つのバージョンが存在します。
P. 446の写真は、パリのロダン美術館が所蔵する1905年に鋳造されたブロンズ像の一つです。ここでは制作年の順にご紹介していきましょう。

アルマン・ダイヨ

第1バージョン
第1バージョンは1889年に制作されましたが、残念ながら現存していません。資料によれば全裸の男女が一部をベールで覆っただけの姿でワルツを踊る姿で表現されており、19世紀末のフランスにおいてさえ物議を醸しており、とくに保守的な層には非常にショッキングだったようです。
しかし、出来栄えに自信を持ったカミーユは、1889年2月8日付の教育省美術局宛ての書簡で、石膏像を大理石像にするために費用の援助を願い出ました。申請を受けて美術局は、美術評論家であり美術局監督官であったアルマン・ダイヨをカミーユのアトリエに派遣して作品を吟味させました。美術局が、わざわざ監督官を派遣したのは、もちろんロダンの名声を考慮した上でのことでした。
その時、彼が美術局に提出した報告書には、「完璧かつ卓抜した技術によって制作されています。ロダンでさえこの様な筋肉の微妙な変化から皮膚の震えまでは観察していません。」と賛美しながらも、次の二つの理由によって助成金申請を却下すべきという結論を出しました。

1. 男女が全裸で抱き合っている姿は、公共の場で展示するには不適当であること。(カミーユへの助成金は、国による買い上げを意味していました。)
2. ワルツというテーマにもかかわらず男女の姿は重たくて回転していない、つまりワルツを踊っておらず、下半身のベールが翼のように見える。

この報告書には、役人兼美術評論家としてのアルマン・ダイヨの限界が2点感じられます。まず、全裸の男女がワルツを踊っている情景が、公共の秩序に反すると見做されている点です。マネの「草上の昼食」がスキャンダルだと騒がれてすでに20年以上がたち、印象派の歴史的評価も固まりつつあった時期に、裸体表現にこれほど頭の固い「専門家」が、美術局に君臨していたのは驚きです。

エドゥアール・マネ「草上の昼食」

2点目の「ワルツ」が、「回転していない」「ワルツを踊っていない」と言う批判ですが、当時の舞踏会で、着飾った紳士淑女たちが踊っていたワルツの、テンポ感のあるクルクル回るイメージを、無理やり彫刻に当てはめようとしたから判断に誤りが生じたのです。
確かに現存するベールで下半身を覆った第3バージョンを見ても、二人の回転は、意図的に抑えられています。ここで思い起こすことは、ドビュッシーが作曲した「ベルガマスク組曲」第3曲の「月の光」です。「ワルツ」を制作したころ、カミーユはドビュッシーと親交を結び、1905年にブロンズの小さな「ワルツ」1点をプレゼントしたほどです。ドビュッシーは死ぬまでそのブロンズ像を、自分のピアノの上に飾っていたそうです。
つまり、カミーユは舞踏会で華麗に踊る男女を表現しようとしたのではなく、しっかり抱き合ったまま、ゆっくりと二人だけで月の光の下で踊るカミーユ自身とロダンの姿をイメージしたのではないでしょうか。
「月の光」が作曲されたのは1890年頃であって、カミーユの「ワルツ」の第1バージョン制作の翌年と思われます。この「偶然」は、カミーユが「ワルツ」で表現したかった情景と、ドビュッシーの「月の光」で描写された心象風景が、似通っていることと無関係ではないでしょう。また「月の光」は、正確には8分の9拍子ですが、ゆったりとした3拍子とも言えます。
当時「スロー」というカテゴリのダンス曲はなかったはずですが、愛する男女が抱き合って踊るのに最適の曲ではないでしょうか。実際に「月の光」は、現在までに、多くのバレリーナによって踊られてきました。
さらに、「月の光」に直接インスピレーションを与えたポール・ヴェルレンヌの詩「艶めかしき宴」の情景は、カミーユの「ワルツ」から漂ってくる、情愛と悲しさが交差した印象にも重なります。
そのヴェルレンヌの詩の冒頭部分を、以下にご紹介しましょう。
「艶めかしき宴」
あなたの心は選ばれた風景のようなもの。魅惑的な仮面たちとベルガモの人たちが行進し、リュートを奏で踊っているが、その風変わりな仮想の下には、悲しさがある。
短調の調べで、愛の勝利と幸運な人生を歌っているが、彼らが今の幸せを信じている様子はない。
彼らの歌声は、月光の中に溶け込んでいく。

「ワルツ」制作の前年、ロダンはカミーユにイタリア旅行と結婚を約束しました。しかしその約束は果たされず、ロダンは内縁の妻ローズと別れようとはしませんでした。また彼女は、自分の作品の価値そのものも、巨匠ロダンの威光の下でしか世間は注目してくれないことに気づいていました。彼女はロダンを愛しつつも、その限界を察して、距離を置き始めていたのです。そんな複雑な思いが、「ワルツ」を、愛の喜びと悲しさが交錯した群像にしたのでしょう。

「第2バージョン」と「クロートー」

「ワルツ(第2バージョン)

第2バージョンは、前作の批判を考慮して、下半身をベールで覆い、そのベールが頭の上で頭巾のように覆いかぶさる独特のコンセプトに創り直されました。この奇妙なバージョンは、「クロートー」と命名されたもう1点の石膏像と共に、1893年に「国民美術協会展」に出展されて、その独創性によって高い評価を得ました。「国民美術協会」は、1890年にシャヴァンヌとロダンらを中心に再興された、より民主的で公平な公募展でした。
「クロートー」というのは、ギリシャ神話に登場する「運命の三女神(モイラ)」の一人で、「糸を紡ぐ者」と言う意味です。「クロートー」は、裸の老婆が、運命を意味する長い糸の束を、何本も頭から垂らしている姿で表されています。

この頭を糸の束で覆った「クロートー」を第2バージョンの「ワルツ」と共に出展することで、カミーユは、その奇抜さに神話的意味合いを持たせると同時に、美術局の批判をかわそうとしたのでしょう。
一方でカミーユには「ワルツ」をどうしても大理石像で制作したいと考えていました。確かに耐久性や素材の高級感などの観点からすれば、一彫刻家として当然の欲求と言えるでしょう。そこでカミーユは「国民美術協会展」の開催に先立ち、再び美術局に第2バージョンの審査と、大理石像制作のための援助を申請しました。この時、再度審査を担当したアルマン・ダイヨは、作品の美しさと独創性を認めて、国が彼女に大理石と6000フランの制作費の助成を行うべきであるとの報告書を提出しました。その報告書を受けて、1893年3月9日付で、大理石購入と6000フランの支給を命じる、教育省の「政令」が作成されましたが、何らかの事情によって、その「布告」は、大臣の署名がないままお蔵入りとなってしまいました。
またしても大理石像の制作は実現しなかったものの、アルマン・ダイヨのアドバイスで、ブロンズ工房のシオ・ドゥコーヴィルによって、唯一のブロンズ像が制作されて、1894年にブラッセルで開催された前衛芸術展「ラ・リーブル・エステティック」に出展されて、ベルギーの象徴派詩人エミール・ヴルハーレンによって絶賛されました。

第3バージョン

ワルツ第3バージョン

ロダン美術館が所蔵する「ワルツ」は、1905年に鋳造された第3バージョン約30点のうちの一つです。この女性の下半身のみをベールで覆ったコンセプトは、恐らく元の第1バージョンに近いものだったでしょう。ドビュッシーに贈られたものは、この第3バージョンの小モデルです。カミーユは、1903年にロダンとの愛人関係を解消しました。一方ロダンは、1898年から新しい生徒のソフィ・ポストルスカを愛人にしていました。
この最後のバージョンは、上半身と頭からベールを取り除き、地面から腰までのみをベールの渦で覆ったことで、全裸よりもかえって官能性が強調されて、群像に回転性を与えています。また露出した上半身は、ベールの襞による、ゴツゴツした材質感とのコントラストによって、女性の柔肌の表現が極致に達しています。

「壮年」 1893-1913年 オルセー美術館 ブロンズ像

ブロンズ像3体による群像「壮年」は、1892年に離別したロダンとの悲運の三角関係を自叙伝的に表した作品です。本来のタイトルは「壮年」ですが、3体の取り上げ方によって「運命」「人生の道」「悲運」という4つの異なる題があります。この群像の原型は1893年頃に制作された石膏によるロダン美術館の第1バージョンと、その後に制作されたより激動的で感情のこもった第2バージョンの二つが存在します。
第1バージョンでは、初老を迎えた男が、醜い老婆と若い女性の間で取り合いになっている有様が表されています。第2バージョンでは、老婆によって連れ去られた男の背中に、跪いたまま、両手を伸ばして懇願する女性の悲劇的シーンが表されています。この第2バージョンのみが、後にブロンズ像として鋳造されました。

第1バージョン概説

「壮年」第1バージョン

第1バージョン拡大図

まずロダン美術館所蔵の第1バージョンから観察してみましょう。この群像を成す3体は、右から若い女(カミーユ)、中央の壮年の男(ロダン)、左の老婆(ロダンの内縁の妻ローズ・ブーレ)を寓意的に表しています。
男は疲れて足元がふらつき、後ろに倒れそうになっています。Âge(老齢期)の寓意にされた老婆(当時まだ50歳手前の内縁の妻ローズ・ブーレ)が、男の腰に手を回し、男の太い右腕を自分の肩に乗せて支えようとしています。老婆は髪の毛がほとんどなくなり、骨と皮だけで、乳房はしぼんで垂れています。彼女は窪んだ眼で、追いすがる若い女性を冷ややかに見つめています。男は支えられながら、老婆の方をじっと見つめています。
右側では、若い女性(カミーユ)が、連れ去られようとしている男の左手を、自分の胸に押し付けるように握りながら、右手を男の肩に伸ばして男を引き留めようと懇願しています。
カミーユは、表面的には、闘いに疲れた壮年期の愛する男性が、Âge(老齢期)の寓意である醜い老婆によって連れ去られようとする有様を表しています。しかし、ロダン、カミーユ、ローズの三角関係を知った上でこの群像を観察するなら、恋敵のローズを、醜い老婆として表したことが明白です。
このバージョンが制作された前年の1892年にカミーユはロダンと別れ、経済事情が困窮します。そこで彼女の窮乏を察したロダンが教育省美術局に働きかけ、フランス美術局がカミーユに対してルイ13世の弟ガストン・ドルレアンの胸像の発注を検討することになりました。
1895年、その一環として美術局監督官のアルモン・シルヴェストゥルがカミーユのアトリエを訪れ、「壮年」第1バージョンを鑑賞しました。訪問を終えた後、彼は美術局に対して、カミーユが「壮年」を大理石像として国から注文を受けることを願っていること、また「壮年」が「女性の視点で捉えられた、非常に高貴でよく考えられた作品である」という報告書を提出しました。
そして、同じ年の7月25日の政令によって、「壮年」を石膏像で注文して、費用は2500フランとすることが決められました。「石膏像」での注文は、当時の慣習上、それをモデルとして、後に大理石またはブロンズ像で制作し直す可能性があることを示唆しています。
しかし、この注文は1000フランのみがカミーユに内金として支払われただけで、完成後も、カミーユの度重なる要求にもかかわらず、残金は決して支払われることはありませんでした。そして1899年6月には、国の注文は美術局長ルージョンによって取り消されてしまいました。
1905年に美術局がカミーユに送った回答には、「当時の美術局長ルージョンによって、この作品の特質を考慮の上で、大理石またはブロンズ像の制作は取り消されました。また、この理由はファイル上に記載されていません。」と書かれてありました。
恐らくルージョン局長は、1899年5月の国民美術協会展で、出展された第2バージョンの「壮年」の石膏像を見て、この作品が、すでに世界的な名声を得て、政界にも影響力を有していたロダンの私生活を非難する内容であることを察して、政治的判断を下したものと考えられます。
カミーユの天才的な独創性にもかかわらず、ロダンの名声と影響力は国のトップクラスにまで及び、彼女の才能は、国による意図的な「沈黙」によって無視されて、彼女の経済苦と心痛をさらに大きくする結果となったのです。

第2バージョン概説(オルセー・エディション)

「壮年(第2バーン)ブロンズ オルセー美

現在オルセー美術館が所蔵する、ブロンズの第2バージョンのモデルとなった石膏像は、美術局監督官アルモン・シルヴェストゥルの報告書の日付によって、1898年10月に完成し、1899年5月1日に開幕した国民美術協会展に「クロートー」など他の3点と共に出展されました。
しかし「壮年」の石膏像がブロンズ像に生まれ変わるまでには、さらに3年の歳月が必要となりました。救いの手はロダンでもなければ国でもなく、美術ファンのキャプテン・ルイ・ティシエールでした。彼は国民美術協会展で「壮年」見て感動し、2年後の1901年にカミーユのアトリエを訪問して、ブロンズ像を彼の費用で鋳造することを提案しました。
ただしティシエールは、現役の将校であったために、任地が頻繁に変わることを憂慮して、「壮年」を、「老婆」と背後の大きなマント、跪く若い女の3つのパートに分けて鋳造することで、後の運搬が容易いように工夫しました。オルセー美術館所蔵の「壮年」の土台を見ると、左右が分かれているのはそのためです。右の跪く女性は、その後独立した彫刻として鋳造されて、「嘆願する女性」と名付けられました。

「嘆願する女性」

群像は、各人物が左に傾いていて、向かって左に流れるように構成されています。また、第2バージョンの「老婆」は、単なる「老齢」だけでなく、「死神」のイメージも加わっています。その老婆の背後で風になびく大きなマントが、まっしぐらに老いと死に向かっていく、人生の移り変わりの速さを強調しています。
このコンセプトは、1889年以降に制作された「ワルツ」と似ていますが、「壮年」では、群像を不安定な三角形の構造にアレンジしたところが、さらに斬新さを増しています。
男性の像に注目してください。疲れ切った男は、目を半ば閉じて、うつ向き加減で人生の終局へと歩き始めました。そこに風のようにやって来た死神のような老婆が、男を背後から軽く抱きしめて、優しく話しかけています。男の左手は、背後で右側の女性に向いているものの、引き留めようとした女性の手からはすでに離れています。男の手は、ADIEU (アデュー 別離の言葉)と言っているかの様です。
女性は跪いたまま、両手を男に差し伸べて「行かないで」と懇願しています。彼女の、くの字形に曲げられた表現力に溢れた両手は、ロダンの代表作「カレーの市民」の登場人物の一人ピエール・ドゥ・ウィサンの手を彷彿させます。ピエール・ドゥ・ウィサンの特徴的な手は、カミーユが、まだロダンのアシスタントを務めていた時期に、彼女によって細部がモデリングされたのかもしれません。

ロダン「カレーの市民」

「お喋りする女性達」または「内緒話」

「お喋りする女性達」は、カミーユ・クローデルがロダンと別れた翌年1893年に制作を始めた意欲作で、別名を「内緒話」と言います。ロダン風の重厚さとリアリスムから脱して、女性達の内緒話をテーブルの上におけるような小さな群像で表現しており、ロダン風の重厚さとリアリスムから脱していることがよくわかります。当時フランスでは日本製のOKIMONOと呼ばれた象牙製の「牙彫置物」が人気を博していたのですが、カミーユも本作の制作についてインスピレーションを受けたと思われます。高さがわずか32センチしかない群像ですが、それまでのフランス彫刻には無かった「日常生活」の新しいイメージを取り入れた点が非常に斬新です。
原型となった石膏バージョンは、1895年に、ロダンやピュビス・ドゥ・シャヴァンヌらが中心となって再興された国民美術協会展に出展され、高い評価を得ました。その後、ロダン美術館所蔵のオニキスとブロンズ製のバージョンや、背後の衝立がない物、1905年に鋳造されたカミーユ・クローデル美術館のバージョン(最低6点鋳造)等、数種類のバージョンが存在します。

ブロンズバージョン

大理石バージョン 1893-1895

作品概説
この作品を制作し始めた当時のことは、1893年12月に当時ニューヨークで副領事を務めていた弟のポール・クローデル(後の在日フランス大使)宛ての書簡で知ることができます。
「全くロダン風でないことが分かるでしょう。(人物は)服を着ています。」「あなただけにこの発見を伝えます。ロダンには見せないでください。」

弟ポール・クローデル(1927)

この文面では、すでにこの時期、カミーユは作品のアイディアをロダンに盗まれるのではないかという被害妄想にとりつかれ始めていたようです。しかし、二人の強烈な個性は決して波長が合わず、ロダンはいったん決心した結婚には踏み切れませんでした。さらに1891年には、カミーユは、妊娠した子供を、非合法の堕胎手術でおろしました。その頃ロダンが友人のアルマン・ダイヨに送った手紙を読むと、ロダンは、警察に通報してでも堕胎をやめさせたいと言いつつ、お腹の子供をまるで他人の子供の様に書き、この件が世間に知られないように釘を刺しています。その上カミーユの家族から「内密に」との要望を受けて、堕胎を辞めさせることができませんでした。またロダンはお腹の子を認知しようとはしませんでした。
その上、カミーユの彫刻家としての世間一般の評価は、常に「ロダンの生徒」またはProtégée(プロテジェ 有力者の庇護を受けた女性)であって、彼女自身の才能としては、なかなか認めてもらえませんでした。また独身女性の芸術家という存在自体が、当時のフランス社会から容認されにくく、経済的にも自立することが困難な状況でした。また女性が美術学校で教えることなどは、想像もできませんでした。そのために、カミーユは素晴らしい才能を持ちながらも、ロダンと別れてからは、ずっと困窮状態が続いていました。これだけ貧困と世の中の逆風に苦しめば、精神に異常をきたしたとしても不思議ではありません。
改めて作品を見てみましょう。まるで列車の中の客室のように、ベンチが2つ並び、そこに女性が4人向かい合って座っています。奥の女性は、両手を胸まで上げて、横の少女に打ち明け話を始めました。少女は顔を近づけて、食い入るように話を聞いています。正面に座る二人の女性も、前かがみになって熱心に聞いています。人物一人一人の頭は、せいぜい2センチ程度ですが、日本の「牙彫置物」のように、顔の細部に至るまで、実に細かく丁寧に彫り込まれた上、よく研磨されています。
奥で内緒話をする女性は、恐らくカミーユ自身がイメージされていたことでしょう。言いたくても言えないロダンとの破局、堕胎せざるを得なかった辛い出来事、どれだけ努力しても、「ロダンの生徒」としてのみ、世の中に見られることの辛さ等、誰かに真情を吐露したかったに違いありません。
そんな気持ちを抱いていた時に、ふと列車の中で目にした光景を、スケッチブックに残して、アトリエで帰ってから粘土で形にしたのではないかと思われます。
彼女は、このような何気ない日常生活のシーンを作品化することをCroquis D‘après nature(クロッキー・ダプレ・ナテュール)と呼びました。この用語は、通常は絵画の世界で「実物モデルの素描」と言う意味で使われています。画家がスケッチブック片手に散歩や旅行をして、気に入った景色や光景を、クロッキー(短時間の素描、場合によっては1~2分)したものです。現代の手法に置き換えれば、スナップ写真を撮るような感覚で素描し、アトリエに帰ってからキャンバス上に描き直したり、後日、作品の一要素とするような具合でしょうか。
カミーユは、このクロッキー・ダプレ・ナテュールを、彫刻の分野に取り入れた先駆者でした。この手法を理解するうえで特筆すべき点は、カミーユはモデルを使わなかったことです。ロダンのようにモデルを雇って完璧なリアリスムを追求したのではなく、街角で見かけたシーンのイメージを直接モデリングしました。
言いかえれば、「お喋りする女性達」によって、カミーユはロダン流のリアリスムから決別して、最低限のコストで、女性らしい思いを表す方法を発見したと言えるでしょう。

「波」または「浴女たち」

「波」は、カミーユ・クローデルがロダンと別れた5年後に制作した記念碑的作品で、「浴女たち」とも呼ばれています。高さ70センチの半透明のオニキスという石の大波の中で、妖精のような「3美神」が、輪を成して楽しそうに踊っています。まるでおとぎ話のような世界です。またここには、ロダンが理解しえなかったカミーユの微妙な女心が込められています。彼女は、それに葛飾北斎の浮世絵「神奈川沖浪裏」(かながわおきなみうら)のイメージと、古典の「3美神」を掛け合わせ、流行りの曲線美を生かしてアール・ヌーボー風にまとめ上げました。

作品の変化と概説
「波」は、まず石膏モデル(現存しない)が、ロダンが発起人の一人を務めた、1897年の国民美術協会展に、他の2点と共に出展されました。その時のカタログには、番号24番に、「波」Croquis d’après nature(クロッキー・ダプレ・ナテュール) 石膏による群像、と記されています。つまり実物だけをモデルにせずに、想像力を働かせているということです。カミーユが、通常は絵画の世界で用いられるこの用語を、あえてカタログに記載させた理由は、モデルを徹底に描写した、ロダンのリアリスムとの、根本的な違いを強調したかったためでしょう。
ところで、同じカタログ上には、ロダンの名前もありますから、当然、彼は「波」を展示会場で見たはずです。そして、その後の制作に着想を得たものと思われます。この点については後でもう一度触れます。
国民美術協会展に出展された石膏バージョンは残念ながら残っていません。恐らくカミーユが精神病院に強制入院させられる直前の1913年頃、彼女自身によって破壊されてしまったのでしょう。しかし幸いにも弟ポールの孫で美術史研究者のレンヌ・マリ・パリ女史のおかげで、石膏モデルの貴重な写真が残っていることが明らかになりました。なお余談ですが彼女はカミーユ・クローデルの研究で大いに活躍し、カミーユが単なるロダンの愛人でないことを証明する上で大きな貢献を果たしています。
その写真を見る限り、現存するロダン美術館のオリジナルとは大きく構図が異なっていることに驚かされます。
まず石膏バージョンでは、正面中央に若い女性が置かれ、彼女が両手を広げて左右の女性の手を取っています。3人の浴女たちの位置は、ほぼ水平の位置に、完全なシンメトリーで配置されています。その結果、波に乗っているというよりは、平らな波打際で水遊びをする乙女達のような情景です。また背後の波も、左右と中央に分けられて、ほぼ左右対称になっています。
次にロダン美術館が所蔵する、人物群がオニキス、波がブロンズ製の世界で唯一のオリジナルに注目してください。これは石膏バージョンの発表から、約5年の歳月をかけて、彫刻家フランソワ・ポンポンの制作協力を得て出来上がりました。このロダン美術館所蔵の「波」一点のみが、オリジナルと見做されています。
なお、前述のレンヌ・マリ・パリ女史が、ブロンズとオニキス製のオリジナルから型を取って制作させたブロンズ像のコピーが最低8点はあります。このようなコピーの制作方法を「孫抜き」といいます。これはもっぱら贋作の制作に使われる方法です。これらは、2016年のフランス毀損院(日本の最高裁に該当)の判決によって、オリジナルではない、REPDODUCTION(リプロダクション)と見做されました。これは、ブロンズ像のオリジナルと違法コピーの法的定義づけとして非常に興味深い点であり、我が国においても早急に同様の法整備が求められます。
本題に戻りましょう。波の上で戯れる「3美神」は、石膏バージョンで見せたシンメトリーが意図的に崩されています。右上のやや高い場所に位置する女性が、左右の女性の手を取り、円舞を踊っているかのようです。彼女たちは膝を曲げて、波の上で微妙なバランスを取っています。
また中心の女性は、頭の上から襲い掛かる大波を見上げています。この数メートルもある大波は、1~2秒後には、女性達を飲み込んでしまうでしょう。それに、この大波の一番上の箇所は、まるで海の怪物たちの頭のように見えます。また横から見ると、巨人の手のひらのようにも見えます。しかし、決して彼女たちの無邪気な表情からは、恐怖心を抱いているようには見えません。むしろ、世間の荒波の中で、強く美しく生きようとする、カミーユの強い意志の反映とも感じられます。同時に、巨匠ロダンの元愛人兼生徒と言うレッテルを返上して、作品制作においても、全く独自の道を歩もうとする彼女の強い意思が表されています。
オニキスは硬度が7もあり、彫刻するのは簡単ではありません。しかし本作は豚の骨を使って完璧に磨き上げられた上、波の下側には細かい高低がつけられ、見事なうねりが表現されています。「3美神」の足に注目してください。足がオニキスの波の中に溶け込んでいます。オニキスとブロンズの材質感の違いを見事に使い分けることで、「波間の裸婦」という、それまでの伝統的な大理石彫刻やブロンズ像では表現が不可能だった水浴の情景を、見事に描写しています。
ところで「3美神」は、ボッティチェリの「春」にも登場しますが、当時のフランスでも、ルーヴル所蔵の古代ギリシャ彫刻のコピーや、コンデ美術館所蔵のラファエロ作の「3美神」によって、古典美術の模範例として良く知られていました。しかしその古典的イメージに葛飾北斎の「冨嶽三十六景神奈川沖浪裏」と組み合わせる発想と感性は斬新と呼ぶ他なく、カミーユの天才ぶりには改めて感服させられます。
またカミーユと親交のあった作曲家ドビュッシーが、1905年に発表した代表作「海」の初版スコアの表紙は、北斎の「神奈川沖浪裏」をアレンジしたデザインでした。カミーユの「波」が、ドビュッシーに何らかの影響を与えた可能性があります。特に、大波の上で微妙なバランスを取る「3美神」の様子が、「海」第2章における「波の戯れ」のイメージと重なります。
さらに「波」の影響は、ドビュッシーだけにとどまりませんでした。「波」は、元愛人であり師匠でもあったロダンにも、インスピレーションを与えた形跡があります。ロダンは、「波」が発表された翌年の1898年から「神の手」の制作に着手し、さらに「カテドラル」を1908年に制作しました。「神の手」は、巨大な神の手の中で眠る裸婦の姿が表されています。また「カテドラル」では、二人の人物(恐らく男女)が各々の右手を垂直に重ね合わせていますが、見えるのは二人の手だけです。このように手だけを見せるのは、それ以前のロダンの作品にはなかった、新しい表現コンセプトです。
カミーユの「波」から受けた、あたかも、巨人の手の中で戯れるような美女たちのイメージが、ロダンの作風に変化をもたらしたと思われます。

「ポール・クローデル、37歳の胸像」

カミーユ・クローデルが、弟のポール(元駐日フランス大使、詩人)をモデルにした胸像です。京都大学前の関西日仏学館の1階入り口に常時展示されています。ここは、関西でフランス語を勉強した者なら必ず一度は足を踏み入れた場所です。私もかつて留学前に大変お世話になりました。また奥にあるカフェLe caféには藤田嗣治のオリジナル油彩画「ノルマンディーの春」1936年も展示されていて、庭の横で巨匠の名作を鑑賞しながらコーヒーとケーキを楽しむことができます。

作品概説
モデルのポールは、カミーユが生涯Le petit Paulと呼んで可愛がった4歳年下の弟です。パリの名門校ルイ・ル・グラン中高校を出て、パリの政治学学校を卒業後、外交官試験に首席で合格したエリート官僚でした。また1921~27年まで駐日フランス大使、その後は駐米大使、駐ベルギー大使を歴任しました。
また駐日フランス大使就任中は、関西日仏学館の開館に寄与して、関西におけるフランス語とフランス文化の普及に大きく貢献されました。現在も館内に記念プレートが保存されています。
この作品の原型モデルが制作された1905年の夏、中国副州市での副領事の任務を終えて帰国したポールは、姉のカミーユとしばらくの間、ピレネー山中で夏休みを過ごしました。その時ポールは37歳でした。翌年ポールは天津市の領事として再び中国に赴任したので、二人にとっては最後の幸せなひと時でした。
この夏休みの後で制作されたのが、このポールの胸像です。一方ポールは、姉がちょうど20歳の時の美しい盛りに撮影された肖像写真に「カミーユ・クローデル、彫像家」と言うタイトルと、カミーユのサインを付けた随筆を書いて、姉の好意に答えました。この随筆は、文芸月刊誌L’Occident(西洋)に掲載されました。
胸から上を、衣服を着せずに素肌で表されたポールの姿は、一見、イタリア・ルネッサンスの巨匠ドナテッロの「福音記者ヨハネ」を想起させる威厳のある作風です。しかしカミーユは、ポールを栄えある外交官としては表現しませんでした。何も飾らない作品の内側から、弟への限りない愛情と思いやりと、ポールの詩人としての知性が静かにあふれ出ています。

文芸月刊誌「西洋」

ロダンと別れて以来、「ロダンの生徒」という烙印の重圧にさいなまれ、貧困に苦しんだカミーユにとって、弟ポールは、ただ一人信頼できて打ち解けて話ができる相手だったのです。
しかしポールが中国で新たなポストについてからは、彼女の精神状態は非常に不安定になり、アトリエにあった過去の作品を次々とハンマーでたたきつぶし、ロダンに迫害されているという被害妄想を抱くようになりました。そしてアトリエの入り口にバリケードを築いて中に引きこもり、夜は窓から出入りする有様でした。
1913年、医師のミショーがカミーユを診療していますが、その診断書は以下のとおりです。

「着ている物が惨めで不潔。全く入浴していない。彼女は家具類をソファーとベッド以外は売り払ってしまった。(中略)彼女は数か月前から、日中は外出せずに、真夜中に外出している。最近弟に送った手紙によると、コンシェルジュに、ロダンの徒党によって脅かされている、と訴えた。7-8年前から確認していることだが、彼女は被害妄想にかられている。彼女の精神状態は、治療を受けていない上に、十分な栄養を取っていないために、彼女自身と隣人たちにとっても危険である。したがって精神病院に入院させる必要がある。パリ、1913年月3月7日」

容赦ない言葉が並び、彼女の状態が深刻であることがよくわかります。
20世紀初頭、自由の国フランスにおいてさえ、精神病患者は、「社会の害」「家族の恥」と見做されていました。たとえ担当医が「退院が妥当」と判断しても、家族が反対して、入院費用を払い続ければ、退院できる可能性はほとんどありませんでした。駐米大使まで務めたポールにとって、精神を病んだ姉の存在は、自分と家族の名誉を守るために、決して世の中に知られてはいけないことだったのです。
その後ポールは、1936年まで外交官としてキャリアを積み、戦後は詩人として成功を収め、1946年にフランス学士員のメンバーに選出されました。1951年にはレジオン・ドヌール勲章も受勲しました。一方強制入院させられたカミーユは、次第に世間から忘れられた存在となり、戦争末期に一人寂しくこの世を去りました。彼女が再び脚光を浴びるようになって「復権」を果たすには、1980年代まで待たねばなりませんでした。
ロダンとポールの栄光の陰にカミーユがいたことを、私たちは決して忘れてはならないのです。

ニオビーデ

「ニオビーデ」はカミーユ・クローデルの最後の作品の一つです。胸に突き刺さった矢に触れながらも、まるで眠りにつくかのような静かな表情で崩れ落ちるニオビーデの娘の姿は、ロダンに捨てられ、ロダンの影に怯えながらも、懸命に生き延びようとしたカミーユの苦悩と悲しみを代弁しています。

「ニオビーデ」とは

タンタロスの娘ニオベーの神話を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドの1772年の絵画『ニオベーの子供たちを攻撃するアポロンとアルテミス』 ダラス美術館所蔵

ニオビーデ(ニオベーとも言う)は、ギリシャ神話に登場するテーバイの王妃の名です。彼女は7人の息子と7人の娘がいることが自慢の種でした。ところが、太陽神アポロンと狩猟の女神アルテミスを生んだ女神レートーのことを、よりにもよってアポロンとアルテミスの祭りの場で「たった二人しか子供のいない女」などと馬鹿にして、人々を祭りの場から追い払ってしまいました。
この話を母のレートーから聞いたアポロンとアルテミスは憤慨して、テーバイに降り立ちました。そしてまずアポロンが、広場で遊んでいたニオビーデの息子たちに次々と矢を放って殺し、次にアルテミスは、屋内で兄弟の棺の前にいた娘たちに矢を放ち、とうとう14人の子供たち全員を皆殺しにしてしまいました。
夫のテーバイ王アムピーオーンは、悲しみのあまり自ら命を断ち、一人残されたニオビーデは石となりましたが、涙だけは絶えず流れ落ちていたと言い伝えられています。

作品概説
すでに解説した「シャクンタラー」を思い出してください。「シャクンタラー」では、「ニオビーデ」に似た女性が、女性を抱きしめる男性の顔に、自分の額を押し付けて求愛を受け入れる様子が表されています。
「シャクンタラー」が制作された1888年には、カミーユがロダンの愛人となってすでに4年が経過していました。この年には、二人はスペインと南仏に水入らずの旅行をしました。つまり「シャクンタラー」は、フランスの彫刻界でスーパー・スターとなりつつあったロダンを射止めた「愛の勝利宣言」であり、短かったけれどもカミーユにとって人生で最も幸せな時期の作品だったのです。
しかしよく似た「ニオビーデ」には男性の姿はなく、傷つきくずれ落ちる乙女の姿があるのみです。
なぜなら、「シャクンタラー」制作のわずか3年後の1891年7月頃に、彼女はロダンの子を宿しながら、ロダンは彼女との結婚に踏み切れず、またお腹の子を認知する勇気さえなく、カミーユは堕胎に追い込まれてしまいました。ロダンの愛とお腹の子を同時に失った彼女の心は決して癒されることはなく、それが消えた男性像によって表されているのです。
カミーユは、当時違法だった堕胎を行って以来精神が不安定となり、1913年には後に佐伯祐三が亡くなったパリ郊外のヴィル・エヴラードの精神病院に、家族によって強制的に入院させられました。その後、第一次世界大戦の戦火を避けるために遠い南仏のアヴィニョン近郊のモンデヴェルグの精神病院に移されて、その後も世間体を気にした家族によって同じ病院に隔離され続けました。
そしてカミーユは、それ以降30年もの間、病院の外には一歩も出ることは許されず、そして1943年ドイツ占領下の病院で、十分な治療も食料も与えられないまま、誰にも看取られず一人寂しくこの世を去りました。ただでも食糧難の時期に、ドイツ占領軍は精神病患者を人間とは扱っていなかったのです。
彼女はいったん粗末な木の十字架だけのお墓に葬られましたが、その後、共同墓地に捨てられたためにお墓も残っていません。天才女性彫刻家の、悲しい最後でした。

最後に一言。カミーユ・クローデルの人生と作品を解説する際には、日本でもフランスでも必ず「ロダンの愛人」と冒頭で前置きするのが普通です。しかし彼女がロダンの愛人であったのは、長く見積もっても7年間だけであり、堕胎した翌年の1892年には、ロダンとの愛人関係は解消されています。
それ以前の時期には、ロダンの技術的、精神的、経済的援助があったにせよ、彼女はロダンに会う前から天才的な才能を示していました。そして1905年には代表作「ワルツ」によって、すでにロダンを超えたと言えます。それにも関わらず、彼女の死後80年も経過した今でも、カミーユを「ロダンの愛人」と言い続けるのは正しいことでしょうか。
彼女が精神を病んだ理由は、単にロダンに捨てられ、堕胎を余儀なくされたという事実だけではなく、生涯「ロダンの愛人」と呼ばれ続けたほどロダンの重圧に苦しみ、ロダンの影に怯え続けたためではなかったでしょうか。
私たちが本当にカミーユの作品を愛し、彼女の尊厳を守ろうとするならば、安易に「ロダンの愛人」と呼び続けることは、そろそろ控える時期に来ているのではと思います。

カミーユ・クローデル美術館

カミーユ・クローデル美術館 2

カミーユ・クローデル美術館
カミーユ・クローデルの故郷ノジャン=シュル=セーヌにある美術館。前身は彼女を見出した彫刻家アルフレッド・ブーシェと彼の師匠ポール・デュボアのコレクションを擁する市立美術館だった。2008年にカミーユの姪で美術研究家のレンヌ・パリ・マリより、43点のカミーユ・クローデル作品を購入。それを機に美術館の改装が進められ、2017年にカミーユ・クローデル美術館としてオープンした。
なおロダン美術館のあるパリからは、南東におよそ100キロ離れている。

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