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美術史家・森 耕治の欧州美術史論 Vol.4

モネと睡蓮池

幸いにも日本人は、海外に行かなくとも世界中の素晴らしい芸術作品を鑑賞することができます。これは松方幸次郎や林忠正など、美術品収集に没頭した先人たちの努力の成果によるもので、現在でも我々はその恩恵に預かっているわけです。
中でも彼ら収集家が心血を注いだのが19世紀以降に登場した表現主義の作品であり、その象徴こそ“印象派の父”クロード・モネでした。日本人が現在もモネに特別な憧れや親しみを感じるのも、こうした過去の歴史から影響を受けているからかもしれません。
ところでモネといえば、やはり睡蓮を思い浮かべずにはいられません。彼が後半生を費やした「睡蓮池」のシリーズは、長い西洋美術史の中でも燦然と輝く金字塔であり、日本でも多くの美術館に収蔵されています。しかし同シリーズは、現在までに確認されているだけでも200点以上が存在し、その本質を理解することはまったく容易ではありません。ここでは、この壮大な「睡蓮池」シリーズについて、西洋美術史研究者としてヨーロッパでも一目置かれる森耕治会長にご解説いただきます。日本人がまだ知らないモネの新たな一面を発見いただければ幸いです(編)。
(本稿は、フランス語をはじめとするベルギー語圏の発音に基づいています。一部の固有名詞は日本語と異なる場合がありますので、ご了承ください)

ジヴェルニーのモネの家

セーヌ川から睡蓮池へ――モネが探し求めた理想郷
フランス美術史上、最もセーヌ川を愛した画家はモネだ――少なくとも私はそう思っています。彼が生まれたのは、セーヌ右岸のパリ9区でした。青少年期を過ごしたノルマンディーのル・アーヴルは、セーヌ川河口にある大きな港町です。そして、社会的に認知される前に住んだアルジョントゥーユ、ベンクール、ヴェトゥーユ村はすべてセーヌ川の畔にある町と村でした。
また「睡蓮池」で有名なジヴェルニーのモネの家も、パリの北西約70キロの、セーヌ右岸にあります。右岸といっても、ジヴェルニー村はセーヌに面してはおらず、ジヴェルニーから直接セーヌを見ることはできません。しかしセーヌを生涯愛し続けたモネは、セーヌ支流のエプト川の真横に、大きな屋敷を見つけました。とは言え、その川幅はわずか2~3メートル程。この細い支流の向こうに、モネは愛するセーヌ川へと思いを馳せたのかもしれません。

モネの家の花畑

そのモネの屋敷は、エプト川の下流に向かって、右側の緩やかな丘の中腹にあります。モネの生前は、エプト川に沿って走る村の大通りのロイ通り側に正門があり、その向こう、幅が3メートルはある緩やかな坂を100メートルほど上った先に、壁面がピンク色に塗られたモネの屋敷が目に飛び込んで来るのです。その坂の両側は、現在では見事な花畑となっていて、私が訪れたシーズン中は、若い庭師たちが、お花の世話をされていました。
また晩年の8枚の睡蓮池の超大作を収めたオランジュリー美術館自体も、セーヌ川までたった50メートルのテュイルリー公園の南西の角にあり、モネ作品を展示する上でもっともふさわしい立地ではないでしょうか。
そのモネが描いた睡蓮池の作品は、世界中に全部で250点以上にも上ります。これらは、初期の具象的な画法から始まって、86歳で亡くなるまでの1926年まで、実に40年近くもかけて事実上抽象画の先駆的作品へと発展していったのです。

オランジェリー美術館

睡蓮池の作品の大半は、モネがジヴェルニーに引っ越した後、自分の庭に作ったJARDIN D’EAU(水の庭)の光景を描いたものです。「水の庭」は、彼が愛したセーヌの様子を再現した、セーヌの箱庭であり、彼の最高傑作と呼ぶにふさわしい作品と言えるでしょう。日本では、睡蓮と言うと池にあるものと連想されがちですが、実際には河川でも見られる水生植物であり、黄色や白い花をフランスの河や池でもよく見られます。とくに黄色のものは、かつてセーヌ川の少し水のよどんだ場所で普通に自生していました。一時はセーヌ川の水質汚染の影響で激減した睡蓮ですが、最近はセーヌの水質が改善されたおかげで、少しずつではあるものの黄色の綺麗な花が岸辺に戻りつつあります。ちなみに青や紫などのビビッドカラーの花は、熱帯性の品種のため、ジヴェルニーでは栽培することができません。モネの作品で描かれる睡蓮が、いずれも黄色、白、ピンク色であるのは、このような地理的条件によるものなのです。

睡蓮

ところで、モネと睡蓮との関係は、ジヴェルニーに引っ越してから始まったわけではありません。たとえば、モネが1866年に住んで結局、宿の金が払えなくなって追い出されたセーヌのほとりのベンヌクール村にも、右岸の少し水流の遅い箇所には睡蓮が自生していました。川むこうに側にある大きな中ノ島の木々の影が、水面に映って睡蓮と重なり合い、とても綺麗です。

ベンヌクールのセーヌ河

また1878年から、最初の妻カミーユやその子供たちと暮らしたヴェトウーユ村でも、モネの家があった真正面のセーヌ右岸には、写真のような、まるで池のように水流が遅い部分があります。そこにも黄色い睡蓮が自生していて、岸辺には睡蓮の案内板までありました。つまりジヴェルニーの睡蓮池は、モネが半生を通して眺め続けてきたセーヌ川の景色を再現した箱庭であり、モネの人生を反映していると言っても過言ではないでしょう。
ところで、モネの睡蓮池は、最初からあった池ではありません。池そのものがモネが造った人工池です。池を含む「水の庭」は、2回にわたって造成され拡張されました。まず1893年に、現在「クロ・ノルマン」と呼ばれているモネの花畑のもっと下、かつて鉄道線路があったさらに向こう側の沼地を購入。同年7月に、隣接するエプト川から水を引く許可を取り付けて、池を建設したのです。そして翌年1894年には、苗木屋のラ・トゥール・マルリアックに睡蓮やその他の植物を注文して、有名な「日本橋」は、1895年に完成しました。
さらに1901年、隣の土地を購入して、「水の庭」は大幅に拡張されたのです。

モネの庭にかかる太鼓橋

「ピンクの睡蓮」(1897年、ローマ近代美術館)では、よどんだ池の水面に浮かんだ、やや楕円形の葉が、紫がかった線で縁取られ、水面の緑やブルーの中にも紫がたくみに混じっています。さらに水中の茎も紫の線で即興的に描かれています。目を半分閉じてこの絵を眺めれば、画面が全体的に紫がかって見えるでしょう。
モネの睡蓮池の連作は、このような初期の写実的な画法から始まって、彼が86歳で亡くなった1926年まで、実に40年近くもかけて、事実上抽象の先駆的作品へと発展していきました。

ジヴェルニーの睡蓮池では、睡蓮の楕円形の葉が何十枚も集まって島のようなものを作り、その島々が、池の隅々まで点在しながら広がっているさまは壮観です。時には、その島のすぐ横の水中を、大きな魚が泳いでいるのが見えます。
その睡蓮池では、6月から睡蓮のつぼみがふくらみ始め、7月には一斉に開花します。その時の睡蓮池は、淡黄色の花と、赤い花とが島ごとに分かれて咲き乱れ、まさに睡蓮の花の競演といったところです。

モネの庭の睡蓮

モネを紹介する文献や資料には、第一次世界大戦勃発の直後に、平和を祈って巨大な睡蓮池の連作の制作を決意したという解説をよく目にします。しかしモネの親友クレモンソーの秘書ジョン・マルテによれば、全く異なる説を後世に遺しています。それはある日のこと、モネがジヴェルニーのアトリエを訪れたクレモンソーに、睡蓮の花の絵を披露したところ、クレモンソーは「あまり面白くないが、真面目な絵」だと感じました。しかし、クレモンソーはその時、「裕福なユダヤ人を見つけて、その人の台所の装飾に睡蓮を注文してもらうといい」と助言したそうで、その言葉が後にモネのオランジュリーの連作を描かせることになったというのです。

ジョルジュ・クレモンソー

またモネは、元新聞記者でクレモンソーの片腕と言われたジェフロイに対し、1914年4月30日、つまり戦争勃発の3ヶ月前に送った手紙には、次のように書かれてあります。「大作に着手しようとさえ思っています。私が地下室で見つけた昔と同様の試みを見ていただけます。クレモンソーがそれを見たときは、びっくりしていました。」 この「昔と同様の試み」というのは、モネが若いときに未完のままに終わった超大作「草上の朝食」に間違いないでしょう。

草上の昼食 オルセー

この超大作「草上の朝食」の大きさには、所蔵するオルセー美術館も大変頭を悩ませたようです。そのため、印象派の作品を集めた5階には長年運び込むことができず、最近まで1階の中央部分に展示されてありました。モネはこの若き日の情熱が込められた超大作に、再び挑もうと己を奮い立たせていたのでしょう。睡蓮の大作を着手した理由には、「若き日の夢をもう一度」という思いもあったのです。
この巨大な睡蓮池を描くにあたり、モネは納屋だった場所に光が充満する巨大なアトリエを建設させました。これは現在モネの家のブック・ショップになっていますが、モネはこのアトリエの建築工事を建築許可を得る1年前には、すでに工事を始めていました。事実上無許可で建築を始めたのが1914年の8月1日、ドイツがフランスに戦線布告した2日前のことです。「第一次世界大戦直後に平和を祈って―」とする説とは、時間にズレが生じることになります。
モネの「若き日の夢」が、べトゥーユ村で、貧困の中で亡くなった前妻のカミーユや、1911年に先立っていった後妻のアリスを偲び、戦争になってからは、平和への祈りと、国のために死んでいった数知れぬ人たちへの追悼になったことは確かです。さらにモネは、1914年の2月9日に長男のジョンを病気で失っています。また戦争勃発直後には、アリスの連れ子で末っ子のジョン・ピエール・オッシュデ(本当の父はモネか)が徴兵され、次男のミッチェルも志願兵として出兵しています。また戦争中には、平和なはずのジヴェルニー村にも、にわか作りの病院までできて、モネはその病院に毎日新鮮な野菜を供給する役を受け持っていました。
孤独なモネをそばで支えてくれたのが、ジョンの死後、ジヴェルニーに戻ってきてくれた義理の娘ブロンシュでした。彼女は毎日、たくさんの画材とキャンバスを一輪車に積み込んでモネに同行し、彼の世話をしながら、自らも絵を描いていました。
戦争が終わった翌日、1918年11月12日にモネはクレモンソー首相に手紙を送りました。「私は二枚の装飾画を描き終えるところです。これに、勝利の日にサインを入れるつもりです。そしてこの絵を貴方にお世話していただいて、国への寄贈を申し出たいと思います。些細なことですが、私にとって唯一、勝利を分かち合える方法なのです」。残念ながら、クレモンソーが書いたモネの伝記にも、モネが最初に寄贈を申し出たこの2枚が、現在のオランジュリーのどの絵に該当するのか一切記載がありません。
そして6日後の11月8日に、クレモンソーが車でジヴェルニーに駆けつけてきました。玄関の前で出迎えたモネは、クレモンソーに「終わったのか」と尋ねました。クレモンソーは一言「ウイ」と答えて、二人は涙を流して抱き合いました。
その日の昼食の席で、モネは改めて睡蓮池の作品を、二枚だけでなく、連作にして国に寄贈することを申し出て、クレモンソーも了承しました。現在オランジュリーで鑑賞できる8枚の巨大な睡蓮池の計画は、この様にしてスタートしたのです。
少々前置きが長くなってしまいましたが、本稿では、オランジュリーの8枚の巨大な睡蓮池の連作に、マルモッタン美術館の「夕方の効果」とオルセー美術館が所蔵する「睡蓮池。緑のハーモニー」、大山崎山荘美術館所蔵の「日本風太鼓橋」を含めた全4点をご紹介いたしましょう。日本人に人気のモネの一般には語られない一面を知っていただければ幸いです。

「夕方の効果」1897

「夕方の効果」は、モネ邸の「水の庭」の造成工事の第一期目が終わり、育てた睡蓮が、ようやく開花したころに制作された作品です。人生最後の10年間に描かれた抽象的な心象風景に近い描き方とは異なり、念願だったセーヌの箱庭が完成した喜びと、新鮮さに満ちた、写実的な画面に仕上がっています。
しかし写実的であっても、そこに一つのストーリーを感じさせるところがモネの偉大さでもあります。夕暮れ時の、青空の残照が水面に映し出されています。その鏡のようなブルーの中に、9枚の睡蓮の葉が、まるで空の雲のように漂っています。画面右下は、ブルーが濃くなって、深みを感じさせます。その中に、水中に隠れた睡蓮の茎が、かすかに見えるような錯覚に陥ります。また、注意深く観察すると、水面は、音もなく渦巻き状に微動しているかの様です。
その静かな渦巻きの中心に、2輪の白い花が仲良く並んでいます。水の妖精の様なこの白い花たちは、日が暮れると、蕾を閉じて翌朝まで休息の時間となります。その直前まで、目いっぱいに太陽の光を受けて、楽しんでいるかのようです。
モネが、夕日の中の水面上に見出した異次元空間は、その後、オランジュリーに収められた巨大な「夕日」や「樹々の反映」等に発展していくことになります。
ところで、現在「睡蓮池」がある場所は、元々沼地だった場所で、池ではありませんでした。1893年に、モネはエプト川に隣接するこの土地を購入して、川の水を小さな運河で引いて池を作り、最初の睡蓮池が出来上がりました。しかしパリから来た「よそ者モネ」の計画は、村の限られた水資源を横取りされるのではと邪推されて、村役場に理解されず、なかなか許可が下りませんでした。そこでモネは知事に直訴して、川の流れを一部変える許可を取り付けたのです。
しかし、モネが許可を得た直後の1895年、深刻な問題が発生します。造ったばかりの睡蓮池の近くの、村が所有する土地を、デンプン工場に売却する計画が浮上したのです。景観が損なわれることを危惧したモネは、村に陳情を繰り返し、問題の沼地を買い取ることさえ提案しましたが、ラチが明きません。そこで、さらにオファーの額を増額して、村に沼地を誰にも売らないという確約を取り付けました。現在、世界中から観光客が訪れるジヴェルニーの「水の庭」と周囲の景観は、こうして守られたのです。

「睡蓮池 緑のハーモニー」

睡蓮池では、睡蓮の楕円形の葉が何十枚も集まって島のようなものを作り、その島々が、池の隅々まで点在しながら広がっているさまは壮観の一言です。時には、その島のすぐ横の水中を、大きな魚が泳いでいるのが見えます。睡蓮の花々の競演が行われている水面に、真夏のライトブルーの空が、ウルトラマリンに変化しながら反射して、そこに水辺のしだれ柳がやさしい影を落としています。
この睡蓮の花は、8月に入ると枯れてなくなってしまいます。そのことを思うと、モネの描いたオランジュリーの8枚の巨大な睡蓮の花々の壁画は、たとえ彼が歳をとって、白内障で半分目が見えなくなっても、心で見続けた7月の暑いジヴェルニーの睡蓮池だったのです。
モネが睡蓮の絵を描き始めたのは、彼の親友で、美術評論家のギュスターヴ・ジェフロイによれば、1890年と言われます。この年に、モネはジヴェルニーに借りていた大きな屋敷を、周囲の広い土地ごと購入することに成功しました。モネが同じ年に、ジェフロイに送った書簡には、次のように書かれていました。
「私はまた不可能に近いことに着手しました。水の上で水草がうねる風景です。この情景を見るのは素晴らしいことです。でも実際に描くとなると大変です。でも私は常に、この様なことに挑戦してきました。」

ギュスターヴ・ジェフロイ

しかし、本来、川の流れの穏やかな場所や、池に浮かんでいる、いわば雑草のような水草である睡蓮を使って、自らの「睡蓮池」を創り、その上、それをシリーズの絵にしようという試みは美術史上例のないことでした。たとえモネといえども、そう簡単には、この新しいモティーフを物にはできませんでした。翌月にジェフロイに送った手紙には、「私の目の前が真っ黒になって、絵が嫌いになりました。」と記しています。相当、四苦八苦していたことが想像できます。
それでは、作品の話に移りましょう。この絵は、6月から7月に睡蓮が咲き誇る睡蓮池と、池の西の端に架けられた太鼓橋、フランス語ではPONT JAPONAIS「日本橋」を、池の真ん中に小舟を浮かべて描いたものです。
中央の橋は、夏の太陽を受けて、やや霞んで見えます。橋の背景には、しだれ柳があって、池のふちには、アシと水草が密生しています。

「睡蓮の池」ポーラ美術館

ところで、この絵が描かれた頃から、日本橋の位置と角度が変わっていなければ、この日本橋を、真正面から、このように大きく描くことは、船に乗って水上から描かない限りは不可能です。船上で、好みのアングルを定めて写生することは、モネが若いころから得意だったことです。
ところでモネに詳しい方でしたら、ポーラ美術館にも、これに非常に似た作品があるのをご存じでしょう。しかし、どちらかがオリジナルで、もう一方がコピーというわけではありません。モネは、この太鼓橋を正面に据えた構図がお気に入りで、バージョン違いの作品を数多く制作しています。オルセー・バージョンは、ポーラ美術館のものよりも、より光線が強く、画面全体がグリーンに輝いているのが特徴です。
またモネの生前に、彼の友人で、宰相だったクレモンソーと一緒に、太鼓橋上で撮影した写真と、私が現場で撮ったスナップ写真と比較しても、画中の日本橋の湾曲の度合いが、かなり誇張されています。これは明らかに歌川広重の浮世絵「亀戸天神境内」、または、葛飾北斎の「諸国名橋奇覧」の影響と思われます。
次に、太鼓橋をよく見てください。モネは、橋にまずマダーレーキと言う、ややピンクがかった絵の具を薄く塗り、それが乾いてから、ライトブルーを荒っぽく塗り重ねています。この工夫によって、橋が僅かですが、見る者の眼の中で紫がかって見えます。このブルーと赤の並置によって、見る者の目の中で紫を作り出す技術を「視覚混色」と言いますが、この技術は、代表作の一つ「サン・ラザール駅」や、「積み藁」でも使われました。
この日本橋のシンプルな曲線を引き立てるかのように、背景の柳と、その他の木々は、グリーンの模様のように抽象化され、太陽光の中で、橋の輪郭線と一部が溶け合っています。

亀戸天神境内 歌川広重

次に水面に注目してください。そこには、ピンクの睡蓮の花が小さな点の集合として表されていて、決して一つひとつの花が描かれているわけではありません。その花の間には、水上に浮かぶ睡蓮の葉と、水面に映った青空が、ビリジアンというクローム系のグリーンと、ブルー、淡黄色の細くて短い線の集合によって表現されています。
最後に水面の拡大写真を見てみると、一見無造作かつ即物的に筆を運んで描いたようで、実際には、二種類の平行な色の帯を、規則的に並べているのが分かります。まず睡蓮の花の箇所は、グリーンとライトグリーン、それに淡黄色の横向きの筆のタッチによって構成されています。その横に流れる花の帯に挟まれるように、ビリジアンと淡黄色による、縦向きの筆のタッチからなる帯が描かれています。そして、これらの帯は、遠くになるにつれて、その幅もタッチも小さくすることで、水面そのものに遠近感が生まれています。

日本風太鼓橋

モネは生涯約250点の睡蓮池を描きましたが、画中に太鼓橋が登場するものはなんと45作にも上り、本作「日本風太鼓橋」も、その一点です。
予備知識のある人を除いては、この絵を見て、即座に、これがモネの睡蓮池だと理解できる人は稀でしょう。むしろ20世紀後半に描かれた抽象画と言えば信じる人も少なくないはずです。
しかし、注意深く観察すれば、池の上をまたぐ緑とブルーの2本のアーチが、逆光になって、背景のレモンイエローと黄緑の木立から浮かび上がっています。晩年のモネは、白内障のために、視力が非常に衰えていました。被写体の輪郭線がはっきりとつかめない上に、逆光のために、橋は輪郭線を失い、屈折して波打っています。この絵を上下さかさまにして見せたなら、大半の人は抽象画だと思うでしょう。
近年架け替えられた橋は、ブナの木を使い、橋の上には藤のツタが屋根のように覆っていますが、この絵の制作時には藤のツタはありませんでした。また橋の右には、高い気が画面を貫き、水面には、背景の明るい樹々と橋が映っています。

「日本橋」個人蔵

この抽象化の傾向は、最晩年になると、さらにその度合いを増してきました。他界する4年前に制作された、もう一枚の「日本橋」(個人蔵)を見てください。それまでのモネの画風からは想像できないような、荒々しいタッチの厚塗りで、紅葉した木々と睡蓮池の情景が描き出されています。
赤い地の上に、ライトグリーンと紺色の太鼓橋が、輪郭線を一切無視して大変な厚塗りで描かれています。背景の紅葉した樹々は、まるで爆発したかのように、画面上に飛び散っています。反対に、水面は大人しい水平のタッチで表現されています。その色彩の激しさと、筆致の荒さは、抽象画のみならずフォービスムをも想起させます。
このような抽象化は、モネの事実上の遺作となったオランジュリー美術館の、睡蓮池を描いた、巨大な8枚の連画においても、顕著に表れています。とりわけ「二本の柳」における、水面に映った雲の表現や「夕日」は、もはや抽象画と具象画の間に、線引きが必要ないことを示唆しています。
言い換えれば、視力を半ば失っていた晩年のモネにとって、見える物をいかに表現するかが問題ではなく、感じたことをいかに具現化するのかが最も重要なことでした。
通常、抽象絵画の始まりは、1910年頃と言うのが定説になっています。しかしモネは、印象派の巨匠と言うだけではなく、抽象絵画の萌芽期における、一先駆者としての位置づけがなされてしかるべきでしょう。

オランジュリー美術館モネの部屋

オランジュリーの「睡蓮池」は二つの大きな楕円形の展示室から成り立っています。見取り図でいうと、左側から入って、最初の部屋に4点、次の部屋にも4点の計8点が常設されてあります。展示室の中に入りますと、あたかも睡蓮池のほとりに立っているようです、と言いたいところですが、実際には360度四方八方から押し寄せてくる迫力に圧倒されてしまいます。これらの絵がオランジュリー以外で鑑賞できないのは、フランス政府と生前のモネとの取り決めによって、館外に持ち出すことができないためです。
それでは、この文字通り門外不出の8点を順番に鑑賞してみましょう。
第一展示室の4作
第一展示室では、睡蓮池の光景を、朝から夕暮れまでの時間の異なる4つのシーンに分けて表しています。同じ池の光景が、時間とともに様相を根本的に変化して、最後には夕暮れ時の光景で終わります。このパターンは第2展示室でも同じです。鑑賞は時計の針の反対方向に見て回るのがコツです。その時に、池の周りをグルーッと1周してみると想像すればさらに楽しみが倍増することでしょう。4つの作品のタイトルはこの通りです。

1. 朝
2. 緑の反映
3. 雲
4. 夕日

1.「朝」 南面
(p340ページ参照)

この絵は、第一展示室に入って右側の曲がった壁に沿って張られた全長12.75メートルもあるものです。早朝の穏やかで斜めから差し込む光の中で、水面と木々のすべてがキラキラと輝いて見えます。池の中央では、水面が青空を映してさざ波の間で振動しているかのようです。その振動の中から30近い睡蓮の葉が浮かび上がり、そのうちのいくつかは、ブルーのさざ波の中で、簡単な緑の線のみで表されています。そして、葉の上には、かわいい黄色と白の花が咲きました。
画面の右側の、岸辺の草むらは、一見するとまるで抽象画のようです。上のしだれ柳の緑の陰と草むらが水面上に反映されていますが、草むらと水面との間には境界すら存在しないのです。そして映ったしだれ柳と草が水面のブルーと見事な三重奏を奏でています。その競演の合間に咲いた、睡蓮の小さな白い花が観客の目の中に飛び込んできます。

2.「緑の反映」
(p340参照)

この作品は、第一展示室の向こう正面にある、4.25メートルの画布を2枚継ぎ合わせた全長8.5メートルのものです。睡蓮が早朝の光を受けて緑色に輝く光景が、パノラマで描かれています。手前の葉は大きく円く描き、遠くの睡蓮の葉と花は小さくかつ楕円形に描くことで、単純な構図にもかかわらず、遠近観がかもし出されるように工夫されています。また画面全体に、ところどころ紫で縦向きの筆の大きなタッチを残すことで、横向きに展開する睡蓮に対して,水深を感じさせる効果も生み出しています。この絵では、中央と左の睡蓮の花は意図的に赤く描かれています。この赤が、緑の水面上に素晴らしいコントラストを生み出しています。

3.「雲」
(p340参照)

第1展示室の左の壁には12.75メートルの「雲」がかけられています。宰相クレモンソーは、1924年3月に送ったモネ宛の書簡で、本作の出来栄えを褒める一方、前年にモネの白内障の手術を行ったクートラ医師に視力について相談するように進めています。その所管の内容から、「雲」の制作年は1922年から23年ごろと推測できます。この「雲」は、反対側の壁の「朝」とほぼ同じ場所から描かれたように見えます。真夏の昼下がりに、高く上がった太陽が水面を照らして、池の左右は木立によって影となりました。画面左側では、木陰となった水面が縦向きの勢いのよい筆のタッチで描かれ、その中に睡蓮の丸い葉がぼんやりと円盤のように浮き上がっています。
そして、中央の水面のみが空の真っ白な雲を映し出しています。水面そのものは穏やかで、ほとんど動きがないのに対し、水面に鏡のように映し出された雲は、風に流されて動いていることが察せられます。その静と動のコントラストのなかで、20枚ほどの睡蓮の葉がぽっかりと浮かんでいます。

4.「夕日」北面
(p340参照)

展示室をほぼ1周したところの入り口付近に、この部屋の作品としては一番短い「夕日」が展示されてあります(全長6メートル)。沈みかけている夕日の光は、池の周りの木立によって遮られ、画面右にある楕円形の集まりによってこれが睡蓮池の光景だと想像できます。すでに池の睡蓮たちはひっそりと静まり返って、明日、朝日を浴びるまで眠りについているようです。その反対に、画面左側では、木々の枝からもれた夕日が池の一部をオレンジ色に照らし、そのオレンジ色の周囲の緑の影は、波のようにうねり、下の枝の影はわずかに残った残照のなかに容赦なく食い込んでいます。この絵を一度も見たことのない人が、この絵は睡蓮池の夕方の光景だとすぐ理解できるでしょうか。反対に「これは抽象画です」といえば、信じてもらえるかもしれません。
この作品を1907年作のパリのマルモッタン美術館所蔵の「睡蓮、夕焼けの効果」と見比べてみましょう。オレンジ色に染まった空が、池のほとりの逆光になった木々といっしょに水面に映し出されています。その夕焼けの風景の上に、無数の睡蓮がまるで雲のように浮かんだ幻想的な雰囲気がかもしだされています。しかし、注意ぶかく観察すれば、そこに描かれた対象が睡蓮であり、夕日の反射であることは理解できます。

モネがオランジュリーの「睡蓮」を描き始めたのは、第一次世界大戦が勃発した1914年のことです。それ以前の作品には、見る者が「何が描かれてあるのか理解できる」要素が多分に残されていました。それに対して、オランジュリーの「睡蓮池」においては、「何が描かれてあるのか」は本質的な問題ではなく、見る者がそこから受ける「印象」そのものが大切になったのです。
ちなみにオランジュリー美術館は、ナポレオン3世による第2帝政期の1853年に、テュルリー宮殿(1870年焼失)の一部として建設されました。建物は名前にもある通り、オレンジの栽培のために建てられた一種の温室でした(当時のオレンジは高級フルーツでした)。
当初、モネの睡蓮画は、モネの友人でもあった彫刻家ロダンの美術館の庭に円形の建物を建てて、専用の美術館にする予定でした。しかし、予定された敷地が狭くて、構想段階で建物内部の展示スペースが狭いことが分かり、その上、ロダン美術館の付属施設のように思われかねないことがモネを躊躇させたようです。そこで、クレモンソーが、1921年3月に手紙でモネに、オランジュリーを睡蓮池の連画用の美術館として使うように勧めました。それを受けて翌月にはモネ自らオランジュリーを訪れ、クレモンソーの案を受け入れたのです。

第二展示室の4作
第二展示室も楕円形のスペースに左右に12.75メートルの作品が2枚、前後に8.5メートルの2枚の計4枚が展示されてあります。この部屋での見どころは、4枚のうちの3枚が池のほとりの2本の柳の間から眺めた池の眺望であることです。同じアングルから池を見ながら、時間とともに池の様相が変化していくさまを楽しむことができます。
作品のタイトルは次の通りです。

オランジュリー美術館モネの部屋

1.「柳のある朝の風景」 南面
2.「二本の柳」東面
3.「柳のある明るい朝の風景」北面
4.「樹々の反映」 西面

1.「柳のある朝の風景」 南面
(p343参照)

第二展示室は、第一と同様、入って右側の南面から鑑賞します。画面は明るいブルーの上半分と、グリーンが主調色の下の部分に分けられます。それを両側の2本の柳が逆光のまま画面を縦に縦断して、大画面にさらにボリュームを加えています。

画面の下の部分に注目してみましょう。朝の柔らかい光に照らされて、細長い柳の葉の一枚一枚と、池のさざ波の一つ一つが見えるような錯覚に陥ります。その煌くさざ波のブルーの模様が、画面手前では柳の葉の影に重なり合い、さらに池のほとりでは、緑の睡蓮の円形の葉に変化していきました。さらに目覚めたばかりの睡蓮の花がそこから顔をのぞかせています。
両端の2本の柳は、逆光になっているとはいえ、朝の柔らかい光のおかげで、注意して見ると、その中には緑や赤も縦向きの筆のタッチによって混じっています。

2.「二本の柳」東面
(p343参照)

「二本の柳」は、室内のもっとも奥まった場所に展示されています。大変写真撮影しにくいために、オランジュリーの作品の中では、一番知られにくいものです。
先ほどの「柳のある朝の風景」 とほぼ同じアングルから描いたようですが、画家の目は、さきほどよりだいぶ後ろにあります。太陽はずいぶん高く上がって、画面は一気にまぶしくなりました。池の水面には第一次展示室で見た「雲」のように、水面に青空と雲が映し出されて、その雲と睡蓮の花がブルーの水面上で互いに競い合っているかのように見えます。この絵には、2次元的な水面と、そこに再現された3次元の空の様子が巧みに組み合わされ、さらにその平面から、3次元の睡蓮の花が突き出ているという、幻想的な世界が創造されています。
この作品は、画面を5つに分けることができます。右端では、左に傾いた柳の後ろに、青空と雲を映した静かな世界が広がっています。また柳の葉の陰は水面上には落ちずに、柳の樹の幹すら、一部はブルーの光の中で輪郭線が消えてしまいました。睡蓮も同様に光の中に包みこまれてしまいました。右上の睡蓮の赤い花と樹の幹のうねりのみが画面にアクセントを添えています。静かな昼下がりの光景のようです。
ところが柳の左側では状況が一変し、静かな池の上半分が風に流された雲に覆われています。しかしその中から、負けじと睡蓮の花が顔をのぞかせ、下のやや紫がかった水面でも、右下から睡蓮の一群が現れて、水面に映った雲と競い合っているかのようです。
さらに画面中央に視線を移せば、水面の雲は睡蓮の花たちに場所を譲って、向こうの岸辺のほうへ引き下がってしまいました。でもその雲を挟み撃ちにするかのように、最上部と左から睡蓮の花たちが押し寄せてきました。画面の下では、紫に輝いて、ホワイトのラインのみで描かれた睡蓮の葉っぱが、陽光のなかでゆれ動いています。
さらにその左側を観察すると、また雲が上から水面を覆い始めましたが、睡蓮も負けじと群を成して、下の中央部分に現れました。5個の白い花が満開になっています。
そして一番左の柳の木に視線を移せば、垂れ下がった葉の下の水面には、また静けさが戻っていました。右側に傾いた柳は、反対側で左側に傾くもう一本の柳といっしょになって、水面上に交差する光と雲と睡蓮を両手で包み込んでいるかのようです。モネの絵では、柳の木は常に静けさや平和な感じを、見るものに与えてくれます。

3.「柳のある明るい朝の風景」北面
(p343参照)

本作は、部屋の左側に展示され、壁の反対側には、さきほどご紹介した「柳のある朝の風景」 があります。2つを見比べると、画家の見るアングルも、タイトルもほぼ同じですが、後者のほうが水面に映った青空と白い雲がより強烈にかつ動きを持って描かれています。
画面右端では、画面の半分以上を、水面に映った青空が占めています。モネはそのブルーの上からふと筆で力いっぱい淡黄色の雲を塗りつけ、一部の睡蓮は、その雲のクリーム色の中に半ば塗りつぶされてしまいました。
その反対に、右の柳の部分では、水面のブルーとクリーム色の激しい動きは、たれた柳の葉と、下の睡蓮の葉の集まりが作った緑の影によって上下から緩和され、静けさを取り戻したかのようです。
しかし、その左の部分では、青空の中で幾つもの雲が激しく渦巻いています。この部分だけ見ると、まるで真夏の青空を見上げているようです。
そして、画面の一番左では、再び静寂が戻り、柳の太い幹と、水面にまで達した柳の葉とその影が、見る者の心を静めてくれます。
ところで、このように大画面をブルーと淡黄色で描き上げたもう一人の巨匠がいました。晩年のポール・デルボーがそうでした。たとえばデルボーが1983年 86歳のときに描いた「コーラス」がそのいい例でしょう。デルボーの作品においても、モネ同様、ブルーを主調色とし、大変明るい肌色を多用し、一部に赤が用いられました。これは決して偶然ではありません。晩年のデルボーもモネと同様に白内障に苦しんでいたのです。デルボーも晩年視力が衰え、その上色を識別することが難しくなって、大画面にブルーと白っぽい色で大きなマスをとらえながら制作を進めました。
モネの白内障は、第一次世界大戦前の1912年7月から自覚症状が出始めました。制作中に突然右目が見えなくなり、すぐに眼科医の診察を受けたところ、右目が白内障と診断されて、左目にも症状があることを告げられました。その時のことを、彼は次のように語りました。「私が誇りにしていたしだれ柳は、荒らされて、枝を切り落とされた。最も美しい柳は完全に折られてしまった。私にとって完全な破局だ。でも、視力の低下にもめげずに、今まで以上に、休むことなく絵を描き続けなくてはならない。」
幸い、当時でも、白内障の手術はだいぶ進歩しつつありました。1919年には、元医者でもあったクレモンソーから手術を勧められますが、手術に失敗して盲目になることを恐れたモネは、なかなか手術を受けようとしませんでした。1922年には、モネとフランス政府の間で、2年以内に睡蓮池の作品を国に寄贈する旨の契約書が作られ両者によって署名されましたが、その直後にモネの右目は急激に症状が悪化し、左目の視力も急激に衰えてパレット上の白と黄色が見分けられないほどでした。
そして、とうとう23年1月10日にモネは、ヌイリー・シュル・セーヌのクートゥラ医師によって手術を受けました。ところが3日間の安静を命じられたにもかかわらず、モネは、義理の娘のブロンシュに手伝わせて、動き回り始めてしまったのです。おかげで回復が遅れ、1月31日に予定されていた2回目の手術は、2月17日まで延期となってしまいました。
それでも2回目の手術を受けたまでは良かったのですが、モネは結果に全く満足せず、焦燥感に駆られて、6ヶ月後に次のような辛辣な手紙をクートゥラ医師に送りました。「私は完全に勇気を喪失しました。毎日楽に15~20ページほど読めるのに、遠くのものは、眼鏡をつけてもつけなくても見えません。(中略)もしあなたが本当のことを言ってくれていたなら、私はこの6ヶ月間を制作に費やせたはずですし、来年4月には「装飾」(訳注、後にオランジュリーに収めた睡蓮池のこと)を完成していたことでしょう。今となっては、私が望んだように仕上げることは不可能です。本当に悲しいことだし、手術を受けたことが悔やまれます。きつい言い方ですが、あなたは私をこのような状況に陥れた犯罪者です。」
犯罪者扱いされたクートゥラ医師が気の毒ですが、医師はめげずに7月に3回目の手術を行いました。そして12月に4回目の手術が行われました。幸い4回目の手術の後、少しずつ視力を取り戻して、絵を再び描けるようになったのですが、24年には出来栄えに不安を感じたモネは制作を断念しかけ、クレモンソーとのあいだに幾度も手紙のやり取りがなされました。
クレモンソーは、トラの異名を持つほどの宰相でした。第一次世界大戦の終結も、彼なしには達成できなかったことでしょう。そんなクレモンソーがモネに書いた手紙は、あるときはなだめすかし、あるときは褒め称え、あるときは子供をしかりつけるようです。25年の1月に書いた手紙には、このように書かれてありました。「もし貴方の視力が低下したなら、それは手術をした目の状態を自ら悪化させたためです。それにしつけの悪い子供のように、もう一方の目の手術を拒否したためです。」
それまでは、甘えっこをなだめすかすようにモネを励ましていたクレモンソーですが、とうとう業を煮やして、いったんはモネと絶縁状態になったほどです。さすがのモネも、この唯一無二の親友を失うことは耐え難く、ようやく筆を取って制作を再開しました。
モネが他界した前年の25年に彼が友人のマルク・エルデールに送った手紙には「元の視力を取り戻しました。まったく私にとっては第二の青春です。大喜びで戸外に出て、また仕事を始めました。」と書かれてあります。そして亡くなる1ヶ月前の1926年の11月まで、モネはオランジュリーに収める睡蓮画を描き続けたのです。オランジュリーに現在ある22枚のキャンバスを組み合わせて作られた8枚の巨大な作品は、モネの死後、遺族によって国に引き渡され、モネが生前に指示した通りに展示されました。
モネの白内障手術に関して、先日講演会でご一緒させていただいた、岡山大学医学部名誉教授で元学長の森田潔先生から次のようなコメントをいただきました。

おそらく、モネの絵は、白内障を患った目から、逆に光に対して感性豊かになり、抽象的な表現も入った素晴らしい「睡蓮」に至ったのではないかと素人なりに感じました。

モネが、何回も白内障の手術を受けたと先生が述べられて、不思議に思いましたが、調べてみますと白内障は非常に古くから人類を苦しめており、1700年代後半には、すでにフランスでは角膜を切開して水晶体を取り出す、現在の行われている基本的な手術が行われていたようです。ただ、当初は成功率はあまり高くなかったようですが、おそらくモネが手術を受けたのは1900年前半のころと思いますから、この頃にはかなり確率された手術と想像され、クレモンソーの言う通り、モネがなかなか手術を受けいれなかったのが、成功しなかった原因かもしれません。
私は麻酔科医ですので、そのころに局所麻酔を使用していたかが、大きな手術成功の要素かと思っています。全身麻酔は、1846年にボストンでエーテル吸入麻酔が最初です。局所麻酔は1884年にウィーンでコカイン(コカインは基本的には局所麻酔薬です。)を使用して眼科の手術に使用したのが世界で最初です。
従って、おそらくモネの白内障の手術にも、局所麻酔の元に水晶体摘出術を試みたものと思います。もしくは、水晶体を眼窩に落とし込んで排除する方法を行っていたようです。いずれにしても、微細な、現在では顕微鏡下に行う手術ですので、モネの場合はうまく行かなかったものと思います。局所麻酔の技術もまだ完成しておらず、痛かったのかもしれません。

オランジュリーの絵には、モネが視力の衰えと絶望と闘いながら制作を進めたあとがうかがえます。ボヤーと目の前に靄(もや)がかかったような状態で、なんとか識別できた大きなブルーとクリーム色の動きを必死になって把握しようとしています。モネの想像を絶した画家の人生最後の闘いがここに描かれていたのです。

4.「樹々の反映」 西面
(p343参照)

「樹々の反映」は、タイトルこそ夕日を連想させる言葉が入っていませんが、陽がまさに暮れようとしている瞬間を描いた作品で、ひっそり静まりかえった水面には、水辺の樹々のダーク・グリーンが映し出されています。そのダーク・グリーンの波の中を、コバルトブルーの睡蓮の葉がぼんやりと光を放ちながら漂っているようです。そして、その葉のところどころには、明るいグリーンやオレンジの花が豆電球のように輝いています。
私は、この最後の8枚目の作品を、単なる夕暮れ時の光景だとは考えていません。夕暮れのたそがれのなかでも、弱い光を放つ睡蓮の葉と、豆電球のように光り続ける睡蓮の花は、半ば視力を失いながらも、懸命に水と光を求め続けたモネの姿の反映に他なりません。
1924年、モネの担当医は、クートゥラ医師からマワ医師に替ります。モネと初めて出会ったとき、モネはマワ医師に「ブルーしか見えない」と嘆いたということです。つまり、グリーンの影の中に漂うブルーの睡蓮のみが、モネには見えていたのです。そんな画家として、致命的なハンディーにもかかわらず、死んだ長男の妻、ブロンシュの世話を受けながら、絵筆を握り続けました。 モネは睡蓮を描くために生き続け、生き続けるために睡蓮はいつまでも未完のままだったのです。いいかえれば、ここに描かれたブルーの睡蓮は、モネにとって最後の光であり希望でした。

モネの死とオランジュリー開館
最後に、モネの死と、オランジュリー開館の日の出来事について触れておきたいと思います。モネが亡くなった1926年の秋、クレモンソーはジヴェルニーのモネの家を何度も訪れて、日本のユリを庭に植える話をしたそうです。しかし、11月に入ってから肺の悪性腫瘍のために動けなくなり、ベッドに寝たきりになってしまいました。
12月2日、モネの義理の娘ブロンシュから電報を受けたクレモンソーは、早速ジヴェルニーに駆けつけましたが、そのとき、元医者だったクレモンソーは友人の死を覚悟したうえで、パリに戻ったようです。そして、12月5日、危篤の知らせを受けたクレモンソーがまた車でやってきました。寝室に通された彼はモネの手を取って、「苦しいかい」と尋ねました。モネは弱々しいこえで「ノン」と答えました。そして、その数分後にモネは静かに息を引き取りました。
他界する前に、モネはクレモンソーに次のような遺言を残しました。「私を真面目な男として埋葬してほしい。あなたと私の家族だけ、棺の後をついてきてくれれば良い。友人たちには、葬式で悲しい顔をしてほしくないから。特に、花も花輪もいらないことを忘れないでほしい。それは無意味な名誉だから。それに、葬儀の名目で、私の庭の花が犠牲になることは、全く冒涜以外の何ものでもありません。」
モネの葬儀は3日後の12月8日の水曜日、10時半から始まりました。人垣を掻き分けて家に入ってきたクレモンソーは、棺を覆っていた黒い布を見て「ノン、ノン、モネに黒はいけません。黒は色ではありませんから」と言いました。すぐにモネの家でアイロン係として働いていた女性の娘さんが、花柄の布地を探し出して棺にかけられました。その布地の色は、少し紫がかったブルーだったということです。それは陽光の中で輝く睡蓮池の色でした。

モネの葬儀

葬儀は故人の意思によって、名士や有力者の演説も、花輪もなく、棺は教会にも通されず、ただ村の墓地で埋葬するだけの簡素なものでした。生涯、国からの名誉も勲章も辞退して、一貫して硬直したアカデミズムに反抗し続けたモネらしい最後と言えるでしょう。
葬儀の列は、庭を下がって川沿いのロイ通りに出て、そこからゆっくりと丘の中腹にある村の教会の墓地へと向かいました。葬儀の先頭は村の村長さんで、棺を載せた車は、村の4人の男性が押してくれました。葬儀の列の中で、クレモンソーは手袋をはめたまま、最初はモネが愛した義理の娘ブロンシュの横をしばらく歩いていましたが、疲れてしまって後ろのほうに下がり、医師のロビエールの腕に寄りかかりながらしばらく歩きました。でも力が尽きた彼は、運転手を呼び寄せて墓地まで行くように命じました。
墓地は教会の横にあります。教会を道から見上げると、モネ家のお墓は教会の右側にあります。そのお墓には、すでに妻のアリス、アリスの娘のスザンヌ、それにアリスの最初の夫のエルネスト・オシュデが葬られていました。モネの棺が墓に下ろされたときは、クレモンソーは誰からも支えられずに、一人で立ったままモネに無言で最後の別れを告げました。

オランジュリー美術館を視察するクレモンソー

2年前にその教会を訪問した時、教会内に、モネが幼児洗礼を受けたパリのノートル・ダム・ドウ・ローレット教会にあったのと同じ、幼子イエスを抱くパドヴァのアントニオの像が目に飛びんできました。無神論者だったモネですが、この像が、彼が生まれた時から、モネ家の結婚式や葬儀を見守ることになるとは、誰一人として予想しなかったことでしょう。
葬式が終わるとクレモンソーは、年末にもかかわらず、故人の遺志を尊重して、遺作の「睡蓮池」のパリへの搬送作業に取り掛かりました。作品はいったんルーヴルに運び込まれて写真撮影され、翌年早々、オランジュリーの壁に取り付ける作業が始まりました。
オランジュリーが開館されたのは、モネの死後5ヶ月後の1927年5月16日でした。その前日、美術庁長官ポール・レオンに付き添われてやってきたクレモンソーは、内部を視察して深く感動し、「素晴らしい」と声を上げました。しかしその後、お付の人達に外で待つように指示して、たった一人で館内に残りました。クレモンソーが一人で何をしたのかは誰も知りません。しかし、親友の睡蓮画に取り囲まれながら、睡蓮池のほとりでモネと語り合った日々のことを思い起こしていたのでしょう。

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