美術史家・森 耕治の欧州美術史論Vol.5
ルノワールとパリ
印象派は、フランス美術史の中で、パリの一般庶民たちの、ありふれた日常生活に着眼して、そこに美を見出した最初の流派です。その中でもルノワールは、パリの庶民たちと美女たちをこよなく愛した画家でした。この点は、同じ印象派でも、陽光に満ちた風景画を愛した盟友モネ※と本質的に異なる点です。
またルノワール自身、10代の時には磁器の絵付師として働いたパリの職人でした。いわばルノワールは、典型的なパリの庶民の出と言えます。彼の描いた作品から、庶民のモデルたちへの湧き上がる愛情が感じられるのは、彼がモデルと対等な立場で向き合い、彼らの内面まで描き出したからに他なりません。
本稿では、ルノワールのパリでのエピソードを交えながら、彼の代表作をご紹介しましょう。
※クロード・モネ(1840〜1926) フランスの画家。ルノワールと双璧を成す印象派の中心的人物。主な作品に「睡蓮」シリーズ、「印象・日の出」など。
ある日曜日の朝、パリの中心部のシャトレを歩いてみました。そして学生時代には訪ねたことのなかったサン・トゥスタッシュ教会にフラッと入ってみました。このゴシックとルネッサンスの混じった美しい教会には、聖エウスタキウス※の聖遺物が保管されています。
ある日、エウスタキウスは森の中で大きくて美しい牡鹿に出会い、その鹿の2本の角の間に十字架を見ました。その時、牡鹿は彼に対し「自分は彼を救済するためにやって来た」と告げたのです。サン・トゥスタッシュ教会の屋根には、その伝説に基づき、十字架を角の間に表した彫刻が取り付けられています。
私が教会に入って間もなく、日曜のミサが始まりました。ここには8000本ものパイプを使用したフランス最大のパイプオルガンがあり、その荘厳な演奏を背景にしてバリトン歌手の美声が教会内に響きわたっていました。そのバリトンを聞いたとき、私はあることを思い出したのです。
今から約160数年前、この教会の少年聖歌隊には、大変な美声の持ち主の少年バリトン歌手がいました。声変わりを終えたばかりの13歳のその少年の名こそ、あのオーギュスト・ルノワールだったのです。
ルノワールは元々リモージュの生まれでしたが、仕立て屋だった父親がパリ暮らしに憧れたため、まだ4歳のときに一家でパリに引っ越して来ました。ルノワール一家が最初に住んだ場所は、ルーヴル宮殿の真横のアパートでした。現在、広い公園となっているテュイルリー庭園は、当時、庶民のアパートが立ち並ぶ住宅地でした。将来の巨匠ルノワールは、そこで近所の子供たちと遊びまわり、時には騒々しさにうんざりした王妃マリー・アメリーが宮殿から出てきて、わんぱくどもにキャンディーを配って大人しくするように注意したそうです。
その幼いルノワールが最初に才能を発揮したのは、絵ではなく音楽でした。美声の持ち主だったルノワールは、サン・トゥスタッシュ教会の少年聖歌隊の隊員に選ばれ、毎週のように美しい歌声を響かせていたのです。そんな彼に目をつけたのが、当時教会のオルガン奏者・聖歌隊の楽長として働いていたシャルル・グノーでした。グノーは後にオペラ「ロミオとジュリエット」を発表し、フランスを代表する作曲家となりますが、当時はまだ無名の若手音楽家でした。
グノーはルノワールの両親に対し、息子が声楽の本格的な勉強を学ばせるよう説得し、オペラ座の合唱団への入団も勧めました。時にはオペラの切符をルノワール家全員にプレゼントしています。しかしこうしたグノーの熱心な説得は、ついに実ることはなかったのです。
ルノワールは堅実な仕事を進める両親に従い、磁器の絵付け工房レビー兄弟カンパニーに入ることになりました。当時、父親の故郷リモージュでは街の名を冠したリモージュ焼きが全盛期を迎えており、街には19の工場と17の絵付け工房が存在した他、パリにも絵付け専門のアトリエが営業していました。おそらく絵付け工房への就職は、リモージュ出身の父親の意向が左右したのでしょう。
余談ですが、パリの絵付け工房に入ることを決めたとき、グノーは「ルチ・ド・ランメルモールを歌ったテノール歌手は年収1万フランも稼げるのですよ」と言って残念がったそうです。
こうして見習い絵付け師として雇われたルノワールは、めきめきと腕を上げていきます。夜学でデッサンを勉強しつつ、一人前の職人として花やマリー・アントワネットの肖像画をリモージュ焼きのお皿や壺に描くようになりました。残念ながら当時彼が描いたマリー・アントワネットの皿は残っていませんが、この皿は売れに売れて、おかげで青年ルノワールは10代にして月給120フランという当時としては大変な高給取りになっていました。
ルノワールはこのヒット商品に満足することなく、ビーナスの絵を皿や壺に描き始めました。美しい女性を描くルノワールのスタイルは、こうした絵付け師の仕事を通して磨かれたと言えるでしょう。
そんな矢先、英国で機械による絵付けプロセスが発明されます。この圧倒的な効率化は磁器産業からルノワールたち絵付け師たちを排除してしまいました。当然ながらルノワールも例外ではなく、失職後は半透明の大きな紙に絵を描いてカーテン換わりにしたフランス語のストールを売る店に雇われたり、カフェの壁に壁画を描く仕事を請け負って収入を得ていました。多作で速書きの名手としても知られるルノワールですが、その才能は10代の頃の絵付け師やアルバイトの経験で培われたのかもしれません。
ルノワールの初期の作品「狩りをするダイアナ」は、1867年にパリの官展に出展されましたが、審査員のコロー※とドービニー※の尽力にもかかわらず落選してしまいました。ルノワールの理想とした女性像は、バロック期のルーベンスや、ルネッサンス期のラファエロが描いたような豊満な胸と、大きな腰と太ももを持つ丸顔の女性でした。その嗜好を端的に示すのが、この「狩りをするダイアナ」です。
ダイアナとは、夜、森を全裸のまま多くの妖精たちを連れて徘徊して狩りをするギリシャ神話の女神です。太陽神アポロンとは双子で、夜が明けると弟のアポロンが登場することになっています。そのためバックの空はあえて暗い色で描かれています。
彼女のふっくらとした頬に、豊満な胸、大きな腰、さらにボリュームのある太もも。これはまさにルーベンスが描いた女性像とぴったり一致します。
ルーベンスは自分の描く裸婦像を神聖化させる術を心得ていましたが、ルノワールの技術はその反対を行くものでした。本作のダイアナ像は、そのリアルさゆえに、タイトルを知らず、かつ下の雌鹿に気づかなければ、単純に若い裸婦を森の中で描いたのではないかと錯覚するかもしれません。このダイアナにはれっきとしたモデルが存在します。それが1865年から70年までモデルを務め、愛人でもあったリーズ・トゥレホです。このポチャッとした健康的な女性のイメージは、後に結婚したアリーヌ・シャリゴとの出会いで、さらにその傾向を強めます。
絵の舞台は、紅葉が始まったフォンテーヌブローの森の中です。ルノワールは1864年以降、仲間のモネやバジルといっしょにこの森へ頻繁に出かけ、陽光の下で自然をリアルに描く訓練を積んでいました。そして、彼は愛するリーズの姿をフォンテーヌブローのなかを徘徊する女神の姿として描こうと密かに構想を膨らませていたのです。そうしてルノワールが描いた狩猟の女神ダイアナは、全裸のまま岩の上に毛皮を敷いて座り、使い終えた弓に弦を巻きつけているようです。女神の足元には、首に矢が刺さったまま、口から血を流して息絶えた雌鹿が描かれています。
しかしルネッサンスから19世紀前半まで、数多くの巨匠によって描かれたダイアナ像は、通常金髪か薄茶色の髪の毛で、澄んだ瞳を持ち、足は長くて身体は細め、それに裸体の場合は、乳房はお椀状と相場が決まっていました。また彼女のシンボルである三日月の冠を戴いた姿で描くことも少なくありませんでした。
17世紀のフランダースでは、その理想化された女神が、ニンフ達を従えて、射止めた動物達を無造作に地面に置いたまま休息する姿が典型的なイメージでした。
またフランスでダイアナ像と言えば、ルーブル美術館に展示されているブロンズ像がまず思い浮かびます。小柄で身体は引き締まり、お椀の様な胸を持って、小さな鹿を従えて森の中を歩く女神の姿で、それはベルサイユ宮殿の鏡の間と、フォンテンヌブロー城の庭にもコピーが置かれています。つまり、鹿を殺すのではなく、従えて歩くのが典型的なダイアナ像だったのです。
それが本作では、射止めた鹿をまるで哀れむかのように、うつむき加減に目を半ば閉じています。つまりルノワールは、当時の模範的なダイアナ像に登場する可愛い鹿を殺して、ダイアナに悲しませることで、それまでのアカデミスムの美的規範に挑戦状を突き付けたわけです。
また彼女はこげ茶の髪の毛で、腰が大変太くて肉付きがなかなかよく、お臍の上には皺が生じています。それに大きな乳房もモデルに忠実に描かれています。足元の殺された雌鹿の表現も大変リアルです。本物の女性を神聖化せずに、忠実に描いたことがはっきり分かります。
それに、このモデルの姿勢とリアルな表現法は、ルノワールが敬愛したクールベの「浴女たち」(1853年)、を思い起こさせます。クールベの作品では、裸婦が背中を向けて右手を右に水平に突き出しているのに対し、ルノワールの作品では、その裸婦を、今度は正面から見直したように感じられます。その上、太い腰と、腰の上に線ができてしまっている点まで似ています。
それでは、この作品はなぜ落選したのでしょうか。ルネッサンス期以降、女性の裸体は、ギリシャ・ローマ神話に基づいて、清く美しく描くことが要求されました。たとえば皆さんもよくご存知のボッティチェリの「ビーナスの誕生」などはいい例です。反対に裸婦モデルをリアルにかつ正確に描くことは卑猥であり、芸術への冒涜だったのです。
官展の審査員を務める画家のほとんどは、若いときから「絵はこうやって描かねばならない」というアカデミスムに洗脳されていました。そんな彼らにとって、革新的な表現に挑戦する若手の存在は、決して評価することなどできなかったのです。
フォルクワンフ美術館所蔵の「日傘をさすリーズ」は、ルノワールの最初のモデル兼愛人リーズ・トゥレホを描いた肖像画です。画面上のリーズは、単に美しく輝いているだけではなく、描いたルノワールの愛情が感じられるところが、この絵が代表作の1つと看做される所以でしょう。
絵の舞台となっているのは、夏のフォンテーヌブローの森の中です。木の葉からこぼれる陽光が、日傘と彼女の白いドレスの上でゆらゆらと揺れているのが感じられます。日傘によって影となったリーズの顔は、灰色とならずに美しい肌の色を残し、太陽のあたった純白のドレスと見事なコントラストを見せています。さらに、リーズの身体全体が、やや暗くした背景の木立から浮き上がって見えます。まるで印象派の誕生が近いことを告げているかのようです。
さて、ルノワールはこの作品にもう1つの工夫を凝らしました。左右の腕の部分をご覧ください。半透明の袖から美しい腕の肌色が透けて見えますね。
彼は後に「私は若い女性のピンクの肌が好きだ。」と言ったそうですが、すでにこの時期には、いかに女性の肌を太陽光の下で美しく見せるか、そして自分の愛する女性をいかに輝くように描くかという術を習得していたのです。それにリーズが、翌年の1868年にルノワールとの非嫡出子ピエール※を生んだことを念頭に置くなら、なぜこの絵から、ルノワールの優しさのようなものが伝わってくるのか理解できます。
ところで、印象派の盟友として知られるモネの絵にも、これとほぼ同様の構図を取った作品があります。タイトルも「日傘の女性、左向き」と「日傘の女性、右向き」(1886年作)の連作となっており、ルノワールの「日傘をさすリーズ」を連想する方も多いのではないでしょうか。モネはこの2作以外にも、同様のアイデアの作品を何点か描いたのですが、親友ルノワールの「日傘の女性」が発想の源であったとしても不思議ではありません。
「散歩」は、ルノワールが印象派の画法を確立し始めた頃、1870年に制作した作品です。この年、ルノワールは身の回りの変化に翻弄されていました。まず、同年7月に勃発した普仏戦争に徴兵され、第10騎兵隊に配属されます。その間に愛人リーズは第二子ジャンヌ※を出産。パートナーが出征中に未婚の身で子どもを産むのは、さぞ心細かったことでしょう。さらにルノワールは徴兵解除後も赤痢に感染し、死の淵を彷徨うほどに症状を悪化させてしまいました。本作は、そんな動乱の直前の春の景色と考えられます。
この絵を描いた当時も、ルノワールは相変わらず金に困っていました。そこで友人のミュージシャンで、美術愛好家のエドモンド・メットゥルの家でしばらくお世話になっていました。その時に描いたエドモンドとその愛人ラファの姿です。
この絵はおそらく、いっしょにフォンテーヌブローに出かけたときの光景でしょう。日光が差し込む森の中を、愛する二人が、木の枝を避けながら道なき道を上がっていくところです。
白いドレスに身を包んだラファのスカートの部分と、エドモンドの白いズボンに注目してください。木の葉から漏れて差し込む太陽光と、木の葉の影が、見事に白いドレスとズボン上に落ちています。また背景の木々と地面にも、頭上から差し込む光りがあたかも揺れ動く波のように描かれています。そして今エドモンドがラファに「枝があるよ、気をつけてね。ほら頭を下げてこっちへおいで」と、ラファの左手を取って優しい言葉をかけているように思われます。
ここに即興的に表現された揺れ動く光りの効果こそが、印象派の最も特徴的な表現法でした。前年に印象派技法をスタートさせたルノワールは、この「散歩」において、その表現法を確立したといえます。
「ブランコ」は、ルノワールがモンセー通りに住んでいた頃の作品です。近所に治安の悪いピガール通りがあるにも関わらずこの借家に住んでいたのは、このブランコがあったからだと言われます。
ブランコに乗っているのは、モンマルトルに住んでいたジャンヌという女性です。左端の顎ひげを生やした男性は弟のエドモンド、後ろ向きの男性は画家のノルベール・グヌット※と考えられます。先ほど見た「散歩」と同様、木の葉から漏れる太陽光が左の男性の背中を照らし、地面も木の葉から漏れた光で揺れ動いています。ブランコに乗ったジャンヌのドレスの輪郭線に注目してください。輪郭線はあえてはっきり描かれていません。太陽光の中で対象物の輪郭線はあえてぼかされ、揺れ動く光りそのものが描く対称物となったのです。揺れ動く太陽光に、ブランコに乗ったモデルのジャンヌ自身の動きが重なった光景は、画面に二重の動きを生み出す狙いがあったと考えて間違いないでしょう。ルノワールの印象派画法は、この作品をもって頂点にたどりついたことを示しています。
「ムーラン・ドゥ・ラ・ガレットのダンス・パーティー」は、ルノワールの代表作と言っても過言ではありません。ちなみにタイトルのムーラン・ドゥ・ラ・ガレットは、モンマルトルの丘の上のルピック通りに今もある有名なレストランです。
ルノワールは、この作品をモンマルトルの丘の上にあったアトリエで、1875年から76年にかけて制作しました。このアトリエは、現在モンマルトル美術館の一部になっています。
ルピック通りは後にフィンセント・ファン・ゴッホが弟のテオといっしょに暮らしたアパートがあったことでも知られ、研究者にとってはおなじみの通りと言えるでしょう。そのアパートを右手に見ながら坂を上っていくと、ルピック通りの83番地に現在もムーラン・ドゥ・ラ・ガレットがあります。
このレストランは、1834年に当時の風車小屋の所有者だったデブレイが、ギンゲットとよばれたダンスホール兼大衆酒場を開店したのが始まりです。当時は、酒場のマダムが手作りしたガレットと、モンマルトルのブドウ畑で取れたワインを売っていました。そのため、この風車小屋はいつのまにかムーラン・ドゥ・ラ・ガレット、つまり“ガレットの風車小屋”と呼ばれるようになったのです。
当時のモンマルトルでは庶民の大多数が貧困にあえいでいたと言われ、40歳前後で亡くなることも普通だったようです。そのような環境下で、生まれて間もない赤ん坊を家に残して働きに出ざるを得ない、未成年の母親がたくさんいました。そのような貧困のしわ寄せを受ける母子の状態に、ルノワールも心を痛めていました。恐らく、普仏戦争の最中に、幼い子ども二人と生き別れになったその悲しみが、彼に何かせねばと促したのでしょう。
ルノワールは、ムーラン・ドゥ・ラ・ガレットの主人のデブレイに、モンマルトルの恵まれない子供達のために託児所が必要と力説し、その設立資金調達のためにチャリティー舞踏会の開催を提案します。デブレイはそれをすぐに受け入れ、風車小屋の使用を許可しました。
舞踏会当日、会場にはボランティアのオーケストラと歌手達が動員され、訪れた女性達にはビロードの赤いリボンのついた麦わら帽子がプレゼントされました。舞踏会のシンボルとなったこの帽子を作るのに、モンマルトルの女性達がこぞって協力し、ルノワール自身も数日間帽子作りに精を出したといわれています。もしかすると「たかが麦わら帽子ごときに」と思われるかもしれません。しかし画面の右上で男女がかぶる帽子をよく見てください。野良作業に使う麦わら帽子ではありません。これはカノティエールと呼ばれる19世紀後半にパリで大流行した帽子です。
この舞踏会では下町の女性達にもおしゃれを楽しんでもらいたい—そんなルノワールなりの粋な計らいだったに違いありません。
さて舞踏会は大盛況でしたが、残念ながら託児所を設立するには資金は足りませんでした。しかし集まったお金は、舞踏会の直前に流産して、その後、静脈炎にかかった若い女性の医療費として贈られることになりました。
この絵に描かれた光景が、その日のチャリティー舞踏会そのものの様子だったのかどうかは不確かです。しかし、このエピソードから、当時のムーラン・ドゥ・ラ・ガレットがパリの庶民の憩いの場であっただけでなく、出会いの場であり、またルノワールの恵まれない女性達とその子ども達への思いやりが感じられます。
作品の舞台は、9月のある日曜日の午後、ムーラン・ドゥ・ラ・ガレットの庭で繰り広げられた舞踏会の様子です。当時のモンマルトルは、まだブドウ畑などの農地や、だだっ広い空き地のある田舎でした。
画面左上に陣取ったオーケストラから流れる軽快な音楽に合わせて、男女が思い思いに踊っています。その手前で巧みにパートナーの女性をリードするダンディな男性は、恐らくルノワールの友人レトリンゲーズでしょう。彼は「舟遊びをする人たちの昼食」でも、そっくりの姿で登場します。
右側のテーブルの前に座った男性3人と、その横のベンチに腰掛けた女性に注目してください。彼らはいずれもルノワールの友達です。まず小説家ジョルジュ・リヴィエール※、それに帽子をかぶっているのは代表作「ブランコ」でも登場した画家のノルベール・グヌット、それにラミー※という友人。ベンチに腰掛けてこっちを振り向いている女性はエステルといいます。
ルノワールは、同じ年に描いた前述の代表作の一つ「ブランコ」によって、印象派画法を完成させたと言えるでしょう。しかし偉大な画家にとって、自分の画法が完成してしまった時というのは、再スタートの時期でもあります。完成した画法に甘んじてしまえばそれっきり進歩はありません。その反対に、画法を変えようとするならば、すでに得た自分のファンや画商を失うことにもなりかねません。しかし、ルノワールはあえて再スタートの道を選択したのです。
この絵において、印象派特有の揺れ動く太陽光線は、左の踊るカップルの周囲以外には描かれていません。また、印象派の特徴の一つである、「光の中での輪郭線の消滅」は、リアルな人物描写のために放棄されてしまいました。
しかし本作では、光の代わりに全く別のものが音楽と共に揺れ動いています。それは、舞踏会にやって来た男女の姿です。画面前面では、テーブル上の赤い飲み物グルナディンヌ(ザクロ入りシロップで割った飲み物)を飲みながら談笑する友人達、背景には音楽に合わせて銘々好き勝手な方法で踊る男女の姿が描かれています。
画面上からは、オーケストラの奏でるダンス曲に、ステップの足音、人々の明るい話し声が聞こえてくるだけでなく、この絵は、登場人物が今にも動きだしそうな躍動感にあふれています。
また動きと遠近感のある画面を作り出すために、ルノワールは手前の人物は輪郭線をはっきり、かつ大変大きく描き、中景の人物は、顔の表情がやや大ざっぱに描かれただけでなく、ズボンとスカートの輪郭線もややぼかされています。
そして、遠景の人物となると、ブルーや赤、黄色に白といった点の集合によって表現されています。ルノワールは、この絵において、明らかに人物像に目を向け直し、独自の道を始めていたのです。
「シャルパンティエ夫人とその子供たち」は、1874年の第一回印象派展から4年後、いまだに社会の無理解と経済的困難に直面していたルノワールが、1879年の官展に出展して大成功を収めた作品です。
ルノワールはこの作品を官展に出展するために、反官展の傾向を強めていた第4回印象派展とそれ以降は出展せず、1882年の第7回印象派展が、彼にとって最後のグループ展となりました。
そもそも印象派展は、モネやルノワール、ドガ※、モリゾ※といった、なかなか官展に入選できない、新しい色彩と光の感覚の画家たちが、一種の対抗策として始めたグループ展でした。なぜなら、当時は個展もグループ展もなかったので、官展に入選しない限りは、公の場で作品を展示する機会がなく、その結果、画家としての自分自身を世間に発信こともできなかったからです。
しかし、徐々にファンの数が増えて、世の中の風向きも変わってくれば、当時の美術の王道であった官展に再度出展してみようと考えたのは当然の成り行きでした。ましてや金に困っていればなおさらです。
ルノワールにとって、その風向きを変えてくれたのが、この絵に描かれたシャルパンティエ夫人でした。
ルノワールの次男で、映画監督だったジョンが描いた「わが父ルノワール」によると、ルノワールとシャルパンティエ家の繋がりは、1869年にシャルパンティエ家の母親の肖像画を描いた時に始まったようです。その6年後、第一回印象派展で売れ残った作品を、モネや、モリゾ、シスレー※たちと一緒にパリのオークション会場オテル・ドゥルオで競売にかけた際、やってきたシャルパンティエが、ルノワールの「釣りをする男」を180フランで買い取ってくれました。今の価値に換算すると約20万円で、貧乏だったルノワールにとっては大金だったに違いありません。その時に、同行していたシャルパンティエ夫人から、夫が毎週金曜日に自宅で開いていたサロンに来るように勧められます。
シャルパンティエ氏は、「ラ・ヴィ・モデルヌ」という、イラスト付きの文芸週刊誌を発行していました。このサロンと文芸誌には、当時の進歩的な小説家、フロベール、ゾラ、ゴンクール兄弟、ルノワールの弟で新聞記者のエドモント等が集っていました。さらに政治家のガンベッタとクレモンソーもサロンのメンバーになっていて、シャルパンティエ夫人のサロンは、第3共和制で最も有名な進歩的サロンだったと言えるでしょう。ここに出入りする機会を得られたことで、ルノワールの画家人生は大きく道が切り開かれていくこととなりました。
またシャルパンティエ夫妻は、印象派の庇護者としても有名な人物です。1879年から1883年まで、イタリアン通りに週刊誌と同じ名前の「ラ・ヴィ・モデルヌ」というギャラリーを設け、マネ、ルノワール、モネ、シスレーといった印象派画家たちの個展を次々と開催しました。ルノワールは、この絵を制作した翌年の1879年6月に、ここでパステル画の個展を開催しています。これは、ルノワールにとって、人生最初の個展となりました。
それ以外にもシャルパンティエ氏は、一時期首相を務めたガンベッタを説得して、ルノワールにパリ新市庁舎の壁の装飾をやらせようしたほどです。しかし、ルノワールの芸術が理解できなかったガンベッタは、その提案を断ってしまいました。
作品の舞台は、パリのグルネル通りあるシャルパンティエ夫妻の高級アパートのリビングです。背景には孔雀のモティーフのある金張りの「六曲屛風」が置かれています。(屛風は一枚一枚を「扇」(せん)と呼ばれるため、とくに6扇からなる屛風のことを「六曲屛風」と呼びます。)
リビングに大きな六曲屛風が飾られているのは、1860年以降流行ったジャポニスム(19世紀後半にヨーロッパで流行した日本趣味)の影響です。屛風は当時の先進的なシャルパンティエの友人だったマネの家にも飾られていました。
花柄模様のソファーに腰かけたシャルパンティエ夫人は、右手をソファーの背もたれに乗せて、くるぶしまで隠れるほど長い黒いドレスを着ています。胸に付けた花模様のブローチと、白い胸飾りが効果的です。また夫人の顔と肩の輪郭線は、あえてぼかした描き方をすることで、背景と部分的に融合させています。この演出が、作品にソフトな雰囲気を醸し出しているのです。
ところで、夫人の黒のドレスは、当時のパリで最も有名なファッション・デザイナーだったシャルル・フレデリック・ウォルトがデザインしたものです。シャルルは「オートクチュールの父」と呼ばれていて、ヨーロッパの王侯貴族たちが競って彼のデザインしたドレスを注文しました。ナポレオン3世の皇妃ウージェニや、オーストリア皇后の“シシ”ことエリザベートも、シャルルの顧客でした。この夫人の黒のドレスの描写は、非常に写実的です。黒と灰色は、印象派、とりわけモネにとっては避けるべき絵の具でした。しかし、ルノワールは純粋に「印象派」であった時期であっても、決して黒を完全に放棄したことはなく、むしろ黒の効果的な使い方を知っていました。この点はマネやモリゾにも共通します。
次に、お母さんの横に座る息子ポールをご覧ください。女の子のように見えますが、19世紀フランスでは、上流階級の男の子はおしめが取れるまでスカートをはかされるのが普通でした。
ポールの頭と肩を注意してみてください。輪郭線が完全に消滅しています。これによって、幼い子供の柔らかくてデリケートな肌と、無垢な雰囲気が、見事に表現されています。
そして、もじゃもじゃもの髪の毛に、赤みを帯びたほっぺをして、お姉さんの方を微笑みながら見つめるポールの愛らしい表情に、見る者がつられて微笑んでしまいます。ルノワールが、この絵で一番力を入れて描きたかった被写体だったのかもしれません。
画面の左の少女は、当時6歳だったお姉さんのジョルジェットです。弟とおそろいのワンピースを着て、ソックスまでおそろいで、仔牛のように大きな白と黒の犬に腰かけながら、弟の方を向いています。椅子代わりにされた犬は、迷惑そうな顔をしながらも、あきらめてうつ伏せになっています。
ルノワールは、登場人物はもちろん、犬の表情まで見事に描き分けていました。彼の天才的才能が十二分に発揮された作品です。
1881年作の「舟遊びをする人達の昼食」は、パリ郊外のセーヌ河の中州イル・ド・ショセに停泊する船のレストラン・フーネーズの一場面を描いた作品です。
本作は画面を説明する前に、まずタイトル(原題)の説明が必要でしょう。Le déjeuner des canotiersの「デジュネ」は、「昼食」という意味です。そして「カノティエール」とは、パリで流行していた麦わら帽子のことで、当時の船遊びや屋外のダンス・パーティーで愛用されていました。そのタイトルが示すとおり、画面上にはカノティエールをかぶった男女が5人も描かれています。つまり、タイトルそのものに「流行のカノティエールをかぶった粋な男女の、ファッショナブルな船上の昼食」という意味がこめられていたのです。
ところでこの作品には多くの人物が登場していますが、残念ながら確信を持って名前を特定できるには二人だけです。まず画面左で子犬と戯れる女性は、後にルノワールの妻となるアリーヌです。また彼女の後ろの白いシャツ姿の男性は、このレストランの所有者アルフォンス・フーネーズです。
そして右手前の白シャツの男性は、おそらくギュスターヴ・カイユボットでしょう。繊維織物業で成功した上流階級の出身で、自らも画家として活動する一方、絵画コレクターとしても名を馳せた人物です。中でも印象派の作風をこよなく愛し、彼らの作品を買い支えたことでよく知られます。画面上ではあごひげを剃ってさっぱりした姿で描かれています。ルノワールら印象派の主要メンバーに比べれば日本での知名度は低いかもしれませんが、彼は立派に歴史に残る偉業を果たしています。
1894年に45歳で亡くなったカイユボットは、その短い人生の中で67点もの印象派の作品を収集していました。彼は遺言でそのコレクションを残らずルーブル美術館に無償で寄贈しようとしましたが、そのうち受け入れられたのは38点のみ。残りの29点は、フランス政府が拒否してしまったのです。結局残りの29点は、その多くがアメリカ人に買い取られていきました。拒否された理由は、作品を審査した頭の固い立派な先生方が、印象派の価値そのものを認めようとしなかったためです。このエピソードは、いまでこそ誰もが認める印象派の画家が、どれほどの紆余曲折を経て現代まで受け継がれているかを示す良い一例と言えるでしょう。もしカイユボットがいなかったら、もっと悲惨なことになっていたに違いありません。
本題に戻りましょう。そのカイユボットの右に座っている華麗な女性はヘレンゥ・アンドレです。その後ろに立って、彼女を口説いているように見えるのはイタリア人ジャーナリストのマギオロです。そして右上でメロン帽をかぶったダンディーな男性は、さきほど「ムーラン・ドゥ・ラ・ガレットのダンス・パーティー」でも登場したレトリンゲーズです。2枚の絵を並べて比較すれば、かぶっている帽子まで同じであることが分かります。
また、そのジャンヌの腰に手を回している男性は、有名な「ブージバルのダンス」で、ユトリロの母ヴァラドン※のパートナーを務めたポール・ロットです。
画面中央で座ってワイングラスを傾けているのは、モデルのアンジェルもしくは女優のエレン・アンドレだと考えられます。彼女の後ろに見えるシルクハットの男性は実業家のシャルル・エフリュシ。その左で茶色の服を着た男性はレストランのオーナーの息子で詩人のジュール・ラフォルグでしょう。そして画面左でバルコンにひじをついている美しい少女は、オーナーの娘のアルフォジンヌのようです。アルフォジンヌはルノワールのお気に入りのモデルの一人で、セーヌをまたぐシャトウー橋を背景にした作品「アルフォンジンヌ・フールネーズ」にも登場しています。
この絵は2年前の1879年の作ですが、これを昼食の絵と比較すれば画風の変遷がよく分かります。アルフォジンヌの姿は、光りに満ちたセーヌ河の背景に溶け込むかのように、輪郭線がぼかされて描かれ、顔の表情まで光りの中に一部融解しているように描かれています。それに対し、2年後の昼食の絵では、ほぼ同じ場所で、しかも真夏の晴れた日に描かれたにもかかわらず、太陽光線の効果は最小限に抑えられ、むしろ登場人物一人ひとりの表情が丹念に描きこまれています。その上、セーヌの船上レストランで気のあった芸術家の仲間同士の楽しい昼食の様子が、彼らの会話と笑い声がいっしょに聞こえてきそうなほど生き生きと描かれています。モネのように光りを描くのではなく、人物、とりわけ女性を美しく明るく描きたいという、ルノワールの願いがすでに表れ始めています。昼食の絵は、たしかに印象派の傑作の一つとして見做されてはいますが、このように考えると、彼はすでに印象派から抜け出そうとしていたのです。
ルノワールが愛したのは、決して成人の女性だけではありませんでした。これは「ルノワールがロリータ好みだった」ということではありません。「フェルナンド・サーカスの曲芸師達」 をご覧いただければ、きっとご理解いただけるのではないでしょうか。
18世紀後半に馬術の曲芸としてスタートした近代サーカスは、19世紀後半に各種の曲芸師、ピエロやオーケストラも加わって大規模な興行として発達しました。特にスーラ※、ドガ、ロートレック※の作品でも知られるモンマルトルのフェルナンド・サーカスは、2500人を収容できる大規模な建物でした。
テレビもインターネットもない娯楽の少ない時代に、オーケストラの音楽に合わせて、馬上で飛んだり跳ねたり、肢体を精一杯露出させた美女が宙に浮かんだり、ピエロのおどけた動作に爆笑したりと、サーカスは大人も子供も楽しめる数少ない娯楽の一つでした。
そんなサーカスに、19世紀の巨匠たちが関心を示したのは当然だったのかもしれません。しかし、巨匠たちの眼は、無意識下にサーカスで働く少年少女たちの存在に向けられていました。たとえばルノワールの名作「フェルナンド・サーカスの曲芸師達」のモデルとなったフランシスカとアンジェリーナは、まだあどけない17歳と14歳の少女でした。後にピカソがサーカスをテーマにした一連の作品を手がけた時も、ピエロ姿の少年や、サーカス一家の幼い少年少女の姿が愛情たっぷりに描かれていました。
物心ついた時から、生きるためにサーカスで働かざるをえなかった子供たち。笑顔で懸命に演じるピエロや曲芸のなかには、大人の社会で我々が日々感じる孤独感や苦悩、それに日常生活の喜怒哀楽が凝縮した形で表されていました。それが巨匠達をサーカスに引きつけたもう一つの理由だったのです。
しかし私は、ルノワールが本作を通してサーカスの二人の少女に向けた視線には、また別の理由があったと考えています。実は、ルノワールと最初の愛人リーズとの間には、普仏戦争の混乱で生き別れになった2番目の娘ジャンヌがいました。あどけないサーカスの少女の姿の向こうに、離れ離れになった娘のジャンヌの姿を見つめていたのではないか、そう考えずにはいられません。
通称“ブルーのリボンの少女”の名で親しまれる「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」は、ルノワールの数多い美少女の肖像画の中でも、最高傑作と言えるでしょう。来日したこともありますから、日本人にも馴染み深い作品です。
モデルの少女イレーヌは、制作当時まだ8歳でした。彼女の父親ルイ・カーン・ダンヴェール伯爵は、ベルギーのアントワープ出身のユダヤ人の銀行家でした。ファミリー・ネームの一部のd’Anvers は、「アントワープの」という意味で、同時に貴族の称号でもあります。
このカーン・ダンヴェール伯爵にルノワールを紹介したのが、ロシア出身のユダヤ人銀行家シャール・エフリュシでした。シャールもまた印象派の有力なパトロンで、「ガゼット・デ・ボザール」という美術雑誌を出版する傍ら、ルノワールやドガ、マネ、モネの作品を積極的に購入し、印象派画家たちを経済的に支えました。
余談ですが、ルノワールは「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」を完成させた1年後に、イレーヌの妹のエリザベトゥとアリスを描いた「カーン・ダンヴェール家の娘たち」(サンパウロ美術館所蔵)を描いています。しかし、次女のエリザベトゥは、戦争中にユダヤ人というだけの理由で逮捕され、1944年4月15日にアウシュビッツで死亡しています。パリ解放のわずか5ヶ月前のことでした。
本作の制作場所は、ダンヴェール伯爵家の庭と伝えられています。行儀よく、所在なさげに木立の前に座るイレーヌの姿は、暗い木立から浮かび上がるように工夫されています。その所在なさげな表情は、かえって愛らしい印象を見る者に与えます。
また、髪を後ろで束ねたブルーのリボンは、これ一つで、画面全体に素晴らしいアクセントをもたらしています。別名が「ブルーのリボンの少女」と呼ばれるのももっともな話で、この肖像画をルノワールの最高傑作の一つに昇華させたのがたった1本のリボンだったというのは実に興味深いことです。
また真珠のような輝きを持った肌には、何度もホワイトを薄く塗り重ねられ、頬にはごく少量の赤が混じっています。このような女性の肌の表現は、ラファエロと新古典主義のアングル※を彷彿させます。また、モデルの女性が全体的に淡い輝きを放っていますが、光線の方向が定かでない描き方もアングルの代表作「大オダリスク」とも共通点が見いだせます。
目は、透明感のあふれる瞳に、まつ毛は1本ずつ丹念に描きこまれています。それでいて、右目から顎のラインは、あえてバックに一部溶け込ませて、輪郭線をぼかすことで、少女の血の通った暖かい肌の感じが見事に表されています。
そして、腰まで垂れた長い赤茶色の髪の毛と、それを通じて見え隠れする少女の身体が、素晴らしい質感とボリュームのコンビネーションを呈しています。
「作品のその後」
この作品は、戦争中の1941年に、ダンヴェール家がユダヤ人であるという理由で、ドイツのゲーリング国家元帥の命令によって、ダンヴェール家所有のシャンボール城から奪われました。そして、間もなくスイスに帰化したドイツ人の武器商人エミール・ゲオルグ・ビュールレに売却されました。
そして、終戦後、絵の制作から66年後の1946年に、アウシュビッツ行きを免れたイレーヌは、たまたまパリで開催された展覧会で幼い頃の肖像画を発見し、取り戻すことに成功しました。
そして、1949年にパリの画商に売られたのですが、その画商は、あろうことか再びビュールレに売却してしまったのです。この2度目の売却は合法であったために、イレーヌの肖像画は、それ以来、ビュールレ・コレクションとなって現在に至ります。
「最強の美少女」の名で、数多くの美術ファンを魅惑するイレーヌの肖像画ですが、その背後には、家族の多くをガス室に送られ、家族の貴重な絵画コレクションも奪い取られた、ユダヤ人家族の悲劇があったことを決して忘れないでください。
「二人の姉妹、テラスにて」は、「印象派の時代」の末期の作品で、1882年の第7回印象派展に出展されました。セーヌ河を背景に、テラスに座った姉妹は、光が充満した空間の中で輝いて見えます。
ここに描かれた2人の「姉妹」は、シルエットも顔もしっかり把握され、顔の表情も具象的で、ルノワールなりの女性美に基づいて創造されています。モネ風の光の動きに重点を置いて、光の中で対称の輪郭線がぼける典型的な印象派画法とは違う、「ムーラン・ドウ・ラ・ガレットのダンスパーティー」で垣間見えた、ルノワール独自の女性美の探求が、より一層明確になりつつあると言えます。
また、この時期以降のルノワールの作品に顕著なように、光の方向性が消されて影がなくなり、空間全体に光を充満させることで、姉妹の肌をより一層輝かせています。
反対に親友のモネは、女性の顔を描くのが苦手で、1870年以降は顔の描写すら隠されていきます。共に印象派を代表する二人ですが、その傾向はまったく異なってしまうのです。
絵の舞台は、晴天の春の日、パリの西の郊外で、セーヌ河に浮かぶシャトゥー島の「レストラン・フールネーズ」のテラスの上です。同じ年に制作された「舟遊びをする人達の昼食」と同じロケーションです。
姉は、まだ4-5歳の幼い妹を横に連れて、テラスで椅子に腰かけたまま、微笑みながら観客の背後の方を見つめています。花飾りのついた、赤くて大きな帽子と、膝に乗せた毛糸の籠が、全体的に緑と紺で統一された画面に、鮮やかなアクセントを生んでいます。
背景の島の岸辺は、白い花をつけた灌木と木々が覆って、姉妹の姿をより一層浮きださせています。また「舟遊びをする人達の昼食」と同様、木立から覗くセーヌ上のボートと対岸の赤い屋根が、画目上に奥行きを生み出しています。同時に、姉の肩を横切る欄干が、画面を水平方向に広げています。
「舟遊びをする人達の昼食」の絵と注意深く見比べてみると、左端に花飾りのついた大きな帽子をかぶって、犬を膝に抱いた頬っぺたのふくよかな女性と、「二人の姉妹」の姉とが雰囲気が似通っているのに気づきます。
しかしこの子犬と戯れる女性は、ルノワールの妻となったアリーヌというのが定説です。だとすれば、この時期にルノワールの好みのぽっちゃりした、健康美人的女性像が固まりつつあったことを示唆しています。
モデルの姉妹
姉のモデル役を務めたのは、当時まだ18歳のジャンヌ・ダルランドでした。彼女は、1899年にコメディー・フランセ―ズの正座員となり、さらにフランスのチョコレート王ギャストン・ムーニエールの愛人となって、凱旋門の横のフリードランド通りに大邸宅を与えられました。
ヨーロッパの解説書でも、時々、横の妹役は、ジャンヌ・ダルランドの実の妹のアンヌ・ダルロー、芸名ジャンヌ・ドゥマルシーであると記されています。彼女も後にコメディー・フランセーズの正座員になりましたが、実はジャンヌとの年齢差はたった2歳で、画面上の4-5歳の少女には一致しません。ルノワールが、画面をより華やかに、かつ愛らしくまとめるために創造された“姉妹”だったのです。
「都会のダンス」と「田舎のダンス」は、共にオルセー美術館の5階に展示されています。展示方法は時々変わりますが、本来この2作品は、同じ壁に揃って展示されるのが望ましいと思います。そして、向かって右に「都会のダンス」、左に「田舎のダンス」を展示するのが妥当です。この配置の仕方には、れっきとした理由があるのですが、その理由は後で説明しましょう。
この2点は、70年代初頭から印象派の誕生と発展に貢献し続けた画商デュラン・リュエルの注文で制作されました。リュエルはこの2点がよほど気に行ったらしく、亡くなるまで自分の手元に置いていました。
ところで、印象派が1874年の第一回印象派展を待たずして事実上誕生したのは、1870年の普仏戦争の直前でした。しかし、狭義の意味での印象派は、すでにそれよりも前に終わっていたのです。
ルノワールは「ムーラン・ドウ・ラ・ガレットのダンスパーティー」の制作時、つまり1876年には、すでにモネのような印象派画法とは異なる独自の道を模索していました。実際、後に画商のアンブロワーズ・ヴォラールに送った書簡では「私は印象派の最終地点まで行きつきました。そして、結局私はこれ以上描けないし、デッサンもできないという結論に達したのです。一言でいうなら、私は袋小路に入っていました。」と述べており、ルノワールの印象派に対する絶望感はかなり深刻だったようです。
ルノワールだけでなく、セザンヌ、ドガ、ピサロといった当時の印象派画家たちも、独自の道をすでに歩み始めていました。そう考えると、1880年代前半から半ばは、印象派画家たちが、それぞれ独自の芸術を追求し始めた転機と言えるでしょう。また、モネとルノワールが経済的にも恵まれ始めたのも、ちょうどこの時期のことになります。
そして1886年に開催された第8回展が、印象派にとって最後の展覧会となってしまいました。その終焉を象徴するかのように、これまで看板だったモネもルノワールも出展せず、代わってスーラの出品した代表作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」が話題となり、新・印象派の誕生を象徴する形で幕を閉じます。このルノワールの「都会のダンス」と「田舎のダンス」で描かれた光景は、彼が1876年頃までに見せた、陽光の中で光り輝く人物たちではありません。1881年のイタリア旅行で再発見したラファエロの作品からインスピレーションを得て、血色のいい、ふくよかな頬の女性を、いかに楽しく美しく描くか、ということを主眼に置いて描かれているのです。
モネ流の印象派においては、揺れ動く太陽光が主役だったと言っても過言ではないでしょう。しかし、この2枚の作品の主役は、紛れもなく、音楽に合わせて踊る男女、とりわけ女性が主役なのです。特に「都会のダンス」では、男性の顔は、美しいモデルのスザンヌ・ヴァラドンに隠されてしまっています。ルノワールにとっては、男の顔はあまり重要ではなかったわけです。
「都会のダンス」
「都会のダンス」の情景は、きちんとしたパリのオーケストラ付きのダンスホールを彷彿とさせます。モデルのヴァラドンは、床を引きずる純白のシルクのロングドレスに身を包み、肘まで届く白い手袋をはめています。彼女の白い肌と輝くドレスは、男性の真っ黒なタキシードと背後の鑑賞用の大きなヤシの木の葉、そして床の茶色を背景にして、鮮明に浮かび上がっています。髪の毛は後頭部で丸くまとめられ、美しい横顔と首すじ、それにV字型に露出させた背中を、しっかりと観客に見せています。
この絵には、注目すべきことが2点あります。一つは、制作年とヴァラドンの息子ユトリロの誕生日の関係です。そしてもう一つは、彼女の悲しそうな眼差しとその方向です。
まず第1点目ですが、ヴァラドンはその美貌ゆえに、ルノワール、ロートレック、シャヴァンヌ等のモデルになり、画家たちの愛人でもあったであろうと想像されています。また、彼女はモンマルトルの天才画家ユトリロの母でもありますが、ユトリロの父親が誰だったのかは分かっていません。しかしもっとも信憑性が高いのが、ルノワールだと考えられています。
しかも、ヴァラドンが父親不明のユトリロを産み落としたのは、この絵の制作年である1883年の12月26日です。そして作品は、1883年の4月に画商デュラン・リュエルのもとに届けられ、ルノワールの最初の個展に展示されました。つまりルノワールがこの絵を描き終えた1883年3月ごろ、モデルの彼女は妊娠した可能性が高いと言えるわけです。
また、その後ヴァラドンは息子と一緒に、かつてルノワールがアトリエとして使っていたモンマルトルの小さな家に住み着きました。その家は、現在モンマルトル美術館の一部になっています。ヴァラドン親子がルノワールのかつてのアトリエに住み着いた理由の一つは、ルノワールとの秘かな思い出がその家にあったからではないでしょうか。
次に2番目の点ですが、上記のとおり、ヴァラドンの横顔は楽しそうでも幸せそうでもありません。その意味ありげな視線はどこへ向かっているのでしょうか。実はその答えこそが、もう一つの作品「田舎のダンス」にあるのです。冒頭で触れた2枚の絵の配置の話に戻りますが、「都会のダンス」の左にこの作品を並べてみると、彼女の視線は不思議とモデルの女性―アリーヌの満面の笑みへとぶつかるのです。
「田舎のダンス」
「田舎のダンス」は、ルノワールの愛人アリーヌを描いた作品です。ルノワールとの共通の友人で新聞記者のポール・オーギュスト・ロートにリードされ、とても幸せそうに踊っています。右端に見えるテーブルには、彼らの食器とナプキンが無造作に置かれています。
アリーヌの衣装は、コットンのドレスに真っ赤な帽子、右手には扇子を持っています。ピンク色に染まったふくよかな頬と半開きの大きな口は、まさしく健康美と呼ぶにふさわしいでしょう。事実、アリーヌはショパーニュ地方から出てきた田舎娘でした。
実は、ルノワールがこのダンスの絵を描き始めた82年には、彼の愛人たちの争いにほぼ決着がつき始めていたのです。
経済的に安定しだしたルノワールは、1881年からイタリアを皮切りに何度も旅行に出かけています。そしてその間に出会ったラファエロの絵とポンペイ遺跡の壁画の影響により、彼の画風はますますシンプルな物に変わることとなりました。しかしその旅行中にルノワールの人生に影響をもたらしたのは、これら古代美術ばかりではありません。そして彼は画風どころか、人生をも根本的に変えることとなったのです。それこそが、本作に描かれているアリーヌでした。旅の道中、ルノワールは彼女なくしては彼の人生は満たされないことを確信して、幾度も手紙を書きました。
1882年5月、ルノワールはアルジェリア旅行から戻る際にもアリーヌに手紙を送っています。彼はパリに到着する際に駅まで出迎えを求め、彼女もそれに応えました。それ以来二人は二度と離れてくらすことはなく、1885年3月には、二人の間には長男のピエールが生まれます。まだ正式に結婚こそしていなかったものの、ルノワールはピエールを認知し、ジヴェルニーで一家三人の新たな暮らしを始めたのです。
これは、「都会のダンス」のモデル・ヴァラドンとは全く正反対と言えるでしょう。父親の名も公表されない息子と二人、ルノワールのかつてのアトリエで暮らす母子の境遇とは、見事に対照的な様相です。
つまり、一見風俗画のようなこの2枚のダンスの絵には、複数の女性と浮き名を流したルノワールの「選択」が表されていたのです。
オランジュリー美術館所蔵の「ピアノを弾く少女たち」には、複数の類似作品が存在することで知られます。
このオランジュリー・バージョンは油絵のスケッチで、同年に描かれたオルセー・バージョンやメトロポリタン・バージョン等、他の5点の似た作品の下絵になったと推測されています。
オランジュリー・バージョンでは、人物以外の背景とピアノが、可能な限り省略されています。実は画面左上にカーテンと、その向こうに部屋の一部が描かれているのですが、オルセー・バージョンと見比べてみなければまったく認めることができません。
そのオルセー・バージョンは、フランス政府が最初に買い上げたルノワールの作品となりました。これは友人のマラルメ※が、美術館局長のオンリ・ルージョンに推薦して実現した取引です。この買い上げは、第一回印象派展から苦節18年、ようやく社会的、公的にも印象派が市民権を得た瞬間と言えるでしょう。紛れもなく印象派の勝利です。
モデルの少女は、友人の画家アンリ・ルロルの娘イヴォンヌとクリスティンヌです。手前でピアノを弾いている、明るい栗毛色の髪の毛の少女が姉のイヴォンヌで、左手で顎を支えながら譜面をのぞき込んでいるのが妹のクリスティンヌです。
絵が描かれた場所は、恐らく父親の所有するパリの高級アパートでしょう。オンリ・ルロルは画家であり、絵画のコレクターでもあって、ルノワール、ドガ、モネ、モーリス・ドニ、ギュスターヴ・モロー等の作品を所蔵していました。
二人の姉妹は、彫刻の施された猫足と燭台付きの小型アップライトピアノの前にいます。制作当時イヴォンヌは13歳で、妹のクリスティンヌは11歳でした。
演奏中、お姉さんの腰から垂れるブルーの大きなリボンが、背後でピアノに肘をついて譜面に見入っている妹のクリスティンヌの赤いドレスと、程よいコントラストを醸し出しています。またイヴォンヌの胸と左腕、それにクリスティンヌの左腕は、背景に溶け込んでいるにもかかわらず、二人の顔の輪郭線はハッキリと描かれています。このあたりの「力の抜き方」が絶妙です。
それに二人の目と半開きに見える口は、あえてぼかして描き、ふっくらした赤みを帯びた頬と組み合わさって、ルノワールが理想とした健康的で上品な美少女像が出来上がっています。もし目と口の輪郭線がハッキリと描かれていたなら、この絵の魅力は半減してしまったことでしょう。
一方、ピアノと背景は非常にラフな筆さばきで、ほとんど塗り重ねの跡がありません。しかし、スケッチとはいえ、これ以上描きこむ必要がないほどの完成度がすでにあります。画面からは、ピアノの音色に混じって、姉のイヴォンヌの歌声まで聞こえてきそうです。
さて駆け足でルノワールの作品をご紹介しました。もしコロナが終息し、パリに旅行される機会がありましたら、オルセーやオランジュリー美術館で、ルノワールの作品を鑑賞するだけでなく、彼が愛したモンマルトルの丘や、郊外のセーヌの中州「イル・ドゥ・ショセ」等に実際に行ってみてください。そこで印象派たちの息吹を肌で感じ取ることをお勧めします。それが、ルノワールの最高の鑑賞の仕方ではないでしょうか。













