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美術史家・森 耕治の欧州美術史論 Vol.2
ジャポニスムと浮世絵

日欧宮殿芸術協会では、現代の日本人芸術家が海を渡り、遠くヨーロッパで日本芸術の現在を伝える活動に励まれており、その姿は時に誇らしく、時にたくましく映ります。
そこで今回、私も皆様の原点――ジャポニスムについて触れたいと思います。
題して「ジャポニスム。19世紀仏絵画に浮世絵が及ぼした影響」です。

(本稿は、フランス語をはじめとするベルギー語圏の発音に基づいています。一部の固有名詞は日本語と異なる場合がありますので、ご了承ください)

ジャポニスムとは、日本では「日本趣味」と訳されることが多いようですが、これがジャポニスムへの誤解の遠因になっているように思います。2017年に上野の国立西洋美術館で開かれた北斎とジャポニスムに関する展覧会でも、ジャポニスムを終始、北斎漫画と19世紀フランス絵画との図像学的類似点のみから解説されていて、非常に残念に感じたものです。
確かに1858年の日仏修好通商条約締結後、フランスに浮世絵を扱う店が続々と開店して、多くの画家たちが着物やうちわといった日本趣味のオブジェを画中に取り入れ始めました。その典型例は、ティソ(ジェームズ・ティソ[1836-1902]フランスの画家・版画家)が1864年に描いた「浴室のラ・ジャポネ―ズ」(P.392参照)でしょう。また、モネの1876年の「日本女性(ラ・ジャポネーゼ)」(図1)もよい例だと思います。この「日本女性」は2015年にボストン美術館の巡回展で展示された際、作品の前で、来館者の女性に品の悪い派手な着物のようなものを着せて記念撮影というイベントを行い、人種差別だと物議をかもしたので皆様の記憶にあるかと思います。またゴッホの「タンギー爺さん」(図2)も背景に浮世絵を描いたために、ジャポニスムの典型例とみなされています。


このように、画面上に、日本のオブジェを配した絵画をジャポニスムと呼ぶことは決して間違いではありません。私はこのような初期のジャポニスムを、ジャポニスム第一期と呼んでいます。しかし、フランスにおけるジャポニスムは、単なる表面的な日本趣味に留まらず、時代とともに大きな変遷を遂げ続けています。
たとえば、ゴッホの日本趣味が有名でも、彼の南仏のアルルでの作品には、もはや日本のオブジェは登場しません。しかしその画風からは、はっきりと浮世絵の強烈な原色と遠近法が読み取れます。つまり、画面上に、日本のオブジェが登場しないジャポニスム第二期が生まれたのです。
またゴッホと一時期アルルで共同生活したゴーギャンの作品は、輪郭線を黒い線で縁取っています。これを芸術用語でクルワゾニスムと呼びますが、浮世絵における黒い輪郭線の使用が影響を与えたことは疑う余地がありません。またゴーギャンの影響を受けたナビ派(19世紀末にパリで活動した前衛的な芸術家集団)は、極めて日本風であるとフランスでは評価されています。ただし、一見しただけでは、どこが日本的なのかを読み取るのは難しいでしょう。
また20世紀初頭のアール・ヌーボーは、日本画の花鳥風月の考え方と描き方に影響を受けたことでよく知られています。
上記はほんの一例ですが、ジャポニスムとは単なる日本趣味の一言で片付けられる事象ではありません。始まりこそ表面的な日本趣味でしたが、若い芸術家たちは時の流れとともに、浮世絵を含む日本画から、新しい物の見方と画法を取り入れていきました。さらに自らインスピレーションを得て、新時代の美術運動に活用していったのが、フランスにおけるジャポニスムの特徴であると言えるでしょう。ただし、最近頻繁に見られる『浮世絵が印象派を生んだ』とする風潮は誤りであり、ひどい過大評価と言えます。
別の言い方をすれば、ジャポニスムとはリアリスムや印象派と言った美術の流派の名称ではありません。フランスのアーティストたちが日本画や浮世絵をヒントにして、新しい美術運動を次々に創出する際に使った方法論、対象の把握の仕方、さらに画家の生き方までを含んだ広い意味での日本美術の影響こそが、ジャポニスムと定義づけられるのです。
それでは、その半世紀間におよぶジャポニスムの変遷を、時系列を追って、巨匠別に巨匠がいかに日本美術の要素を取り入れて自分独自の芸術に昇華させていったのでしょうか? 本稿では、初期ジャポニスムのティソ、そして印象派のモネとドガ、それにゴッホとゴーギャン、さらにゴッホの友人だったエミール・ベルナール、ピエール・ボナール、ロートレック、そしてアールヌーボーのガレについて、彼らの代表作と共にご紹介したいと思います。

「浴室のラ・ジャポネーズ」

ジャポニスムの先駆者ジェームズ・ティソは、本名ジャック・ジョゼフ・ジャック、フランス出身の画家兼版画家でした。彼の代表作「浴室のラ・ジャポネーズ」は、浴室の日本女性を意味します。
ところがティソは、彼と親交のあった印象派画家達と比べると、日本ではあまりその名が知られていません。むしろドガが描いたティソの肖像画(図3 メトロポロリタン美術館所蔵)の方が良く知られているのはなんとも皮肉なことです。その肖像画の上部を注意深く観察すると、和服姿の女性が数人描かれており、ティソの日本好きが本物だったことがよくわかります。

図3

「画面概説」
この作品では、日本の木造の浴場(ティソが空想したものですが)から、日本女性に扮したヨーロッパ女性が、向かって左の柱にもたれかかり、左手で柱をつかんでいます。長い着物をだらしなくガウンのように肩にかけて、肢体の半分を首筋からつま先まで観客に見せる官能的なポーズをとっています。さらに着物の裏地の赤が、薄暗い背景と白い肌に対してセンセーショナルなコントラストをかもし出しています。
頭には赤と白の花輪をかぶり、3本の長い簪が飾られています。その頭上には、室内にも関わらず見事な桜の花が枝を伸ばしています。
ディジョン美術館では、画面上の粗末な木造つくりの浴場の情景に合わせて、簡素な白木の額縁に作品を入れて効果を高めています(図4)。

図4

ところで、この奇妙な画面配置とポーズは、偶然かもしれませんが、後に印象派モネがジベルニーの家で集めていた浮世絵コレクションの一つ「隅田川の朝霧」(図5 作・歌川国芳)によく似ています。

図5

この作品でも、モデルは裾を地面に引きずる長い着物に袖を通した姿をしており、頭上には様式化されたサクラの花が咲いているのです。また、姿勢は向かって左側に身体を傾け、左手を斜め上に上げています。この点から察するに、ティソは本作にインスピレーションを受けたのかもしれません。ちなみにティソはこのポーズが気に入っていたらしく、1898年制作の自画像でも全く同じポーズをとっています。
モデルのすぐ後ろに、左右に花を描いた日本画らしい絵が2枚立てかけられ、もう少し後ろには屏風らしきものも配置されています。そして背景には、半開きになったふすまから庭のサクラに、軒先からぶら下げられた提灯の下部ものぞいています。
このように、1860年代の初期ジャポニスムにおいては、画面に日本の要素を直に組み込んだり、構図そのものを浮世絵から借用する例が主流だったのです。
ところが、クロード・モネら印象派の活躍する時代になると、浮世絵の取り入れ方に変化が認められます。これを「モネの秘められた浮世絵技法」という観点から考察してみましょう。ここであえて「秘められた」と言及しているのは、モネが使った浮世絵の技法には、明らかに使用したことがわかる場合(直喩的表現)と、一見するとわからないように使用した場合(暗喩的表現)の2通りがあるためです。
印象派の旗手クロード・モネが浮世絵の強い影響を受けていたことは、ヨーロッパの芸術に明るい方にとって常識と言っても過言ではないかもしれません。実際、ジベルニーのクロード・モネ財団には、モネが生前に集めた喜多川歌麿・葛飾北斎、歌川広重らの浮世絵が保存されており、その点数は総勢231点にも上ります。この大量のコレクション点数からも、モネの浮世絵に対する並々ならぬ関心がうかがえます。
とは言え、単に好きだというだけで大量のコレクションを築けたわけではありません。19世紀のフランスやオランダでの浮世絵の価値は非常に低く、当時は貧乏だったモネでも購入可能だったのです。ただしモネのコレクションの中には、当時のパリで浮世絵の店を開いていた林忠正(図6 日本の美術商。印象派を初めて日本に紹介)から、自らの作品と物々交換で入手した作品もあり、一概に安価で購入したものだけではありません。
モネの作品に浮世絵の直接的影響が認められるようになったのは、1860年代後半からのことです。

図7

例えば1867年作の「サント・アドレスのテラス」(図7)は、モネの叔母が住んでいたル・アーヴルのさらに北東の海辺の町サント・アドレスの邸宅の情景が描いた作品ですが、手前のテラスを近景、海を中景、空を遠景に分けられています。この描き方は、北斎の「五百羅漢寺」(図8 作・葛飾北斎)から影響を受けた形跡がうかがえます。

図8

また1876年作の「日本女性(ラ・ジャポネーゼ)」(図1)は、日本の要素を画面に描きこめば世間の一定の評価を得られたであろう、当時のオリエンタリスムの悪い側面が顕著に表れた一例と言えるでしょう。
モネの回想では、プロシア戦争の終結後、1871年に亡命先のイギリスからオランダ経由で帰ってきた際に、オランダのチーズ屋さんの包み紙が浮世絵だったと述べており、その当時から浮世絵や日本のうちわを収集していた可能性があります。実際に、1871年作の「ソファーのマダム・モネ」(図9 オルセー美術館所蔵)の背景には、日本製らしいうちわが描かれています。

図9

うちわは、印象派の画家たちが浮世絵の次に重宝した日本の美術品で、この絵は有名なマネの「うちわの女」(図10)よりも制作年が2年早く、モネがマネに与えた可能性も否定できません。

図10

以上は日本美術のモネの作品中の直接的影響であり、つまり画面上に純日本風なものを取り入れる。または浮世絵の構図をそっくり取り入れる技法です。それではモネの他の作品に、どのような形で浮世絵の隠れた影響が認められるのかというと、実はあまり研究が進んでいないように思われます。
モネ財団所有の浮世絵コレクションと、モネの作品をざっと比較しただけでも、さらに5例ほど、モネが浮世絵技法を、秘かに自分の芸術に取り入れていた形跡があります。
例えば「相模江の島岩屋の口」(図11)に見られる、海岸にぽっかりと開いた眼鏡岩は、ノルマンディー滞在時に描いた「エトゥルタ」(図12)と類似点が多数見られ、モネが制作時に連想しなかったとは考えにくいでしょう。

図11

図12

未完の大作「草上の昼食」(図13)上の人物は、眉毛と目口鼻が極めて強いラインで描かれていますが、このような人物描写は、本作以外では認められません。

図13

おそらくモネは、写楽の役者絵のコンセプトを取り入れようと試行錯誤していたと考えられます。その結果失敗に終わってしまったために、彼の作品からそれ以降、人物の顔は急速に省略されていきました。オルセーが所蔵する有名な「左向きの日傘の女」(図14)はその典型的な例と言えるでしょう。

図14

図15

「緑のドレスの女性」(図15 1866)は、後の妻カミーユの後ろ姿を描いたものです。官展出品を予定していた「草上の昼食」が未完に終わったため、その穴埋めに描かれた作品と伝えられます。制作期間はわずか4日にも関わらず入選を果たしており、モネの才能がすでに突出していたことがわかります。しかし当時の常識として、女性の肖像画を後ろ向きで描くというのはありえないことでした。そもそも、美女をモデルとするにあたり、顔を描かないというのは冒涜的な行為です。ところがその常識外れの判断の裏にも、モネのコレクションの一つ「風俗東之錦」(図16 作・鳥居清長)からアイディアの種を得た形跡がうかがえます。

図16

また、印象派の名前の由来になったモネの代表作「印象、日の出」(図17)では、3隻の同型の小舟の大きさを手前から順に大・中・小と描き分け、霧の中の遠近感を見事にあらわしています。実はこの技法も、モネのコレクション「富嶽三十六景 武陽佃島」(図18 作・葛飾北斎)から、インスピレーションを受けたのではないかと推定できます。

図17

図18

ところが実際にノルマンディーのル・アーブル港で、モネが「印象、日の出」を描いた場所から同じ方向を眺めて見ると、絵画の景色とは根本的に違っています。対岸の岸壁は遠くにほぼ一本の線となり、風景画とするには殺風景な印象です。また、全体に平たい海面が広がるばかりであるため、画面に遠近感を出すことも極めて困難です。
モネは浮世絵を参考にする中で、目の位置を数メートルの高さに設定して風景を描く方法を学びました。視点が上がれば遠くが見えるから、奥行きが出しやすいという、極めて単純な理由です。西洋美術史では、このように視点を高い位置に設定することを「鳥の目画法」と呼んでおり、モネの1870年代の作品にはしばしば用いられる技法です。例えば、オルセー所蔵の「モン・オルグ―ユ通り、1878年6月30日」(図20)や、第一回印象派展が開催されたナダール写真館から、その前のカプシンヌ通りを見下ろすように描いた「カプシンヌ通り」(図21)などは、その典型と言えるでしょう。また、この「鳥の目から見た風景画」の画法は、役者絵や美人画、富士山の絵などを除いた浮世絵全般に共通する描き方といえるでしょう。

図20

図21

ただし、西洋美術史上でこの画法を用いたのは、モネが最初ではありません。16世紀のフランダースの巨匠ブリューゲルや、ベルサイユの宮殿画家たちも、「鳥の目画法」で優れた作品を描いています。しかし、モネにこの画法のインスピレーションを与えたのは、状況証拠からして浮世絵であることは疑う余地がありません。
またこの作品では、前面から小舟のシルエットが3隻、大中小の大きさに分けて描かれています。この絵においては、遠近感をもたらす唯一の要素が、この小舟の描き分けなのです。実際、1870年代以降のモネの絵からは、伝統的な線遠近法や、遠くのものをかすませて描く空気遠近法が次第になくなっています。その代わりに、浮世絵のように、手前の物を大きく描き、中景の物を小さく、遠景の物はさらに小さく描くことで、空間が圧縮されたような遠近感を演出したのです。個人的にはこれを「浮世絵的圧縮遠近法」と称しています。

図22

さらに、同じくモネの浮世絵コレクションの一つ「武陽金沢八勝夜景」(図22 作・歌川広重)は、夜空に浮かんだ満月の表現が、「印象、日の出」の制作に重要なヒントになったと考えられます。

そして、モネが1882年にノルマンディーの海辺のヴァロンジュヴィルの崖の上で数点描いた「税関吏の家」(図23)では、大きな海辺の断崖絶壁の上に、青空を背景にポツンと小さな家が一軒だけ立っていますが、これはモネ以前のフランス絵画にはなかったジャンルのモティーフです。これも、モネの浮世絵コレクション「足利行道山 雲の架け橋」(図24 作・葛飾北斎)との類似点がうかがえます。高い岩山の上に家が一軒建ち、右側の岸壁の家と橋で結ばれています。

図23

図24

「ドガの浮世絵技法」
この時代、印象派画家の多くが浮世絵に着想を得た作品を発表していますが、とくにモネと並んで顕著に影響を受けていたのが「踊り子の画家」ドガです。ちなみにドガ自身は自らを印象派と呼ぶことを良しとせず、半官展という意味が含まれたIndépendant=独立派と称していたようです。しかし、1874年の第一回印象派展以降、8回続いた印象派展中、7回も出展しており(モネは5回)、他の印象派画家たちと事実上、新しい絵画運動に加わったわけですから、ここでは印象派の画家として扱うこととします。
ドガの作品からは、マネやモネのように直接的影響が反映された形跡がうかがえないものの、浮世絵の物の見方と描写法を作品中に取り入れることで成功を収めています。
ドガによる「浮世絵画法」は次の3つに分類されます。
1.「鳥の目画法」 モネと同様、対象物を高い視点で描く方法です。ただしモネの風景画とは違い、オペラのバレリーナや室内で体を洗う「浴女」の制作に、モデルを上のアングルから描くのに使われました。その代表例は、オルセー美術館に収蔵されている「バレー」または「エトゥワル」(P.397参照)でしょう。
2.「手前引き延ばし画法」 伝統的なフランス絵画においては、遠近感とは、遠くに広がる空間を表現する手法でした。しかしドガは浮世絵から、限られた空間、とりわけ室内や、家の光景が手前にも広がることを見抜いて、空間を遠方ではなく、手前に引き延ばす技法を学びました。浮世絵では、主に室内の濡れ場を描いた春画に典型的な例を見つけられます。例えば鈴木春信の「煙管」(図25)では、布団を画面下にはみ出させることで、空間の広がりを演出しています。

図25

3.「対象物の二次元化」 浮世絵の特徴として、対象のアウトラインを細い黒い線で引く一方、個々の対象は平面化しています。この二つの要素を組み合わせることにより、画面上に二次元的な独特の空間を構築しました。ドガはこの特徴も自らの作品の中へ巧みに取り込んでいます。そのよい例がオルセー美術館所蔵の「たらい」(P.399参照)、ナショナル・ギャラリー所蔵の「髪結い」(P.400参照)でしょう。なお、この「対象物の二次元化」という考え方は、後世に登場するマティスら他の画家たちも取り入れており、ドガを語る上で極めて重要な功績と言えます。

 

「エトゥワル」

本作は上記のとおり、浮世絵技法1「鳥の目画法」を用いて描かれたドガの傑作です。エトゥワルというのは仏語で「星」のことですが、バレーの世界では花形のバレリーナのことを意味します。この絵を見れば、なぜ華麗に踊る花形バレリーナを「星」と呼ぶ理由も分かるような気がします。
舞台は製作年の前年の1975年1月にオペラ通りにオープンしたばかりのオペラ・ガルニエールのステージで、ちょうどエトゥワルがソロで踊っているところです。エトゥワルは回転しながら跳躍しているように感じられます。エトゥワルの視線は、画面の向こうの鑑賞者たちを見上げているようですが、これはつまり作者ドガを見上げていたということでもあるわけです。言い換えれば、ドガは、モネによって確立された「鳥の目画法」を、画家とモデルとの間のコミュニケーションの手段としても「進化」させたと言えるでしょう。

「アブサントゥ」

一方、「手前引き伸ばし画法」を取り入れた代表作が「アブサントゥ」です。
この作品は、1877年4月に、かつてオペラ座のあったルペルティエ通りで開かれた第3回印象派展に出展されました。ドガの存命中は悪い色々と意味で物議をかもしましたが、現在は、オルセー美術館に巨匠の名作として展示されています。タイトルの「アブサントゥ」とはアルコール度数72度の強烈な酒のことで、薬草のニガヨモギを含むために幻覚作用があります。そのため一時は販売禁止となり、現在流通しているのは幻覚性成分が取り除かれています。
この作品は、実際にピガールにあった「ヌーベル・アテヌ」というカフェが舞台となっています。この印象派の画家たちの行きつけの店の中で、ドガの友人であり女優のエレン・アンドレが哀れな女性として登場しています。女性の前に置かれた飲み物が、そのアブサントゥで、隣のテーブルの水差しはアブサントゥを薄めて飲むためのものです。「アブサントゥ」を男にご馳走になっている彼女の生活は困窮し、この後わずかの金で男に身をゆだねることが暗示されています。
そして、まるで他人のようにパイプをふかす男の横で、彼女は、アブサントゥを前にして、両足を開いたまま、物憂げに正面を見つめています。変形した帽子をかぶって、髪の毛は短くてバサバサで、半ばよれよれになったブラウスには、これまたしぼんだ花のようなリボンがつけられています。男に付き添われているにもかかわらず、二人の間には冷たい隔たりが感じられ、大都会の女性の孤独感が見るものに伝わってきます。
ここでドガは「手前引き伸ばし画法」を使って、手前のテーブルを半分以上も画面の外にはみ出させています。ルネッサンスやバロック期においては、空間を近景、中景,遠景の3段階に分けるのが一般的で、その近景から人物や物が画面の下にはみ出ることはほぼありえないことでした。もしルーベンスが近景に人物を描く場合、たとえ端役でも必ず全身を画面中に収めています。また肖像画であれば、ルーベンスは背景を暗くすることで奥行きを出したでしょう。つまり、空間は画家の視線が向く方向に広がっていくのが普通だったのです。
ところがドガは、自分のすぐ前に置かれたテーブルを、故意かつ大胆に画面下からはみ出させることで、空間を反対方向――つまり自分自身の方向へと広げたのです。この独特の遠近法の感覚は、狭い室内で踊り子たちや娼婦達を描く際に、大きな効果を発揮しています。

「たらい」

本作は80年代に制作された7枚の「入浴シリーズ」の一枚です。当時のパリでは、自分のアパート内に水道を引いている人はごく一部のお金持ちに限られていて、通常の住民たちは、毎日のように一階の井戸や共同の噴水から生活用水を汲み上げていました。そのため当時の庶民にとって、水は大変な貴重品でした。もちろん入浴の際にもバスタブを使えるはずがありません。寝室などに常備しているたらいに水溜り程度のお湯を集めると、そのわずかのお湯にスポンジを浸して体を拭いていたのです。
この絵では、モデルがたらいにうずくまり、左手でたらいの底に手を付くと、反対の手で首すじを洗っています。身体の正面もモデルの顔も見せず、背中のみを見せることで、適度なエロティスムを表現しています。
一方、画面の右側には、テーブルとテーブル上の水差しやブラシ等が高い位置から見下ろしたように描かれています。テーブルの左端の輪郭線は太くはっきりしているため、画面は垂直に両断されています。さらにテーブルの足などは描写を省いているため、作品全体の遠近感が意図的に半ば圧縮されているのです。さらに画面右側のテーブルは、遠近感を消したうえで、平面化してしまったのです。テーブル上の水差し2個に至っては、まるでテーブルに張り付けられたシールのようです。

「髪ゆい」

「髪ゆい」は、ドガ晩年の油彩画です。
晩年のドガが、浮世絵からヒントを得た対象の二次元化と、原色での単色化による画面の統一を試みたことの証となるのがこの作品です。また、後の巨匠マティスが長年所有し、自らの作品への直接的影響が認められるという意味でも、極めて重要な一枚と言えるでしょう。
絵の舞台は女性の寝室のようですが、全面の白いテーブルと左上のカーテンらしきもの以外は、何一つ具体的に描写されていません。左側の女性も身体が赤一色で統一されており、平面化が進んでいます。さらにドガは、平面化した画面全体を、赤で統一するという極めて大胆な試みを実行しました。また白いテーブルをキャンバス下にはみ出させ、画面を手前に引き伸ばしました。
ドガが10年前に「たらい」で見せた対象物の平面化の傾向は、この「髪ゆい」の完成により、もはや否定できないものとなりました。そして、対象物の2次元化というそれまでの絵画の常識をくつがえす試みは、のちにマティスにも大きな影響を与えることになります。マティスの代表作の一つ「食卓、赤いハーモニー」(図26)は、まさしくその象徴なのです。

図26

「新しい浮世絵を創りあげたゴッホとゴーギャン達、ジャポニスム第二世代」
1880年の後半から、印象派世代を体験した画家たちによって、フランスにおけるジャポニスムは新しい世代――第二世代に入りました。それ以前のジャポニズム――第一世代は、印象派の画家たちを中心に流行したものの、着物や浮世絵等の日本的なオブジェを背景のデコレーションとして用いたり、高いアングルから描く「鳥の目画法」であったり、または控えめな画面の平面化など、まだ表層的な取り入れ方に留まっていました。
しかし第二世代は、それだけでは飽き足りず、自分たちの解釈による「浮世絵」を創り始めました。彼らはほぼ完全に画面を平面化し、次に浮世絵のように輪郭線を黒い線で描く「クルワゾニスム」という「新しい浮世絵」を生み出したのです。その先駆的役割を果たしたのがゴッホであり、さらに友人のゴーギャンとエミール・ベルナールによってその世界観が確立され、そして“大変日本的なナビ”の異名を持つピエール・ボナールへと続きました。
後半は、ゴッホら第二世代がジャポニスムの生みの親である印象派と決別することで、より浮世絵に近づき、最終的にその浮世絵すら超越する“装飾的な二次元の世界”を開拓していったとする逆説的経過についてお話します。

「アルルの女」

1888年2月、日本の太陽を求めてマルセイユに行こうとしたゴッホは、なぜか途中のアルルに居ついてしまいました。そのアルルの城外――場末のラマルティンヌ広場に「黄色い家」(図27)を借りて、同年10月にゴーギャンと共同生活を始めます。

図27

この絵のモデルとなったマダム・ジヌーは、その「黄色い家」の向かって左のカフェ「カフェ・ドゥ・ラ・ギャー」の経営者でした。ゴッホは彼女の肖像画を6枚も描き、ゴーギャンも「アルルのカフェ」(図28)で、自分のカフェの中で飲み物を前に座るマダム・ジヌーを描いています。

図28

マダム・ジヌーは、アルルの伝統的な既婚女性の服装でポーズをとっています。プロヴォンス方言でエゾ(ESO)と呼ばれる黒い長そでのコットンのブラウスに、非常に大きな三角形の白いショールをかけ、おなかの前で左右に交差させています。左の胸には、花柄のブローチが見えます。頭の上では、ゴンセ(Gansé)と呼ばれるブルーの刺繡付きのリボンで、頭の上で束ねた髪の毛をかくして、リボンの両端は背中まで垂らしています。そしてテーブルの上には、日傘らしきものと手袋が置かれています。
前年のパリ時代には、ゴッホは自画像を徹底した点描画法で描いたこともあります。ところがこの「アルルの女」では、点描画法は放棄され、輪郭線はやや控えめなブルーのアウトラインで縁取られ、ワンピースは紺一色、肩掛けはほぼ白一色で塗りつぶされてあります。さらに顔面も浮世絵のように平面処理されたうえ、眉毛、目、鼻、口が、役者絵のようにくっきりと線描されています。
一方で、背景は遠近感を殺した太陽の色――レモン・イエローで平坦に塗りつぶされています。しかし、それを補うかのように、前面のテーブルを画面下にはみ出させる「手間引き延ばし画法」が用いられているのです。
ここでゴッホが追及したことは極めて明快です。彼が追い求めた日本の太陽を、彼独自の「新しい浮世絵」として描いたのです。もはや彼は、南仏で追い求めた太陽を画面上に描く必要はなくなりました。代わりにゴッホは、自らの心の中に生まれた太陽を描くべく、新たな方向性を切り開いて行ったのです。

「ズーアヴ」(アルジェリア歩兵)

日本ではそれほど著名とは言えないこの肖像画ですが、ジャポニスムの新世代の到来を告げる作品であり、まさにターニングポイントだったと言えるでしょう。日本語ではよく「アルジェリア歩兵」として紹介されますが、決して正しい名称ではありません。実際、日本語で翻訳するに最も適した言葉がないため、本稿では原タイトル「ズーアヴ」のまま紹介することとします。ゴッホは1888年6月から夏にかけて、習作も含めて全部で5枚の「ズーアブ」と、ズーアヴ部隊のミレー少尉の肖像画を1枚制作しました。ミレー少尉とゴッホの友情はゴッホ研究家の間でよく知られています。ゴッホは少尉にデッサンの手ほどきをして、少尉は同じ年の8月15日にパリに出かけた際、弟のテオにアルルで制作した兄の作品を手渡しています。二人の友情は、少尉が10月にアフリカに異動するまで続きました。
このズーアヴと呼ばれたフランスのアフリカ軽歩兵部隊の兵士ですが、本作では緑のドアと赤茶色のレンガの壁の前で、ずいぶん変わった服装でポーズをとっているように見えますが、これはアルジェリアの民族衣装を基に制作された正規の軍服姿なのです。
チェチアと呼ばれる赤い帽子に、紺色のベスト、赤いダブダブの非能率的なサルエールというズボンを履いています。特徴的な緑の腹巻き式ベルトは幅40センチメートル、長さ4メートルもあり、一人で締めるのは困難だったと伝えられています。さすがに、こんな非能率的で、おまけに遠くからも目立つ軍服は、20世紀に入ってからは、主に儀式やパレード用のみに使われて、実際の戦闘行動には使われなかったそうです。
ゴッホは1888年6月6日のテオ宛の長文の手紙の中で、「ズーアヴ」についてこのように書いています。
「とうとうモデルが見つかりました。ズーアヴです。闘牛のような首に、トラのような目をも持つ小柄な青年です。まず顔から描き初めて、他の部分を始めたのですが、描いた胴体はひどく難しかった。そのユニフォームは、ブルーのエナメルが塗られた鍋のような色で、そこには、ひなびたオレンジがかった赤の紐飾りが付いていて、胸にはレモン色の星が二つ付いています。平凡なブルーだし、大変表現が難しい。」
「ズーアヴ」と浮世絵の関係
ゴッホはアルル滞在時に、多くの浮世絵を模写しています。たとえば歌川広重の「名所江戸百景大橋あたけの夕立」(図29)や「梅の花」(図30)などです。前者にはヨーロッパ絵画にはほとんど前例のなかった雨の描写が斜めの線で表されていて、ゴッホのみならず当時の前衛画家達の関心を引いたことでしょう。また後者は、花のついた梅の大きな枝のみを前面に描き出し、背景に遠景の梅林を描写するという当時の西洋絵画の常識を完全に打ち砕いた描写法で制作されていました。

図29

図30

またゴッホは前述の6月6日付けの書簡の中で、日本について下記のように書いています。「我々は日本の絵が好きで、皆その影響を受けています。印象派の人達には共通した点です。でも日本には行くことができません。ということは、それに等しい場所といえば、南仏ではないですか。それで、私は、新しい美術のすべての未来は南仏にあると信じています。」
これほどまでに、新芸術の真髄を日本美術――つまり浮世絵に見出したゴッホは、画家としての日本趣味ジャポニスムを、前時期に見られた、日本の着物や団扇、ついたて、浮世絵等を画面の中にモティーフとして取り入れる手法から大きく進歩させました。この観点からも、ゴッホの業績は再評価されるべきでしょう。彼は、浮世絵の特徴的な描写法、特に影をつけない画面全体が非常に明るい画面や、対象を大胆に平面分割して、原色を平たく塗っていく方法(仏語の用語でA PLAT ア・プラと呼びます)、圧縮された遠近法、さらに即興的な描写法等を独自の画法として吸収しました。とりわけ浮世絵の「役者絵」から受け取れる強烈な印象を、自分の描く肖像画にも取り入れようとしていたのではと想像しています。こういった浮世絵画法がはっきりと現れているのが、この「ズーアヴ」なのです。
極めて簡略化されたベスト、シャツ、腹巻風ベルト、帽子、背景のドアと壁も、陰影をつけずに色を平たく塗ったあたりは、まさに浮世絵を模範にしたことが容易に理解できます。でも色調に深みを持たせるための努力と、筆さばきも同時に感じられる作品です。
言いかえれば、日本の物品を画面に取り入れただけのジャポニスム第一世代から、浮世絵の描写法と色彩を自分独自の描写法として消化した、新しいジャポニスム第二世代を、ゴッホは切り開いたといえるのです。そして彼の切り開いた新しい道は、友人のゴーギャンやナビ派の画家たち、さらにアール・ヌーボーへと引き継がれていきます。

 

「ブルターニュのゴルゴタの丘」

“ゴッホの友人” ゴーギャン作の「ブルターニュのゴルゴタの丘」は、現在ベルギー王立美術館に所蔵されており、キャプションには「緑のキリスト」という別のタイトルも記載されています。本作が制作される前年(1888年)、ゴーギャンは10月下旬から12月まで、ゴッホと2ヵ月間の共同生活を南仏アルルで送っています。しかしながらその共同生活は、ゴッホの耳切事件によって破綻を迎えました。
ちなみに仏語(ゴーギャンはフランス人)のタイトルに含まれる「ル・カルヴェール」とは、イエス・キリストが磔になったエルサレム郊外の処刑場「ゴルゴタの丘」を意味します。ブルターニュ地方には、多くの村の広場に同様の受難像「ル・カルヴェール」が残っています。
本作で描かれているのは、かつて教会の墓地だった場所に、6段になった花崗岩の台上に、聖母、マグダラのマリア、マリ・サロメの三人のマリアに見守られて十字架から降ろされるキリストの姿です。その右胸には槍の痕が、下に垂れた右手には釘の聖痕が描かれています。これらのイメージはすべて青みがかった褐色で平坦に塗られていて、ブルーのラインによって分割されています。つまりクルワゾニスムです。
画面左上には、紺色の海にまぶしい青空が広がり、薄いピンクの砂丘は上側が草で覆われています。この砂丘は3つの大きな塊に分割され、平面化されているため、海辺から続くS字型の細い道が画面手前まで続いていることがはっきりとわかります(図31)。この細道は、見る者の脳裏に、キリストがエルサレムから十字架を背負ってゴルゴタの丘まで歩いた道を思い起こさせるのです。

図31

また、受難像の前に描かれた女性は、真紅のかぶり物をしています。ブルターニュ地方の女性のかぶり物は本来白であり、赤ではありません。しかしここでは、イエスの真下に真紅のかぶり物を描くことで、ゴーギャンはイエスが十字架で流した贖罪の血を暗示しているのです。
また、女性の手前には黒い羊が見えます。ヨーロッパでは、黒い羊は「他の者とは違う存在」や「村八部された者」の隠語として使われます。もしかすると、だれにも理解されずに、危険人物として精神病院に隔離された友人ゴッホのことを思いだしたのかもしれません。
ゴーギャンの作品は、本作のように画面を細い褐色の線で分割することが多く、クラシックな遠近法も色のグラディエーションも否定していますが、この画目分割と平面化の画法こそがクロワゾニスムです。このクロワゾニスムと画面の二次元化こそが、浮世絵技法の根本的なコンセプトであり、このクロワゾニムによってゴーギャンも独自の新しい浮世絵を創り出したと言えるでしょう。

「赤い牛と浴女たち」

ゴーギャンのクルワゾニスムについて語ったなら、クルワゾニスムの立役者の一人であるエミール・ベルナールについても言及しないわけにいきません。ベルナールは、ゴッホとも親交があり、オーヴェールで自殺したゴッホの葬儀に参列した数少ない友人の一人でもあります。
画面上には、10人の浴女たちと左上に一匹の牛が描かれています。手前には青い帯が描かれており、川か泉を表しています。浴女たちのプロポーションは、現実を無視して大きな円筒や円錐の集まりのように表現されています。このような対象のとらえ方は、セザンヌの浴女シリーズにも共通しています。
また、すべての対象が黒いアウトラインで縁取られ、クルワゾニスムの特徴が表れています。それに手前の二人が大きく描かれていることを除いては、伝統的な遠近感は放棄されており、黄色の平面の中に、浮世絵のような圧縮された空間が創られています。
一方で左上の牛は、全身が異様に赤く、地面を飛び跳ねているかのような姿勢を取り、極めて非現実的な印象です。このような現実と非現実が入り乱れた平面的世界を強烈な色彩で描き出すことも、クルワゾニスムの特徴の一つなのです。ゴッホ以前のジャポニズムが、あくまでも実際に見た対象をいかに表現するかが問題とされたのに対して、ゴーギャンとエミール・ベルナールは、実際に見たものと、非現実的なもの、それに自然にはあり得ない強烈な色彩の三つの要素を組み合わせた上で平面化し、彼らなりの浮世絵に創り上げたと言えるでしょう。
この三つの要素を組み合わせて平面化した画法――特にゴーギャンとエミール・ベルナール、それに彼らと親交のあったルイ・アンクタンを加えた三人によるクルワゾニスムをSynthétisme 「総合主義」と呼びます。この総合主義の登場で、フランスの印象主義から断絶した新しい芸術運動が生まれたわけです。しかし、逆説的に、総合主義を唱えたゴーギャンやエミール・ベルナールの作品は、印象派よりも、さらに浮世絵に近づいていったことになります。

「白い猫」

本作「白い猫」は、同じナビ派の巨匠ピエール・ボナールの作品です。ナビ派は1888年にポール・セリュジエが、ブルターニュのポン・タヴォンにいたゴーギャンと出会い、彼の強烈な色彩理論に衝撃を受けて、パリでピエール・ボナールやモーリス・ドゥニらと結成したグループです。「ナビ」は、ヘブライ語で「預言者」を意味し、中世の精神を継承する神秘主義的な側面を持っていました。
ボナールはナビ派の中でも最も日本美術の影響を強く受けており、俗に「非常に日本的なナビ」の異名を持っています。
本作では、草むらを散歩中の白猫が、前足と後ろ足全部を伸ばして背中を丸め、目を細めて気持ちよさそうにしています。この猫の内面を表現するため、ボナールは不必要な遠近法や、既成のデッサンの法則と美的規範を無視して独特の絵画空間を構築しています。ボナールは“猫のボナール”のと称されるほどの愛猫家で、彼の猫に対する愛情がストレートに伝わってくる作品です。
ところで猫好きと言えば、幕末に活躍した浮世絵師、歌川国芳も大の猫好きで、多くの猫の絵を後世に残しています(図32)。もしかするとボナールは、歌川国芳の猫の浮世絵を目にしていたのかもしれません。

図32

ところで本作で描かれている白猫ですが、身体全体の輪郭線はぼかされていて、足が異様に長く描かれているため、大きく背伸びしているように見えます。さらに、S字型に宙を指したしっぽと、背景の垂直の木のおかげで、いまにも宙に浮かびそうな雰囲気すらあります。
そして頭と背中には、少量のイエローオーカーが塗られており、すごく気持ちよさそうに見えます。ただし、これは決して実物を忠実に再現したものではありません。猫好きだったボナールの猫の気持ちが表されているのです。
手前の地面はほぼイエローオーカー一色で塗られて、ところどころにグリーンがのぞいているだけです。背景の木々は、中央の木を除いては、グリーンのいびつな円形が何十個も並置されて、写実効果というよりも装飾的効果が高くなっています。
こうしてジャポニスムは、誕生から40年の長きを経て、ボナールの登場により、ようやく日本に追いつき独自の新境地に至ったのです。

「ディヴァン・ジャポネー」

ジャポニスムについて語るとき、ロートレックを抜きにして語ることはできません。4色刷りのリトグラフ「ディヴァン・ジャポネー」は、そんな彼の代表作の一つです。タイトルのディヴァン・ジャポネーとは、「日本風のソファー」という意味で、ここではモンマルトルの麓のピガールのマルティンヌ通り75番地にあったキャバレーの名前を指しており、ポスターの右上にキャバレーの住所も書かれています。
1873年に、テオフィル・ルフォーという実業家がこのキャバレーを買い取った際に、当時流行の日本趣味で内装することを思いつき、内部の壁を竹で被い、恐らく日本製と誤認した中国製の赤と黒の派手なインテリアを配置し、ウェイトレスには着物でコスプレさせました。これが「ディヴァン・ジャポネー」つまり「日本風ソファー」の由来です。
このポスターは、この店が1893年1月に再オープンした際に制作されました。
タイトルに「ジャポネー」というフレーズが含まれているために、これをジャポニスムの一典型とする風潮が日本にはあり、先日上野の某美術館で開かれた展覧会でも同様の傾向が垣間見られました。しかし、ロートレックのポスター芸術には、「ディヴァン・ジャポネー」だけでなく、全般的に浮世絵の強い影響が認められます。対象物の単純化と平面化、それに原色の平面的使用、画家の非常に自由な視点、それに圧縮された空間処理等は、明らかにロートレックが浮世絵から影響を受けた証拠であり、決してタイトルの1フレーズのように単純で表層的な者ではありません。
本作でまず目を引くのは、中央に描かれた黒いシルエットの女性――一世を風靡したトップ・ダンサーのジャンヌ・アヴリルです。ここではオーケストラボックスの前に陣取る観客の一人として描かれています。彼女の横顔の最低限に省略された目鼻口を除いては、頭から手首、膝までが黒一色で塗りつぶされています。彼女が据わる椅子の黄色の線と、ステージの黄色が、黒いシルエットをさらに引き立てています。美女の姿をここまで黒一色で塗りつぶして、なおかつ世に残る名作としたのは、フランス美術史上初めての例であり、ロートレックの天才性が如実に表れています。
一方、向かって右の男性は、店の常連で、エドゥアール・ドゥジャルダンという小説家兼詩人です。このポスターのおかげで、彼は本業の文筆業よりも、ポスターのモデルとして名を残すことになりました。
この二人は、オーケストラボックスの真横に陣取って、シャンパンを飲みながらステージ上の歌手イヴエット・ギルベール(図33)を眺めています。このオーケストラボックスが、画面を斜めに横切る構図になっていて、楽団員の姿はコントラバスの竿で象徴的に表されている点にも独創性が表れています。

図33

歌手のギルベールは当時キャバレーとカフェ・コンサートで人気のあった歌手です。彼女は首から下のみが描かれていますが、トレード・マークだった肘まである長くて細い黒手袋で、誰なのか容易に判別できます。
このポスターが制作されたころは彼女の絶頂期で、前年にはベルギーのリエジュとブラッセルでも自作の「ラ・ポシャート」を上演して大成功を収めました。

「悲しみの花瓶」

今まで時系列を追ってジャポニスムの変遷について話してきましたが、ジャポニスムの第二世代の作家として、エミール・ガレ(図34)の名を欠かすことはできません。彼はジャポニスムのモティーフを用いたことで有名なガラス工芸家ユージェンヌ・ルソーに手ほどきを受けた後、1885年にナンシーの森林学校(Ecole nationale du Génie Rural, des Eaux et des Forêts)に農商務省の官僚として留学していた水墨画家・高島得三(図35 雅号・北海)と親交を結びました。高島はナンシー滞在中に約400枚の水墨画を制作していますが、ガレは墨絵風の植物や動物の描き方を高島から学びました。高島はその後1907年に創設された官展である文展結成に幹事として参加し、1908年からは審査員も勤めました。

図34

図35

「悲しみの花瓶」は、高島からの影響が最も顕著に表れた作品で、1889年のパリ万博に出展した際に好評を得ました。瓶の底の方――つまり川の水面に向かって墜落していくトンボの姿を見事に表しています。この哀れなトンボの姿からは、アルザス・ロレンヌ地方を奪われた悲しさ、それに当時世間を騒がせていたドレフュス事件で明るみになった、フランス陸軍の偽証と軍の権威の低下を暗示しています。
最後に――ジャポニズム研究の課題と今後
そもそもジャポニスムは、れっきとしたフランス語の芸術用語です。1872年に美術評論家・写真家のフリップ・バーティーが「芸術と文学のルネッサンス」(図36)というフランスの冊子で用いられたのが初出となっています。しかし芸術文化としてのジャポニスムは、日本が開国した直後の1860年代からすでに始まっていました。

図36

例えば冒頭で触れたジャポニスムの先駆者ジャームス・ティソは、ディジョンの美術館が所蔵する「浴室のラ・ジャポネーズ」(P.392参照)を1864年に制作しました。また農民画家ミレーは、1864年の書簡で、友人の画家ルソーとパリの骨董商で見つけた浮世絵を巡って取り合いになったと述べています。そしてジャポニスムは、姿かたち、使われ方を変えながら、アールヌーボーまで続き、第一次世界大戦が勃発した1914年に終結したというのが定説になっています。
つまりジャポニスムは約半世紀の長きに渡る歴史があり、一過性の流行ではないということです。当然1860年代のジャポニスムと印象派のジャポニスム、ゴッホ、ゴーギャン、ナビ派、アールヌーボーによるジャポニスムは、それぞれが特徴あるジャポニスムを創り上げました。言い換えれば、ジャポニスムとは、初期のように単に日本的なモティーフを画面に描きこみ、浮世絵の構図を借用することから始まって、浮世絵をはじめとする日本画の「ものの見方考え方」を取り入れながら、従来の西洋絵画にはなかった自由な表現を追求した美術運動の総称と再定義できるでしょう。
またジャポニズムの流れが広範かつ半世紀に及んだため、時期別、流派別に独自の進歩・進化を遂げて行きました。とくにゴーギャン以降は、作品を注視して比較して見なければ、なかなかそれがジャポニスムだとは気づきにくいほどの進化を遂げています。また、過去20年ほどの世界的な漫画ブームは、のちの世代にヌーボー・ジャポニスム、新ジャポニスムと命名されるかもしれません。
この急激かつ長期間に及ぶジャポニスムの進化にもかかわらず、今までは、ジャポニスムをきちんと時系列を追いながら、時期別、流派別、作家別に科学分析を行うことがないがしろにされてきました。
今後のジャポニスムの研究は、ぜひ作家ごとの作品に秘められたジャポニスム、それに技術的な部分も解明しつつ、時系列を追った体系的な研究が必要とされるでしょう。そして、その研究に、ぜひ日本の研究者が世界の先頭に立って、研究をリードしていただきたいと願っています。

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