美術史家・森 耕治の欧州美術史論 Vol.6
ドラクロワ、自由と光を求めて
芸術が芸術であり続けて、政治のプロパガンダに陥らないことは、芸術家の主体性という観点からも、極めて大切なことです。しかし、目の前で起こっている、大国による侵略行為や圧政に対して、無関心を装ったり、意図的に沈黙を守ったりすることは、芸術家としての良心と自由を売り渡すことになりかねない危険を孕んでいます。
今回取り上げる、ロマン主義の巨匠ドラクロワは、王政復古下でデビューを果たして以来、オスマン・トルコ帝国によるギリシャ人の虐殺や、シャルル10世の圧政に対して、自由と独立の尊さを、明暗の効果と明るい色彩、それに激動表現によって、訴え続けました。
彼の勇気ある行為は、ウクライナへのロシアの武力侵攻によって、世界平和が脅かされた今日、ウクライナ問題を、つい「対岸の火事」と受け止めがちな日本でも、芸術家の社会的使命を考える際に、貴重な手がかりを与えてくれるでしょう。
また彼は、ダヴィッドや、アングル等の新古典主義が美術界を支配していた19世紀前半のフランスにおいて、真っ向から、ロマン主義という新しい価値観を創り上げ、さらに印象派の先駆的役割を果たした「美の革命家」でもありました。
最初にご紹介する作品は、「キオス島の虐殺」です。この作品には、「ギリシャ人の家族が死か奴隷にされるのを待っている」というサブ・タイトルがついています。タイトルとなったキオス島の虐殺は、19世紀のギリシャのトルコからの独立戦争の中で、最も悲惨なできごとでした。
ギリシャは15世紀以降、オスマン帝国(かつて栄えたイスラム系多民族帝国)の支配にありましたが、1820年に独立戦争が起こりました。約10年に及ぶ戦争の中で、約20万人ものギリシャ人が亡くなったといわれています。その中でも最も多くの犠牲者を出したのがこのキオス島でした。キオス島はエーゲ海に浮かぶ大きな島で、トルコのすぐ西に位置しています。そのエーゲ海上で最も豊かといわれたキオス島に、1822年3月、約2500名のギリシャ義勇兵が上陸して、オスマン帝国軍との間に戦闘が始まりました。
怒り狂ったオスマン帝国は、同年4月に7000人の軍隊を島に上陸させ、島民の大量虐殺を行いました。12歳以上の男性と40歳以上の女性、そして2歳以下の幼児が皆殺しとなり、その結果、キオス島だけで、なんと2万5000人が殺され、4万5000人もの女性と子どもが奴隷として売り飛ばされたのです。島から脱出して生き残れたのはたった1万から1万5000人と言われています。
このキオス島での大量虐殺は国際世論を巻き起こし、イギリスのロマン主義の詩人バイロンやフランスのビクトル・ユーゴーもペンを取ってオスマン帝国を糾弾しました。ドラクロワも同様に、この作品でキオス島民の悲惨な姿を描き、世論に訴えたのでした。
ドラクロワがこの作品について、日記中で最初に言及したのは翌年の1823年5月でした。「官展にキオス島の虐殺のシーンを描いて出展することに決めた。」と書きました。そして、ちょうど1年後の1824年の5月に完成させてサロンと呼ばれる官展に出展し、大成功を収め、国から6000フランで買い上げてもらうことができました。
それでは、画面の解説を行いましょう。水平線の見える小高い丘の上が舞台です。遠くには略奪され、火をつけられた海辺の町が見えます。恐らく大量虐殺が繰り広げられた、島の首都で、海辺に位置するコラをドラクロワは想定して描いたのでしょう。町外れの小高い丘に生き残った住人たちが集められ、これから、さらに生存者への殺戮が続き、若い女性たちは手をくくられて奴隷として連れて行かれるところです。
画面右下を見てください。殺された若いお母さんの乳房を、赤ん坊が吸い続けています。その向かって左では、呆然とした老婆が、うつろな眼差しで画目の外側に視線を向けています。このように、登場人物の視線が画面の外に向けられるのは、新・古典主義の作品には見られない新しい表現様式です。
画面中央では、銃を手にしたオスマン帝国兵が近寄ってきて、もうこれまでと絶望した兄弟二人が抱き合っています。画面左下では、すでに殺された夫の肩に寄り添う妻の姿が描かれ、地面には短剣が投げ捨てられています。殺された夫はこの短剣で最後まで妻を守ろうとしたのでしょう。
そして、画面左端には、お父さんに最後の接吻をする少年の姿と、恐怖の中で抱き合う夫婦の姿も描かれています。画面の右を、もう一度注目してください。捕らわれた若い女性が、オスマン・トルコ兵の乗った馬の尻尾に手をくくられて連れ去られようとしています。そして、気づきにくい点ですが、そのすぐ左にもう一人の立ったギリシャ男性の姿が見えます。でも、なぜかその男性の頭は見えないのです。この頭のない男性は、おそらく連れ去られようとする女性を救おうと、勇敢にもトルコ騎兵に一人で立ち向かった、その女性の婚約者だったのかもしれません。でもあっという間に、オスマン帝国軍の騎兵にサーブルで頭を切られてしまったのです。
ところで、殺されたり、奴隷として売られたりしたキオス島の7万人もの犠牲者は決して無駄ではありませんでした。ヨーロッパの世論を動かし、7年後の1830年には、ギリシャは領土をギリシャ本土に限定された形ながらも独立が認められました。しかし、残念ながら、キオス島のギリシャへの併合は、1912年まで待たざるをえませんでした。
ルーヴル美術館が所蔵する「墓地の若い孤児」は、ドラクロワの作品中、小さいながらも私が最も好きなものです。
この作品は、ドラクロワのもう一つの代表作「キオス島の虐殺」に描かれた遠くをうつろな表情で見る老婆に構図が似ているために、長いあいだ「キオス島の虐殺」の習作だと見なされてきました。しかし、この絵はドラクロワの最高傑作と見なされるくらいに完成度の高い作品です。残念ながらドラクロワの日記には、この作品に関する記述はありませんが、完成度の高さから言って、習作とみなすのは不適当というのが私の意見です。
家族と両親を虐殺された少女が、両親をキリスト教徒の墓地に自ら葬った後、涙のかれた悲壮な顔で、天を見上げています。やり場のない悲しさと絶望感の中でも、まだどこかで、主の救済を信じている少女の心情が見事にあらわされています。背景に見える墓地には、新しい十字架が並んでいます。画面を突き抜ける彼女の視線は、いったいどこを見つめているのでしょうか。
この孤児の悲壮な表情に見覚えがあります。ドラクロワが生涯お手本とし続けたルーベンスの作品に、アントワープの王立美術館が所蔵する「わらの上のキリスト」というのがあります。その中央パネルに描かれた、死んだイエスを泣いて悲しむ聖母マリアの姿をよく見てください。右上の天を見上げて悲しむ聖母の姿と、同様に右上の空を見上げて悲嘆に暮れる孤児の少女の姿には共通点が認められます。
この「墓地の若い少女」は、「キオス島の虐殺」と同様、ドラクロワの専門家によって、当時の国際問題を題材とした絵として分類されることが多いのですが、この絵の奥深いところから、キリスト教絵画で、十字架から降ろされたイエスを抱いて泣く聖母の姿、この種の絵をピエタといいますが、そのピエタと同じ印象が湧き上がってきます。
ドラクロワは晩年、パリのサン・ジェルマンの、サン・シュルピス教会で聖書を題材とした大作を3点制作しました。また忘れがちなことですが、その他にも、数多くのキリスト教絵画を制作しました。そろそろ、この絵を、キリスト教絵画の観点から再評価してもいい時期にきているのではと思います。
この作品は、ギリシャ独立戦争(1821-1829年)中に、祖国の独立のために、残忍なオスマン帝国軍と戦い、玉砕した、ミソロンギ守備隊の史実に基づいて描かれています。
この、屈服するよりも死を選んだ、名もない英雄たちのエピソードは、孤立無援の中で、黒海沿岸のマリウポリの製鉄所に立てこもって、ロシア軍と絶望的な戦い続けたウクライナ軍の姿に、相通じるものがあります。
さて、絵の舞台となったミソロンギは、ギリシャ中央部に位置する海辺の町です。ここはギリシャ独立戦争で、キオス島と並んで、オスマン帝国軍と激戦が繰り広げられた悲劇的な場所です。1822年以降4回もオスマン帝国軍に包囲されたにもかかわらず、1826年まで持ちこたえました。
ギリシャ軍は2回目の籠城戦に勝利した後、イギリスの詩人バイロンも私財をなげうってミソロンギのために参戦し、翌年の1824年4月に戦地にて病死したことは、国際世論を動かす上でも重要な役割を果たしました。
そして1825年、5000人の戦闘員と、その以外に女、子どもがたてこもるミソロンギを、1万5000人のオスマン帝国軍が包囲しました。その後も、ギリシャ軍は1年間持ちこたえたのですが、オスマン帝国軍は、約1万人のエジプト軍を援軍として呼びました。食糧難と伝染病に苦しんだミソロンギの住民は、女、子どもを含めて約9000人がミソロンギを脱出して、100㎞北東のアムフィサという町に逃げようとしました。しかし、オスマン帝国軍は、その脱出した住人の大半を虐殺し、たった1800人のみ目的地のアムフィサにたどり着きました。
一方、ミソロンギにわずか残ったギリシャ守備隊は、1826年4月22日にオスマン帝国軍がとうとう町に侵入した際に、自ら要塞の火薬庫に火をつけて爆発させ、自決してしまいました。この作品は、そのミソロンギの悲劇的かつ英雄的な戦いを描いたものです。
それでは、画面を見てみましょう。薄いチュニックを着て、胸をあらわにした女性戦士の堂々たる姿は、ルーヴルの古代ギリシャ彫刻「サモトラケのニケ」からヒントを得たように思われます。彼女は、爆発で廃墟となった要塞の瓦礫の上に立ち、背後からオスマン兵が近寄って来るにもかかわらず、両手を腰の横に広げて、澄み切った表情で、遠い空を見つめています。近い将来、必ずや勝ち取るであろう、自由と勝利を確信した、勝利の女神の眼差しです。
また、彼女が立っている瓦礫の下には、戦死したギリシャ義勇兵の手がのぞいています。この、同胞の屍を踏みしめながら、自らの命を、祖国の自由と独立のために捧げる美女の姿が、1830年の代表作、「民衆をみちびく自由の女神」のアイデアの一つになったことは間違いありません。
ところでミソロンギの悲劇と、ギリシャ軍の英雄的な戦いは決して無駄ではありませんでした。ミソロンギの玉砕は、ヨーロッパの世論を動かして、1827年のロンドン条約によって、フランス、英国、ロシア三国がギリシャ沿岸に共同で軍艦を派遣することになりました。
三国連合艦隊は、ペロポネソス半島のナヴァリノ湾において、偶発的に発生した海戦でオスマン・エジプト艦隊を撃破しました。この勝利が契機となって、ギリシャ軍は、ギリシャ本土を制圧して、1830年のロンドン議定書によって、独立が認められたのです。
これは、ドラクロワがロマン主義の存在を世間に知らしめた傑作「サルダナパールの死」です。ルーヴル美術館には、サイズの小さな習作も所蔵されています。英国の代表的ロマン主義詩人で、ギリシャ独立戦争に身を投じて、現地で病死したバイロン卿が1821年に発表した戯曲「サルダナパラス」からインスピレーションを受けています。
紀元前7世紀、古代アッシリアの王サンダナパールの宮殿が敵に包囲され、陥落が避けられない事態となりました。その時、王は、敵の奴隷とさせないために、宮殿のベッドに寝そべったまま、自分の愛人達や、家来、馬、犬などを忠実な家来に殺させました。
この作品は、1827年の官展で、新古典主義の巨匠アングルの作品の正面に掲げられました。美術史上、ドラクロワが公然と、新古典主義に挑戦状をたたきつけた出来事と見なされています。
画面は、登場人物が、複雑かつ、いびつな三角形上に積み重ねられ、左端に描かれた奴隷たちや馬は、画面からはみ出し、画面に激動性と不安感、それに官能性が入り乱れた、混沌とした世界を創り出しています。そして、ただ一人、すべてを悟ったかのように、落ち着き払って寝そべりながら、目の前の地獄図を傍観しているサルダナパール王(画面左上)の姿が、対照的です。
また、画面には、伝統的な遠近法が欠如していて、画面左側の奴隷たちと馬は、半ば宙に浮いたように見えます。また、左上の寝台から右下に伸びた、赤い三角形のゾーンに注目してください。
「線描写の新古典主義」と「色彩のロマン主義」と呼ばれることがあるように、ドラクロワの鮮やかな色彩は、天才的なデッサン力を持っていましたが、決して画面は、色鮮やかではなかった新古典主義のアングルと、根本的に異なる点です。また、ドラクロワは、鮮やかな色彩の使用に加えて、1830年代から、太陽光に関心を持ち、画面に陽光の効果を取り入れるようになったことで、印象派の先駆者の一人とも見なされます。
また、寝台の左右の薄暗いゾーンと、鮮やかで明るく描かれた寝台との対比は、ルーベンスを代表格とする、バロック美術の、明暗の差の激しい激動表現を、その手本としています。
そして、この作品によって、ロマン主義が、それまで権威を保ってきた新古典主義とは全く違った、新しい絵画の潮流であることを、よりいっそう世の中に印象付けた結果となりました。しかし、天才的な画家の多くがそうであったように、この絵は大変な不評を買いました。批評家の中には「官展の中で最悪の作品」とさえ言った人もいました。唯一文豪ビクトル・ユーゴーのみが、友人に書いた手紙の中で、「彼のサルダナパールは素晴らしい作品だ」と賞賛しました。
そして、この絵の発表から、あの「民衆を導く自由の女神」を発表するまでの5年間、全く注文を得ることができず、耐乏生活を余儀なくされます。
ところで、この絵の題材となったバイロン卿の戯曲を誰もが知っていたわけではなく、予備知識なしで、この作品を理解することは、事実上不可能でした。そこで、ドラクロワは、発表時に、あえて次のような説明を添えました。
「反乱軍が宮殿を包囲した。巨大な薪の上に置かれた絢爛豪華な寝台に横たわったサンダナパールは、奴隷たちと宮殿の士官に、彼の愛人たちとお付きの者たち、それに好きな馬と犬を殺すように命じた。王の快楽に使ったいかなる物も、残してはならなかった。」
それでは、画面中央の部分に注目してください。サンダナパール王の足元に、両手を広げてうつぶせになった美しい愛人の姿が描かれています。通説では、命乞いしているところ、と言われていますが、私はそのようには感じられません。むしろ、悲しみに打ちひしがれて、最後の瞬間を、王のそばで過ごしたいという一心であると、感じられます。
バイロンの戯曲では、最後にサルダナパールは、最愛の愛人ミルハを連れて大きな炎の中に身を投じて自決しました。その筋書きをドラクロワが尊重したと仮定するならば、この女性は最愛のミルハでしょう。
また冷静に、この王が横たわるベッドの部分を、馬が描かれた画面左下と、位置関係を比べるなら、ベッドは他の場所よりも2メートルほど高い場所に描かれたことになります。一見非論理的に見えますが、実はバイロンの劇の内容に従うならば、これはベッドではなく、巨大な薪の山の上に設けられた、王が自ら愛人ミルハを連れて飛び込んだ、火刑の台を暗示しているのです。
その火刑の台の上と周囲には、金や銀の財宝も散らばり、王といっしょにこれから灰になるところです。そして王は、冷ややかな眼差しで、自分の愛した愛人達や馬や犬が、次々と家来によって殺されていくのを眺めています。
今度は画面右上を見てください。背中を向けたまま家来に剣で殺される愛人と、左には、家来の手で殺されるのを拒んで、自ら首を吊って死んだ女性の姿が描かれています。この首を吊った女性を、ドラクロワはアイシェと名づけました。
最後に右下で、王のサルダナパールを見つめながら、家来によって首を切られる美女の姿を見てください。この美女の姿は、昔からルーベンスが描いた「マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸」の下に描かれた三美神の真ん中の女神がモデルだと言われています。確かに、背中を反らした横向きの姿勢に、近似性が認められます。このルーベンスの大作は、現在でもルーヴル美術館のリシュリュー翼「ルーベンスの間」に、マリー・ド・メディシスの生涯を描いた、他の23枚といっしょに展示されてあります。
これはドラクロワの記念碑的大作「民衆を導く自由の女神」です。略してLa Liberté「自由の女神」と呼ばれることもあります。ここに描かれているのは、1830年の7月革命における、市役所前での市街戦の光景です。また、この絵自体が、テーマの「7月革命」と同様に革命的でした。この点については、順次説明していきます。
作品の歴史的背景
それでは、作品細部の解説の前に、この絵がテーマとする1830年のフランス7月革命について復習してみましょう。1815年にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れて第一帝政は崩壊し、ギロチン台に消えたルイ16世の弟ルイ18世によるブルボン朝の王政復古が成立しました。
最初は穏健な政策を取ったものの、次第に絶対王政を復活させ、1824年に弟のシャルル10世が後を継ぎました。しかし、そのシャルル10世は、兄以上に反動的な政策と言論の弾圧を強めました。しかも、シャルル10世の時期はちょうど西ヨーロッパにおける産業革命の離陸期に位置しています。土地や封建的特権にしがみつく旧貴族と違って、社会の新たな主人公となりつつあった商工業階級にとって、封建主義への逆行と自由の圧迫、議会制度の破壊は許容できるものではありませんでした。
しかし、シャルル10世は、自由主義者が選挙で合法的に多数の議席を確保したことに危惧の念を抱き、その議会を無理矢理解散させてしまいました。でも改めて行なわれた選挙で、またしても自由主義者が議席の多数を占めたことで、国王は1830年7月25日に有名な「サン・クルーの4か条の勅令」というのを発布して、言論の自由を廃止すると同時に、再度議会を解散させ、その上選挙権は地主階級のみに限定するというものでした。
この極めて反動的な勅令は、パリ市民の間に、アッという間に怒りと共に伝わり、とりわけ発行停止を警察から命じられたパリの新聞社4社の植字工達と警官隊の間で、7月27日に最初の衝突が起こりました。そしてパリ市民達は、あちこちにバリケードを築き、3日間にわたって王党派の軍隊と市街戦を繰り広げました。これを仏語でTrois Glorieuses「栄光の3日間」といいます。その結果、シャルル10世は退位してオーストリアに亡命し、議会は、ルイ14世の弟の子孫にあたるリベラルなルイ・フィリップを王として迎えました。
これが有名な7月革命です。パリの有名なバスティーユ広場に建っている「7月の塔」は、この3日間のバリケード戦を讃えて建てられたものです。
ドラクロワの大作は、市街戦2日目の7月28日に、「自由の女神」に率いられた武装市民たちが、近衛連隊が守る市役所を占拠するために、セーヌ河をまたぐアルコル橋を渡って、右岸の市役所に向かって突撃する、劇的なシーンを表しています。
また、このバリケード戦を、実際に目撃したドラクロワが、パリ市民の立場から、革命の感動が冷めぬうちに描き上げた点も、この絵の理解に重要な点です。
ドラクロワの親友で、「モンテクリスト伯」の著者アレクサンドル・デュマは、1855年の万博にドラクロワの作品が出展された際に、1830年の7月革命の最中に、彼がドラクロワと市役所横のアルコル橋のたもとで出会ったと語っています。その記述によると、ドラクロワはサーブルを石畳の石で研いでいる市民達といっしょにいました。でも、彼はデュマに大変怖いと告白しました。
しかしその時、ノートル・ダム大聖堂にフランスの三色旗がひるがえるのを見たのです。その三色旗は、革命後彼のお父さんが外務大臣や県知事を勤めていたとき、またお兄さんが、ナポレオンの下で、将軍として活躍していたときの旗であって、王政復古中は禁じられていました。その三色旗を見るやいなや、ドラクロワの心中で、喜びが恐怖に取って代わったのです。
画面概説と作品の革命性
スポットライトが当てられたように浮き出た「自由の女神」は、バリケードと、戦死者を乗り越えて、今、まさに民衆たちに突撃を命じたところです。各々武器を手にした民衆は、女神に導かれて、勇敢にも市役所に向かって突撃を始めました。
ところで、この勇ましい女神像には、ちゃんとモデルがいました。ルーヴルが所蔵する「傷ついたアマゾン」という大理石像です。元々リシュリューのコレクションだったものを、ルイ14世が買い取り、仏大革命時に没収されてルーヴル美術館の所蔵となりました。当然ドラクロワは、その大理石像を見たことでしょう。その女神像を観察すると、右手を挙げて、首を右に傾け、左足を少し前に出したポーズです。確かにドラクロワの描いた画中の女神に似ていて、女神に、やや大理石のような硬さがある理由が分かります。
ところで、この絵における明暗の効果と、民衆の激動表現は、たとえ戦闘シーンであっても、個々の動きは、かかとを地面につけたまま静的に表現して、全体的に明るく描かれるダヴィッドやアングルの新古典主義とは、根本的に異なっています。比較のためにダヴィッドの描いた「サビニの女達」も参考にしてください。
また女神は、左手に銃を握り、右手には王政復古下では禁じられていた、共和制の三色旗を振りかざしています。その三色旗は、画面の上を突き抜けて、画面に垂直方向の広がりを見せています。
当時の美術界を支配していた新古典主義の考え方では、画面構成は、基本的には、左右均衡かつ「横向け」に展開すべきであって、主人公の身体、もしくは、その持ち物の一部が、画面の上下に突き抜けるような「縦向き」の描き方は、事実上の禁じ手でした。
女神が被る帽子は、フリジアまたはマリアマリアンヌと呼ばれていて、フランス革命の象徴であり、過去に何度もフランスの切手のデザインにも使われました。
私の知る限り、このフリジアが、巨匠の作品に用いられた最初の例は、ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿の天井画「ヴェネツィアの勝利」(1582年)ヴェロネーゼ作でした。「ヴェネツィアの勝利」では、一番左側の女神が、右手に棒らしきものと、赤い、つばのない帽子を持っています。この帽子はイタリア語のBeretto frigio ベレット・フリジョ、仏語のフリジアです。棒に見えるのは、実はPICCA ピッカと呼ばれる槍の一種です。この赤い帽子は「自由」の象徴です。謂れは、古代ローマにおいて、奴隷が主人によって自由の身になったとき、その自由の証拠として、この赤い帽子が与えられたからです。
次に、自由の女神の向かって右には、ピストルを2丁持った少年の姿が見えます。この少年は、後に、ビクトル・ユーゴーの代表作「レ・ミゼラブル」に登場する、ガブロッシュという少年のモデルになったとも言われていて、ガブロッシュは、Gamin de Paris ギャマン・ド・パリ「パリの下町の少年」の代名詞にさえなりました。
小説の中では、7月革命ではなく、その2年後の1832年6月に勃発したパリの共和主義者達の暴動で、バリケード戦の最中、ガブロッシュは、不発弾の薬きょうを、仲間達のために集めているときに、政府軍に狙撃されて死亡しました。
そして、少年の右側には「1830年、ドラクロワ」というサインが見えます。また右の硝煙の中から浮き出る大聖堂の手前のシテ島の岸辺には、対峙する王党軍の姿がかすかに見えて、アルコル橋の守備がいかに戦略上重要であったかを思い起こさせてくれます。
次に、画面左側に注目してください。女神の左側には、傷つきながらも女神を見上げる女性がいて、その左には、山高帽をかぶり、銃身が二つある猟銃を持った紳士の姿が描かれています。この紳士は、当時からドラクロワ自身であると言われてきましたが、ドラクロワが市街戦に直接参加したという事実も、ドラクロワ自身も、戦闘に参加したとは、どこにも書いていません。また先ほど引用した小説家デュマの1855年の解説では、「この男性は全くの庶民ではないか。ドラクロワは貴族的な人間だ。」と言って明確に否定しています。
デュマが言明したように、ドラクロワは、父が元外務大臣で、兄は元将軍で男爵という家柄でした。事実上貴族の出のドラクロワが、自分自身を、一般市民の服装で、猟銃を持って、労働者の間に描くというのは、考えにくいことです。また、当時の自画像と比較しても、決して似ていない上に、口ひげもありません。
そして画面左では、サーブルを持った労働者と、赤い羽根飾りのついた帽子に制服姿の青年が、突撃を始めるところです。
次に、硝煙にかすむ中景に視線を移してみましょう。山高帽の男性の向かって右に、ナポレオン帽をかぶった帝政期の退役軍人や、サーブルを振りかざす労働者、シルクハットに火縄銃を持つ市民の姿が描かれて、さらにその後ろには、サーブルだけを描いて、多数の市民が戦闘に参加していることを暗示しています。
ドラクロワは画面上で、パリの色々な年代と職業の人たちがバリケード戦に参加したということを言いたかったのでしょう。そして、これらのパリ市民達は、画面右下に横たわる王党軍の兵士の屍と、左下のパリ市民の犠牲者を乗り越え、自由を求めて前進し始めました。
ところで、蛇足になりますが、左下の靴下をはいた戦死者の姿に見覚えがあります。ドラクロワの親友ジェリコーの描いた代表作、「メデューズ号の筏」の左下に描かれてあった死人にも、同様の靴下をはいたままの死人の姿が描かれてあります。
女神の背景の硝煙の雲に注目してください。画面右端には、硝煙にかすむ、ノートルダム大聖堂が見えます。大聖堂の屋根の上では、三色旗を振りかざす男のシルエットが、かすかに認められます。
そして硝煙は、地上から空まで立ち上り、空の雲と一体化して、背景を包み込んでいます。この様な表現法は、ライバルの新古典主義では、ありえない描き方であり、ドラクロワの作品においても、初めての試みでした。この硝煙の雲の効果は、彼が1825年にロンドンに行って、多大な影響を受けたターナーの作品から学んだと思われます。とりわけターナーの代表作の一つ「トラファルガーの戦い」において、非常に似通った効果が用いられています。
幻の名作だった「自由の女神」
ところで、ドラクロワの大作は、1830年の7月革命の直後に制作され、翌年のパリの官展に「バリケードのシーン」というタイトルで出展されました。パリジャン達には、つい先日目の当たりにした、タイムリーなテーマでした。
新国王ルイ・フィリップは、国を通じてこの大作を3000フランで購入して、当時の現代美術館であったルクサンブルグ宮殿とヴェルサイユ宮殿に展示しました。
しかし、7月革命のおかげで王位についたルイ・フィリップと言えども、この共和主義的主張(つまり反王統的)が鮮明な作品を、好きになれなかったのは当然でした。
そして、1832年6月に、反動化する新政府に不満を抱く共和主義者たちは、王政転覆を目指して武装蜂起して、政府軍との間に、市街戦が勃発しました。これを「6月暴動」と言います。(1848年6月の暴動と混同しないこと)。
暴動の鎮圧後、ドラクロワの作品は、共和主義者を刺激するのではとの懸念により、非公開となり、1839年には、他の作品との交換という名目で、「自由の女神」は、ドラクロワに返還されてしまいました。
その後、1848年の2月革命後、作品は再びルクセンブルグ宮殿の所蔵となりましたが、一般公開されたのは、1855年のパリ万博でした。つまり、ロマン主義絵画の最高峰である「自由の女神」は、実に20年以上も、「幻の名作」でいたのです。結局、この作品がルーヴル美術館の所蔵となるのは、第三共和政下の1874年まで待たねばなりませんでした。
それ以降、この「自由の女神」は、フランスで最も人気のある絵の一つとなりました。切手になったり、フランスの100フラン紙幣のデザインとして1995年まで使われていたことは、私も留学時代の思いでの一コマとして記憶しています。
そして2012年に開館した、北フランスの新ルーヴル・ロンスでは、開館当時、館の目玉として、大展示室の一番奥に展示されてありました。現在は元のパリのルーヴル美術館に戻っていますが、いつも大勢の人が作品の前に群がっていて、作品全体の写真を取るのが大変です。
このドラクロワの大作がたどった道のりは、「美の革命家」の戦いが、いかに困難で時間のかかるものであるかを物語っています。
これは19世紀最大の女流ロマン主義作家であり、フェミニズムの草分けでもあったジョルジュ・サンド、本名アマディンヌ・オロール・リュシ・デュパンの肖像画です。もう一枚は恋人のショパンの肖像画です。どちらもドラクロワの1838年の作ですが、未完のままになっています。
実はこの2枚の肖像画は、元々同一の画面上に描かれたもので、ピアノを演奏中のショパンと、その横に座るジョルジュ・サンドの仲睦まじい姿を描いたものでした。その時、ショパンは26歳、ジョルジュ・サンドは32歳でした。
ジョルジュ・サンドの名言の一つに「愛しなさい。人生でよいものは、それだけなのです。」があります。その言葉通りに、彼女の男性遍歴はそれだけで一冊の本になるほどですが、彼女とショパンの関係は9年近く続いて、事実上の夫婦のようなものでした。この絵は、二人の愛人関係が始まった直後、1838年の夏に描かれたものです。
ドラクロワは、この絵を生涯大切に保管していましたが、彼の死後、2枚の肖像画のように切り離されて売られてしまいました。
場所は恐らくショパンが住んでいたパリのショセ・ダンタン通り38番地のアパートでしょう。ようやく愛が成就したばかりのジョルジュ・サンドは、暖炉の横に座っています。石油ランプの穏やかな炎に照らされた彼女は、身体を30度ショパンのほうに向けて、顔だけは横向きになって、演奏中の恋人を見つめています。
彼女は、弁護士兼代議士で恋人だったルイ・ミッシェルとの愛が破局を迎えた直後で、ショパンもポーランド人の婚約者マリア・ヴォジンスカとの婚約が破棄されて間もない時期でした。
カタログによっては、彼女は煙草を手にしていると解説されていますが、左手の画像を拡大してもタバコらしい物は現れません。それでも左手の指先で何か細いものをつまんでいるようには感じられます。また彼女の右手には白い布地が握られています。しかも、左手の手首の下にはうっすらと白い線が左手の指先に向かって伸びています。これは縫物をしているところと考えて間違いないでしょう。左手でつかんでいるのは縫い針で、白い線は糸だったのです。
事実、縫物は彼女の趣味の一つでした。彼女の書いた自伝「わが人生の歴史」の第3巻22章の冒頭には、「ノアンに引きこもりました。縫物は女性にとって、モラル向上に役立ちます。」と書かれてあります。
次に彼女の視線に注目してください。彼女はうつむき加減で、決して恋人の顔を見ていません。視線は、鍵盤の上を踊るように動き回るショパンの指に向けられています。もしかすると、この時ショパンが演奏していた曲は、「猫のワルツ」の異名を持つ「華麗なるワルツ第3曲、op34-3」だったのかもしれません。浮かれた猫が鍵盤上を走り回るようなこの曲は、ちょうどこの年に作曲されました。ジョルジュ・サンドに心を奪われてしまったショパンの心境にピッタリだったように思えます。
次にショパンに注目してみましょう。切り取られた絵では、ショパンの視線はやや下向き加減ですが、デッサンを見ると、彼はむしろ背をそらせて、自らの演奏に酔いながらピアノの向こう側に視線を投げかけています。ショパンの肖像画は、切り取られた際に、単独の肖像画らしいように、角度が下向きに調整されたのです。
若い時には、自らバイオリンやチェンバロを演奏した音楽ファンのドラクロワは、ショパンの才能を高く評価していました。恋人の横で、幸せそうに演奏中の天才ピアニストのイメージを表現したかったのでしょう。ただし皮肉なことに、ショパンは、ドラクロワの絵が理解できなかったと伝えられています。
ところでショパンがフランスで愛用したピアノは、主にフランスのプレイエルでした。現代のピアノと比べると、鍵盤の数が少し少なく、音色は軽やかでやや素朴です。
ジョルジュ・サンドとショパンが同年10月にスペイン領のマジョルカ島に愛の逃避行した際は、一時期、ショパンのプレイエルは、ドラクロワのアトリエで保管されていました。
フランスは大革命以来、ナポレオンのエジプト遠征でも知られているように、東方進出に大変意欲を燃やしていました。ただしここで言う「東方」とはオリエント文明のことであって、地理的にはフランスの南に位置するアルジェリアやチュニジア等の北アフリカもその範疇に入ります。
そして1830年、7月革命の直前の5月25日にフランスのツーロンを出た仏軍は、アルジェからわずか30㎞のシディ・フェルシュに6月14日に上陸して、7月5日にはアルジェの占領に成功しました。でも、アルジェ占領を恒久化するには、隣のモロッコに、使節団を送って、外交的およびにフランスの軍事力を誇示しておく必要がありました。その使節団の一員として、1832年にドラクロワは、使節団に随行を許されました。
モロッコからフランスに戻る直前の6月末には、フランス軍が占領済みのアルジェリアの町アルジェに立ち寄りました。その6カ月におよんだ旅行の途中で、彼は数多くのスケッチを残して、後にフランスに帰ってからスケッチを基にして数多くの作品を制作しました。添付の2枚のスケッチは、これから解説する「アパートの中のアルジェの女」という作品の基となったスケッチです。
ところで、ここで忘れてはならないのは、かつて、ギリシャ独立戦争中のオスマン・トルコの非人道的な行いについては、鋭い批判を加えたドラクロワが、フランス軍によるアルジェリアの軍事占領には一切批判的な態度を取らず、植民地政策強化のために送られた外交団に随行し、結果的には1世紀以上に及んだフランスの北アフリカの植民地政策に加担する結果となったことです。
この点は、どこまでも徹底的なロマン主義者で、人道主義者でもあったために後に迫害すら受けたビクトル・ユーゴーと根本的に異なる点です。言い換えれば、ドラクロワはロマン主義を確立しながらも、民衆の立場に立ったロマン主義に徹ししきれなかった画家といえます。彼の歴史的思想的限界でもありました。
それでは作品を見てみましょう。まず、この絵はどこの風景を描いたものかが絵を理解するうえで大切です。タイトルにアパートとついているので、ついつい民家のアパートの中だと考えがちです。でもドラクロワが描いた場所はアルジェのハーレムの中だったという旅行に随行した人たちの証言が残っています。
ハーレムの絵というと、新古典主義の巨匠アングルの代表作で1814年作の「大オダリスク」を思い起こしてしまいます。トルコのサルタンの宮殿の寝室で、香を焚き、水パイプを用意して殿様の来るのを待ちわびているおめかけさんの姿が描かれていました。でもアングルはその光景を想像だけで描いたのです。残念ながらアルジェ滞在中のドラクロワの日記は失われていて、どのような経過で、彼が本物のハーレムには入れたのかを知ることはできませんが、もし事実だとすると、ドラクロワは新古典主義時代に起こったオリエンタリスムに現場主義を持ち込み、本物のオダリスクを描いたことになります。
この絵に描かれている3人の女性は、アルジェの豪族のお后とおめかけさんです。左上から北アフリカの強い日差しが差し込む部屋に、トルコ風の絨毯がしかれ、3人の女性がアルジェリアのだぶだぶのパンタロンに風通しのよさそうなチュニックを着てくつろいでいるところです。はいていたスリッパは床に投げ出されています。左の女性は、頭を左上から太陽に照らされながら、美しい刺繍の施されたクッションに持たれかけながら、観客の方を色っぽい眼差しで見つめています。右の女性は水パイプの管を左手で握って、これから中央の女性に勧めるところでしょうか。さらに画面右端に注目してください。立ったままの黒人女性が後ろを振り返って、中央の女性に話しかけているようです。この黒人女性はハーレムの奴隷で、これから部屋の中で香を焚こうとして、女主人の指示をあおごうとしているのかもしれません。
その女性たちは、イアリング、何重にもなった真珠のネックレス、ブラスレットにすべての指に指輪をはめ、足首にもケルケルスと呼ばれるブレスレットをしています。これだけの高価な装身具を全部身につけていることからも、これらの女性が一般の女性ではない、ハーレムで殿様の寵愛を受けたおめかけさんたちであると想像できます。
また部屋の中は一見、質素のように見えますが、床と背後の壁は見事な装飾タイルで天井まで覆われて、半分扉の開いた戸棚からは、ヴェニスの北のムラノ焼きとも思える高価なガラス食器が見えます。左の壁には、貝や石をちりばめたロカイユ様式とよばれるスタイルの見事な鏡がかかっています。
ところでこの作品は、当時のオリエンタリスムを前進させたというだけではなく、後の印象派の先駆的役割を果たしたという点でも極めて重要です。画面の左端の壁と、左の女性の顔の影に注目してください。左上から差し込む太陽光と、それに照らされる女性の顔の表情が実に生き生きと表現されています。しかも、左の女性の顔に注意すると、当時の絵画の常識に反して、額の部分に影をつけて、太陽光線をより正確にとらえたことが分かります。また左の女性のイアリングや右の女性が髪につけた花などは、筆で絵の具を置いただけで、輪郭線をたどったあともありません。
これは、印象派の時代に確立された点描画法の先駆的使用とも位置づけることができます。別の言い方をすれば、ドラクロワ以前には、光りとは被写体を照らすための手段でしかなかったものが、ドラクロワによって、太陽光は、初めてそれ自体が表現の対象となったと言えます。
この作品が、後の世代に及ぼした影響という点では、ピカソへの影響を無視できません。2015年の暮に、パリのドラクロワ美術館の一室で、ピカソが「アパートの中のアルジェの女」からインスピレーションを受けて制作した作品数点が展示されてありました。20世紀最大の巨匠にさえ、インスピレーションを与えたドラクロワの凄さを感じました。
さて次にご紹介するのは、ドラクロワの作品の中では忘れられがちな、聖書に基いた作品「ヤコブと天使の闘い」です。この作品は、パリのサン・ジェルマンのサン・シュルピス教会の聖天使礼拝堂で12年の歳月をかけて制作されました。
この礼拝堂には「ヤコブと天使の闘い」の向かいに、もう一点ドラクロワの描いた「神殿を追われるヘリオドロス」が、天井には、「悪魔を成敗する聖ミカエル」があります。
油絵の実技の経験者ならピンとくるはずですが、ヘリオドスの絵は、それまでのドラクロワの作品と筆のタッチが違います。筆が画面上をスイスイと運ばれていません。しかもずいぶん画面がマットに仕上がっています。なぜなら、どちらの絵も、壁の漆喰上に、熱した蠟とリンシードオイルを混ぜて作った絵の具で描かれたからです。事実上の蠟画なのです。イタリアの壁画と違って、湿気の多いパリでは、蠟画は比較的湿気の被害を抑えやすい技術でした。一方「悪魔を成敗する聖ミカエル」は礼拝堂の天井に画布を張り付けた油絵です。
ドラクロワは礼拝堂のこの大作3点の制作を1849年に受注して、12年後の1861年にようやく完成させました。病気のために身体が衰えて、遠くまで歩いて制作に出かけられなくなっていた彼は、どうしてもこの3点を完成させるために、教会から歩いてほんの10分のところにある現在のドラクロワ美術館に引っ越して、他界する2年前に完成させました。いわば彼の遺作となり、時には「老芸術家の遺言」とも呼ばれるこの3点には、晩年の彼の思い出がこめられています。
まず「ヤコブと天使の闘い」とは、どういう聖書上のお話なのかというところから始めます。このエピソードは、旧約聖書の創世記の第32章以降に書かれたイスラエルの先祖、ヤコブに関したものです。
アブラハムの息子イサクは40歳のときにリベカと結婚しました。長い間二人には子どもがいなかったのですが、ようやく妻リベカは妊娠して双子の兄弟を生みました。先に出てきた男の子はエサウと名づけられ、次男はヤコブと呼ばれました。二人が大きくなった時、狩りの名人になった長男のエサウが狩りから戻ったとき、弟のヤコブは、おなかをすかして疲れきった長男に食べ物を要求されて、食べ物をあげる代わりに長男としての権利を要求し、まんまと長男としての権利を得てしまいました。そのずっと後、年取った父のイサクは目がかすんで見えなくなっていました。
そこで死ぬ前に、長男のエサウを呼び寄せて狩りの獲物を持ってこさせ、その長男に祝福を与えようとしました。ところが次男をひいきにしていた母のリベカは、事前に次男のヤコブに入れ知恵したのです。ヤコブは兄の服を着て兄になりすまして、父の祝福を受けました。その祝福とは、豊作を祈り、国民が息子にひれ伏すようにという内容でした。
2度にわたって権力を奪い取られてしまった長男は、大変弟を憎み、弟を殺そうと企み始めました。それを知った母のリベカは、ヤコブに叔父さんのラバンのところに、ほとぼりが冷めるまで逃げることを勧めます。叔父のところに逃げていったヤコブは、そこで14年間奴隷のように働いて、叔父さんの娘二人を妻として得ました。そしてさらに6年間、叔父さんの家畜を増やすために働いて、計20年間もあくせくと働き続けたのです。そしてたくさんの家畜と男女の奴隷を率いて、20年前に逃げ出した兄の下へと帰る決意をしました。
しかし、かつて自分を殺そうとした兄が、本当に自分を許してくれるかどうか心配でした。そこで家畜や連れてきた人々を2組に分けて、夜の間に先に兄の下に送り出しました。さらにその夜、彼は起きて、妻達と子どもたちも先に送り出しました。
そして一人残ったヤコブは、夜中に何者かと格闘を始めたのです。その人とは天使でした。それが、この絵に描かれているまるでダンスを踊っているような天使とヤコブの闘いの有様なのです。その天使はヤコブにこう言いました。「もう去らせてくれ。夜があけてしまうから。」ヤコブが答えました。「いいえ祝福してくださるまでは離しません。」そこで天使が再び言いました。「お前の名は何と言うのか。」「ヤコブです。」と答えると、その人、つまり天使は「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」と言いました。ここで言う人も天使のことです。その後、ヤコブが
「どうか、あなたのお名前を教えてください。」と訊ねると、天使は「どうして私の名を尋ねるのか」と言ってヤコブをその場で祝福しました。これがイスラエル発祥のエピソードです。
それでは作品の細部を見てみましょう。画面は中央の大木を境として左右に分けられます。画面右では、天使との闘いの始まる前に送り出した羊の群れと羊飼い、馬に乗った召使、右端にはらくだの姿も見えます。また右下には頭に壺を載せた召使の姿も見えます。この一群は山道をゆっくり登りながら、大木の陰に消えていくところです。空は暗く描かれて夜であったという聖書の記載と一致します。また画面左ではヤコブと天使の格闘が始まっています。画面前面にはヤコブが捨てた槍や脱ぎ捨てた服、その他の所持品が投げ捨てられていて、この戦いは素手のいわばレスリングとして描かれています。
しかし、勝敗は明け方になってもつきませんでした。画面左上に注目してください。空が曙光で明るんで、もうすぐ夜があけようとしています。ヤコブに勝てないと悟った天使は、とうとう反則技を出しました。ヤコブのモモの関節を打ったのです。画面上では、天使がヤコブの左足のモモをつかむ姿が描かれています。筋肉もりもりのヤコブに対して、女っぽく描かれた天使の方は、まるでダンスでも踊るかのように表現されています。
この対比は、決してドラクロワが考え出したのではなく、ほぼ同時代にギュスターブ・ドレという人の描いた同テーマの作品でも同様です。また古い例を挙げると、晩年のレンブラントが1659年の制作した同タイトルの作品では、闘いのイメージからは程遠く、天使のダンスと言うよりも、天使とヤコブが抱き合っているかのように表現されています。表現の差異は、画家が自分と天使との交わりをどのようにとらえるかによって生じるようです。そのように比較してみると、ドラクロワの方が、レンブラントより、より聖書に忠実な描きかたをしていたように思えます。
ところで、ここでドラクロワが言いたかったことは何だったのでしょうか。普通このエピソードの神学上の解釈は、イスラエルの始祖となるヤコブを神が試練にあわせて、試したのだと言われています。でも、ドラクロワは、そんな伝統的な解釈に、自分の自由の概念を付け加えたように思います。エピソードの主人公のヤコブは、なんと20年もの間、叔父のもとで奴隷のように働き、ようやく築き上げた財産を持って逃げるように兄の下に帰ろうとしました。しかし、20年前にお兄さんを裏切ったために、もしかするとそのお兄さんに殺されるかもしれません。もし殺されずにお兄さんに許されるとすれば、ヤコブはようやく自由の身になれるのです。7月革命までずっと死を代償とする自由と愛を求めてきたドラクロワにとって、そして7月革命後は、フランス艦隊によるモロッコ軍撃破を、ヨーロッパによるオリエントの解放と信じて疑わなかった彼にとって、ヤコブが命をかけて天使と戦って勝ち取ったものは、キリスト教的な魂の解放だったのです。
また老いて病気に苦しんでいたドラクロワにとって、サン・シュルピス教会での制作そのものが、人生最後の戦いであったことでしょう。
さて次に鑑賞する作品は彼の田舎の家で描いた習作「夕日」です。ドラクロワは1844年6月にフォンテンブローの近くにあるションプロサイという村に小さな家を借りました。次の写真は、1853年の5月18日に、家の庭の奥から村の森の方を見ながら描いたパステル画「ションプロサイ村のドラクロワの家の庭」です。多くの芸術家がそうであるように、ドラクロワも自然と静寂、それに孤独な散歩が創作活動に必要だったのです。
とりわけ彼は、夕方の散歩が好きでした。1853年5月10日の日記に彼はこんなことを書きました。「森は私をうっとりさせてくれる。見える太陽は暖かくて焼け付くようではない。その太陽光は、私が入り込んだ森の木々の間の草やコケ、それに心地よい匂いを際立たせる。」そんな散歩の途中で見た、光線に輝く木々や花々、空を満たす夕日の変化を、彼は晩年の作品の中に取り入れたのです。先ほどみた「ヤコブと天使の闘い」の左の画面に描かれた曙の空は、このような大気と光りの観察から得られたイメージでしょう。
もう一度習作「夕日」を見てみましょう。地平線の上のうす曇りの空を夕日が照らし、赤く照らされた雲が、何本も帯状になってうすい灰色の空に織り込まれ、その雲の絨毯は、風に流されて刻一刻と変化しています。一雨降りそうな怪しい空に繰り広げられた雲と風と光りのスペクタクルといったところです。
太陽は直接画面上には描かれていません。彼は、後の印象派のように強い太陽光を求めはしなかったのです。私は、この夕日の絵のイメージに一致する記載がドラクロワの日記に残っていないか調べてみました。そうしたらありました。制作年と同じ1949年の6月24日、日曜日の日記です。「どうも朝から気分がすぐれない。サムソンとダリラの素描を試みたのだが全く手が動かなかった。午後、森に行ってみた。(中略)午前中は嵐が来そうな天気だったし、息が詰まりそうな暑さは自然のもう一つの顔だ。昔は夕日にそんな印象は持たなかったのだが、太陽はすべてに陽気さを与えてくれる。」と書かれています。この習作の正確な制作日は不明です。でも、ここに描かれた情景が、日記に描かれた夕日だったなら、初夏の暑いさなか、朝から仕事もうまくいかなかった日に、雨雲がまだ少し残る美しい夕空を見て、ドラクロワは心の安らぎを覚えたのでしょう。
またここで、夕日の美しさを題材としたロマン主義の大家は、ドラクロワだけではなかったことをあえて強調したいと思います。彼が1820年代に親交のあった文豪ビクトル・ユーゴーが実はすでに1831年に「夕日」という詩を発表していました。そこには「今晩、太陽が厚い雲の中に沈んでいった。明日は嵐になるだろう。今晩、今夜、そして明け方となって、水蒸気は光りを受けて輝く。そして夜となってまた昼が来る。時は決して過ぎて行かない。」と書かれています。この詩をドラクロワが読んだかどうかは、分かりませんが、かつて親交のあったビクトル・ユーゴーが18年前に同じテーマの詩を発表していたのは大変興味深い事実です。
ところで彼の日記を何度も読み返しているうちに、先ほど見ていただいた、「ションプロサイ村のドラクロワの家の庭」という作品に見事に一致する部分も見つけました。この絵は、画面右下に書き込まれたメッセージから、ドラクロワが自分に長年奉公したジェニーという女性に1853年5月18日にプレゼントされたものであることが分かります。絵をプレゼントした翌日の5月19日の日記に、このように書かれてあります。「午後、庭の扉からジェニーといっしょに散歩に出かけた。コルベイユの町の方角すべてに、美しい光景が広がっていた。正面の水平線の上に太陽に照らされた大きな雲が見えた。」
この絵は、彼が忠実な召使の女性ジェニーといっしょに散歩に出かけようと庭に出たときに見た景色だったのです。そして彼がこの絵で一番表現しようとしたのは、太陽に輝く大きな白い雲だったのでしょう。でも、もしかすると彼にはもう一つの太陽があったのかもしれません。それは絵をプレゼントした召使のジェニーです。偉大な芸術家にとって、信頼しきれる女性の存在は、魂の中を照らす太陽のような存在なのです。この女性ジェニーについては、最後に解説しまします。
晩年光りの効果を求めたドラクロワの作風を知る上で、貴重な手がかりを与えてくれるのが、この1852年作でルーヴルが所蔵する「ディエップから見た海」です。ディエップというのは、ノルマンディーのルーオンから北に30㎞ほど北上したところにある、海辺のリゾート地です。ここには1848年にパリとの間を結ぶ鉄道が開通したのを契機に、ナポレオン3世の第2帝政期にガラス張りのカジノや競馬場も建設され、パリの上流階級の人たちの高級リゾート地として栄えました。後には印象派のモネもディエップに写生に訪れました。
ここに描かれたディエップの海の風景は、ドラクロワが1852年9月にディエップを旅行したときに描かれました。幸いその時のことは詳細を日記で知ることができます。彼は9月6日の月曜日、午前8時に列車でパリを発ちました。19世紀の話というのに、2時間15分後の10時にはもうルーオンに到着して、そこで列車を乗り換えて午後1時にはディップに到着していました。つまり、当時すでにパリ、ディップ間がたったの5時間しかかからなかったのです。ディエップでは港に面したホテル・ロンドウルに滞在して、パリに戻った14日までの9日間 海の美しい景色を眺めながら過ごしました。
この絵はディエップ滞在の最終日の9月14日の夕方に描かれた習作です。夕日が黄金色に染めた空と静かな海を、あえて逆光になるように砂浜から眺めています。太陽は左の黄金色の雲の後ろに隠れています。左下を見てください。小船の舳先が見事な逆光の効果を使って描かれています。美術史上、逆光をあえて効果的に画面に表現した最初の例の一つと言えます。波間には約20隻もの小船が帰港するために満潮を待っています。ディエップの港は内陸にあって、潮が満ちて、潮が内陸の港に河のように流れ込まないと小船は港に戻ることができません。
その制作当日の彼の日記を読むと、どういう心境でドラクロワがこの夕日に照らされえるディエップの海を描いたのか想像できます。「ディエップの最後の日は決して良くなかった。昨日しゃべりすぎてのどが痛くなった。荷物をスーツケースにまとめた後、昨夜の馬鹿どもに会わないようにビストロのポレに行った。進水したばかりの大型船が引き舟に引かれて港に入ってくるのを見た。機嫌悪くホテルに戻った後、3時ごろ最後に海を眺めに出かけた。その海は今まで見た中で一番静かで、美しく、私はその場を去ることができなかった。私は砂浜にいて、防波堤には一日中行かなかった。これから去ろうとするのに、私の心は情熱と共にその場に釘付けになってしまった。その時見た海と黄金色の空、それに帰港するために満潮を待っている小船を記念に習作として描いてみた。」
この日記の記載は、この習作の最高の解説です。でも彼自身では知りえなかったことが一つだけありました。それは、この習作が後にロマン主義の傑作としてではなく、印象派の先駆的作品と位置づけられたことでした。
彼の死後11年後に、パリで第1回の印象派展が開催されました。その展示品のなかに、印象派の到来を告げるモネの「印象、日の出」があったのです。モネの「日の出」には朝霧の中に、朝日の逆光を受けてシルエットのように浮かび上がった小船が描かれています。晩年のドラクロワは若き日の名声にあぐらをかいて、ロマン主義本来の、世の中の不正と闘い、自らの死と引き換えに勝ち取る、自由と愛の大切さを失いつつあったように思います。でもそんな彼でも、新しい時代の表現様式を肌で感じて、それをすでに試みはじめていたのです。モネに代表される印象派の到来は、ドラクロワなくしてはありえなかったのです。
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