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美術史家・森 耕治の欧州美術史論 Vol.3
マリ・アントワネットの画家ヴィジェ・ルブラン

2019年10月、東京芸術劇場(豊島区・池袋)で、19世紀のフランスの女流画家ヴィジェ・ルブランについて講演させていただく機会がありましたが、その時に講演した内容の中で、特に印象深かったのが女流画家ヴィジェ・ルブランの存在です。そこで今回、彼女とそのパトロンだったマリ・アントワネットに焦点を当てることとしました。
共に1755年生まれ(ルブランの方が半年ほど早生まれ)の二人の女性の人生は、フランス大革命という激動期に、バラのように華麗に咲き、そして散っていくこととなりました。ここではルブランの作品を通して、二人の女性の生きざまに触れてみたいと思います。

(本稿は、フランス語をはじめとするベルギー語圏の発音に基づいています。一部の固有名詞は日本語と異なる場合がありますので、ご了承ください)

革命に生きた二人の女性
まずマリ・アントワネットは、漫画「ベルサイユのばら」が生まれた日本だけでなく、世界中で最も人気のある女性王侯貴族の一人と言えます。実際、もう1世紀半前から共和国になっているフランスでも依然根強い人気を持っています。しかし、この女王がここまで人気を持つに至ったのは、決して生前の「生きた優雅」とでもいうべき華麗さや、革命中にギロチン台に消えたという悲劇性だけでは説明できません。
大革命までは「赤字の女王」とか「淫買婦」とか呼ばれ、フランスで最も忌み嫌われた女性だったにもかかわらず、彼女は人生最後のたった4年間の言動によって、女性として、また母としての尊厳を誇り高く見せてくれました。また、マリ・アントワネットの人気の理由の一つに、スウェーデンのアクセル・ドウ・フェルゼン伯爵との命がけの愛にも忘れられません。言いかえれば、彼女は革命後のすべてを失った極限状態の4年間に見せた愛と勇気によって、世界中から愛され続ける王妃に生まれ変わったのです。
一方のヴィジェ・ルブランは、プロの画家はほぼ100パーセント男性というご時世にあって、女性ながらジャン・オノレ・フラゴナールと共に18世紀を代表する画家にまで上り詰め、フランスの美術史に大きな足跡を残しました。さらに王妃マリ・アントワネットひいきのトップ・ペインターの地位を得た天才です。しかし革命によって国を追われ、12年もの間、娘と一緒に亡命を余儀なくされました。彼女もまた革命の波に翻弄された女性であり母親だったのです。

「詩のアレゴリー」1774

「詩のアレゴリー」は、ルブランがたった19歳の時に発表した、事実上のデビュー作です。制作時のタイトルは「絵画、詩、音楽のアレゴリー」という3連画であったようですが、現存して、かつ真作と断定できるのは、この「詩のアレゴリー」だけです。
ビロードの椅子に寝そべる女性は、左手の肘を低い柱の上につき、半裸の上半身をひねりながら起こしています。右手にはガチョウの羽ペンを持ち、空を見上げながら、天から与えられる霊感を受けているところです。
この絵には、彼女が模範とした過去の巨匠の影響が何重にも重なって見えます。その豊満な胸と腰、それに真珠のような肌は、ルブランがお手本としたルーベンスを彷彿とさせます。また。S字型にひねった裸体は、コレッジュの名作「ビーナスとキューピドンを見つけたサテュロス」(ルーヴル美術館所蔵)がそのアイデアの源かもしれません。また空を見上げてインスピレーションを得るコンセプトは、ニコラ・プッサンの代表作「詩人の霊感」(ルーブル美術館所蔵)と同じです。
ルブランのデビュー
1774年、パリのクレリー通りにあったルブランのアトリエが、裁判所の執行吏によって封印されてしまいました。当時、フランスには各都市に画家組合、つまりギルドがあって、その許可なく画家として作品を売ることは違法行為とされていました。しかしその頃ルブランは、まだギルドには所属していなかったのです。
自活せざるをえなかった彼女は、早速ギルドへの加盟を望みました。しかし前述のとおり、当時の美術業界はほぼ完全な男社会であり、女性がギルドのメンバーになることは決して容易なことではありませんでした。
ところが19歳のルブランは「絵画、詩、音楽のアレゴリー」の3連画を提出して、見事パリの画家組合アカデミー・サン・リュックに加盟が認められたのです。彼女のアカデミー加盟は、仏美術史上、女性進出の輝かしい業績の一つと言えます。
またこのアカデミーは、ルイ14世の宮廷画家だったもう一人のルブラン、シャルル・ルブランによって創設されたことも、歴史の偶然とはいえ興味深いことです。

バラを持つ宮中盛装姿のマリ・アントワネット

「バラを持つ宮中盛装姿のマリ・アントワネット」は、マリ・アントワネットが、ウィーンの母君、マリア・テレジア女皇のリクエストに答える形で、ヴィジェ・ルブランに初めて注文した作品です。ルブランにとって最初の女王の肖像画のために、まだ固いところがありますが、伝統的な王侯貴族の肖像画の規範から離れて、女王の肖像画を女性美のために「理想化」した跡がうかがえます。もちろん、画面右端のテーブル上に、バラの花と一緒に、さりげなく冠を描き加えることで、女王の肖像画であることも、明確に示されています。
その努力の跡をたどってみましょう。まず注目して欲しいのが、マリ・アントワネットの視線が向かって左の画面の外に向かっており、観客の方を向いていないことです。これによって、パニエールと呼ばれる風船のように膨らませたサテンのスカートが持つ堅苦しい雰囲気を緩和しています。同時に、顔を少し斜めにとらえることで、頬の女性らしいふくらみが表現しやすくなっています。
また伝統的な肖像画では、女王は胸を張って威厳のある姿勢を取るのが普通なのですが、ここでは、ルブランは、女王にやや前かがみの姿勢を取らせて、ソフトな印象をかもし出そうとしています。それに、右手にバラの花を持たせることで、純白の手の美しさを示すと同時に、自然を愛した女王のイメージアップに貢献しています。
次にマリ・アントワネットの顔です。ここはかなり修正が加えられています。いまと違ってマスコミによって写真が出回る時代ではありませんから、比較するものがありません。整形手術のようにかなり大胆な修正が施されています。ただし、この絵を製作する4年前に、スウェーデン出身のアドルフ・ユーリック・ウェルトミュラーという画家が、女王の肖像画を伝統的な手法で描いていました。これと比較すれば「整形手術」の痕跡がよくわかります。

まず、目に注目してください。ウェルトミュラーの作品よりも、ルブランのほうが女王の目が知的で何かを言いたげな感じです。当然のことですが、肖像画の決め手は瞳です。それにルブンは、女王の知的でブルーの瞳の美しさに注目して、それを強調しようとしたのでしょう。次にアゴですが、ウェルトミュラーの作品では、下にやや出っ張っていたのを、ルブランは丸くて可愛いあごに修正して、頬にもデリケートなふくらみを持たせました。
眉毛も、ルブランは薄めに、かつ短い目に描いて、女王のブルーの瞳に見る者の視線が向くように工夫しています。また髪形も、ルブランはやや簡素で頭の上で軽そうなスタイルを選んで、女王の顔がより自然に表されるようにしています。
最後に光線の角度に注目してください。ウェルトミュラーの作品では、人物に当たる光の角度が全く不明ですが、ルブランの作品では、画面左上から差し込む光線によって、より自然な雰囲気を生みだし、女王の輝く肌をより一層引き立てています。
このように、ルブランは、女王の肖像画に「整形手術的修正」を大胆に実行し、天才的な才能に加えることで、現代のスタイリストのように、女王の服装からヘアスタイルまで進言したうえで、イメージチェンジに成功したが故に、女王の肖像画家としての名声を得たのです。また、当時は女性である=プロの画家として社会に進出できないという負の要素を、女性だからこそ女王のドレスや髪型に触れられるという利点として生かしたルブランの才覚には敬服します。
ルブランの回想
ヴィジェ・ルブランが初めて宮中でマリ・アントワネットの肖像画を描いたのは、1779年でした。その時の様子について、ルブランは回想録の第5章で以下のように書き残しています。

親愛なる友へ
1779年に私は初めて女王の肖像画を描きました。アントワネットは、その時若さと美貌で輝いて見えました。彼女は体が大きいうえに、よく発達していて、過剰でない程度に肉付きもよい身体でした。腕は素晴らしく美しく、手は小さくて完璧な形の上に、かわいい脚を持っていました。(中略)
彼女の眼鼻は決して対称的ではなく、オーストリア人ゆずりの長い楕円形の顔立ちでした。眼は決して大きくないのですが、ほとんどブルーで、その目つきは知的で優しさに満ちていました。また細くて美しい鼻を持っていて、口は大きくないものの、唇はやや強い感じでした。でも、最も特徴的なことは、その顔の輝きでした。私はあれほど輝く顔を見たことがありませんでした。でも、輝くとは語弊のある言葉です。なぜなら、彼女の顔はまるで影が存在しないかのように、透き通って見えたからです。 このみずみずしい肌を表現できる色は存在せず、実物のような効果を出すのは不可能でした。この顔の繊細な色は、他の女性には見かけられず、女王の顔のみに表れていました。
最初に描いた時は、女王の威厳のある雰囲気に完全に圧倒されてしまいました。でも女王の親切さと優雅さ、それに優しさに満ちたお話を聞いて、緊張がほぐれてしまいました。そして、女王がバラを片手で持って、サテンのドレスに「パニエール」のスカートをはいた肖像画が描けたのです。
この絵は、女王の兄の皇帝ヨーゼフ2世に贈られました。女王はそれ以外にコピーを2枚注文されました。1枚はロシアの女皇に、もう一枚はベルサイユかフォンテンヌブロー城のアパートに飾られたはずです。

実際には、この肖像画はウィーンの母君マリア・テレジア女皇が受け取ったようです。1779年4月にマリ・テレーズはマリア・テレジアに「あなたの大きな肖像画を受け取って大変うれしいです。輪郭線がよく似ています。でも顔がきちんと描かれていれば十分だし、とても満足です。」と記しています。長年会ったことのない母君に、実物よりも綺麗な肖像画は大成功だったようです。

 

「平和の女神が豊穣の女神を連れ戻す」

「平和の女神が豊穣の女神を連れ戻す」は、ヴィジェ・ルブランが1780年に制作して、3年後に、この絵によって、彼女が王立絵画彫刻アカデミーに入会が認められた作品です。同じ年に開かれたサロンと呼ばれた官展にも出展されました。向かって右が「平和の女神」で、左が「豊穣の女神」です。また、ふたりの女神を別々に描いた習作も現存します。
画面概略
右側のブルーのマントを羽織った「平和の女神」は、月桂樹の冠をかぶって、左手で「豊穣の女神」の腕を握り、右手で彼女の裸の肩を抱いています。この女神のイメージは、ローマ神話に登場する平和の女神パックスで、ジュピターと正義の女神ユースティティアの間にもうけられたホーライ三姉妹の一人エイレーネーと同一視されます。
この女神のイメージが、17世紀フランスを代表する画家の一人シモン・ヴェの作品で、ルーブル所蔵の「富への軽蔑と信仰のアレゴリー」(旧タイトル「豊かさのアレゴリー」)に酷似している感は否めません。
彼女が「豊穣の女神」の右肩を抱く手には、平和の寓意であるオリーブの葉が握られています。そして「平和の女神」のマントは風になびき、「豊穣の女神」を連れて空を飛んでいるような情景が描かれています。「平和の女神」が勝利のシンボルである月桂冠の冠をかぶっているのは、平和は「戦った後の勝利によってもたらされる」という意味なのでしょう。
連れられて飛ぶ「豊穣の女神」は、一般にはケレスと呼ばれます。彼女は「平和の女神」の顔をずっと見つめて、相手の視線と美しく交差しています。このような仕草を取らせる点が、ルブランの演出力と言えるでしょう。
また小柄で純白の肌を持ち、乳房はお椀型という身体は、17世紀の古典主義からロココ美術の典型的なフランスの女神像です。彼女は、束ねた髪の毛にバラやひなげしに麦をかんざしのように刺しています。ひなげしは、フランスでは、5月から6月にかけて麦畑に咲く花です。
また彼女の着る黄金色のドレスは、イエローオーカーとシルバーホワイトを見事に混ぜ合わせて黄金色が得られています。ルブランが、レベルの高い彩色技術を、アカデミーのメンバーに見せつけたと想像できます。
そして、彼女は左手で麦の穂と小さな花を握り、右手で抱える山羊の大きな角からは、ブドウにリンゴ、桃といった果物と花々が地面にこぼれ落ちています。
寓意図鑑、イコノロジアとの関連性
「豊穣の女神」のイメージは、17世紀から多くの巨匠たちが参考にした「寓意図鑑」(原題ICONOLOGIA)の第一章の記載が、直接的または間接的に、ルブランにこの絵のアイデアを与えたものと考えられます。この本は1593年にイタリアの図像学者セザレ・リパによって執筆され、1643年には仏語訳が出版されています。その仏語版の「豊穣」の部分を以下に抜粋しました。
「この顔色の良い女性は、いくつもの花から成る冠をかぶり、金の刺繍のついたグリーンのドレスに身を包んでいる。左手には、アマルティアと呼ばれる山羊の角を持っている。その角には、果物がいっぱい詰められていて、地面にこぼれ落ちている。左手には異なる種類の麦の穂と野菜が握られている。」
このように、ルブランは単に絵が描けるだけでなく、古典にも精通した女性だったのです。
この絵の歴史的背景
ところで、この作品が王立アカデミーに提出されて、サロンに展示されたのは1783年の春と考えられますが、その年は、1775年から始まったアメリカ独立戦争が終結し、9月3日のパリ条約によってアメリカが独立した年です。
フランスは1778年から正式に合衆国側について参戦していました。また、正式参戦を表明する前に、自らアメリカにわたって合衆国軍に加わり、前線で負傷したフランスの青年貴族ラファイエットのエピソードは有名です。
作品の制作年は1780年ですから、戦局はまだ予断を許さない状況でした。それにもかかわらず、すでにルブランは戦争の勝利と平和を信じて絵を制作していたことになります。そして、1830年9月のパリ条約締結の前に、フランスの参戦によってアメリカが勝利を得たことが誰にでもわかるように、それをアレゴリーで描いた、時勢をわきまえた制作態度には脱帽です。ただし、そこには深刻な財政難にもかかわらず、アメリカ遠征を正当化したかった国王ルイ16世の意向が反映されていたであろうと容易に想像できます。

「ポリニャック公爵夫人の肖像画」

「ポリニャック公爵夫人の肖像画」は大革命の7年前に描かれた、ベルサイユで最も美しく、そして最も憎まれた女性であり、マリ・アントワネットの子供たちの養育係であったポリニャック公爵夫人の肖像画です。漫画「ベルサイユのばら」には、マリ・アントワネットを意のままに操る悪女のように描かれています。でも、美しすぎたがゆえに、そして控えめで、機転がきいたために王妃の寵愛を受けてしまい、ベルサイユ中から嫉妬の集中砲火を浴びたこの女性には、むしろ同情すべき点もあるように思います。
同情したのは私だけではありません。この絵を描いたルブランも、回想録で次のよう書いています。「ポリニャック夫人は、非常に若く見え、彼女の娘さんのお姉さんと言っても信じる人がいたことでしょう。」「ポリニャック夫人には素晴らしい美貌と、天使のような優しさに加えて、確固として同時に魅惑的なエスプリを兼ね備えていました。」
ところで、この作品を見ると、まず気になることは、同じ年に制作されたルブランの自画像との驚くべき類似性です。2点を並べて鑑賞すれば、まるで双子の姉妹が向かい合っているかのような錯覚に陥るはずです。違う点は、鏡に映っているように、ちょうど左右が逆になっていることと、ルブランはパレットと絵筆を握っていることくらいです。言い換えれば、ルブラン自身、ポリニャック夫人並みに美しかったと言えます。

しかも、彼女の自画像自体が、17世紀のフランダースの巨匠ルーベンスの有名な女性肖像画「ワラ帽子」にコンセプトが酷似していることも興味深い点です。「ワラ帽子」のモデルは、ルーベンスの2番目の妻、ヘレンヌ・フールメントのお姉さんのスザンヌ・フールメンの肖像画であるというのが通説になっています。

ルーベンスの「ワラ帽子」と自画像との類似性は、決して偶然ではありません。ルブランは前年の1781年にブリュッセルに旅行した際に、ルーベンスの作品を見る機会に恵まれて、青空を背景にしてパレットを持つ明るい自画像を制作しました。
これは私の勝手な想像ですが、ルブランは、ポリニャック夫人に自分の自画像をいわば見本として見せたうえ、帽子をかぶった夫人を、青空を背景にして、光に満ちた空間に描きだすことを提案したのでしょう。このような肖像画のコンセプトは、威厳はあっても、まるで室内に置かれた彫刻のような肖像画が主流であった当時、大変斬新なアイデアであったと言えます。
画面概略
青空を背景に立つポリニャック夫人は、向かって左の柱に右腕を乗せ、右手に持った花が左手に重なっています。そして野の花とフォレットと呼ばれる大きな羽根のついた麦わら帽子をかぶり、やや口を開いて歯を見せるルブラン風のポーズを取っています。この帽子は「庭師風」とか「羊飼い風」と呼ばれています。
帽子のうすいブルーのリボンは、後ろ側で結ばれて、そのリボンの端が肩の上にのぞいているという心憎い演技もなされています。また帽子前面に付けられた赤い花は、全体的に青い画面上で、大変効果的なコントラストとなっています。
彼女の耳に注目すると、当時流行していたクレオルという名のリング状のイヤリングをつけています。また、白いモスリンの大変セクシーなロブ・シュミーズと呼ばれるドレスを着ています。これは決して宮廷内で着て歩くドレスではありません。当時としては最大限に胸元をデコルテして、胸の下をブルーのストライプのついた帯で絞ってバストを強調しています。またエリには大変大きなヴォロンと呼ばれる半透明の飾りが付けられ、胸元で蝶々結びしたリボンと一緒になって、透き通るような肌を色っぽく引き立てています。
また黒い薄い生地のコートを肩掛けのように羽織り、それを左の肘までずらしたポーズは、ルブランのスタイリストとしての才能を示しています。
ポリニャック夫人について
ここでポリニャック夫人について、もう少し触れてみましょう。ポリニャック夫人はマリ・アントワネットより6歳年上で、1767年に若干17歳で結婚しています。しかしパートナーのジュール・ポール伯爵は陸軍のキャピテンで、年給はたったの4000リーブルにすぎませんでした。
しかし1775年、夫婦でベルサイユの舞踏会に招かれたことで、彼女の人生は一変することとなります。彼女の美貌と才知に惹かれたマリ・アントワネットの計らいで、夫婦ともにベルサイユで暮らすこととなったのです。当時、夫妻の負債はなんと年収の100倍の借金を抱えていたため、いったんは王妃の依頼を断りましたが、王妃は国庫から金を出させて、ポリニャック夫妻の借金を全部帳消しにして、彼らをベルサイユに引っ越しさせたのです。
そしてベルサイユで初めて出会ってからわずか5年後、夫のポリニャックは伯爵から公爵に出世しました。そしてポリニャック一家は家族全員で、年に約50万リーヴルという巨額の報酬を得るまでにのし上がっていました。大革命当時は、フランス王国の予算は4億7160万リーブルでしたから、ポリニャック一家だけで、国家予算の約0.01パーセントもの収入を得ていたことになります。大革命時に憎悪の対象となったポリニャック夫人ですが、そこにはこうした理由もあったのです。
さらに1782年には、ポリニャック公爵夫人は、マリ・アントワネットより子供たちの養育係という宮中で極めて重要なポストに付けられました。
当時、ポリニャック夫人はベルサイユ宮殿で13室あるアパートを与えられました。前任者のマダム・ドゥ・ゲメネは4部屋のみでしたから、王妃のポリニャック夫人への寵愛ぶりが伺えます。
ルブランは、回想録に、ある日、健康を理由にポリニャック夫人が辞意を表した際に、ルイ16世が彼女の前にひざまずいて慰留したと書いています。
それほどまでに王家に愛された絶世の美女でしたが、バスティーユ陥落後2日後に亡命を余儀なくされ、1793年12月9日、亡命先のウィーンで、44歳の若さで病死しました。彼女を寵愛したマリ・アントワネットがギロチンにかけられたわずか2カ月後のことでした。

マダム・デュ・バリーの肖像画

ルイ15世の最後の寵姫なったのが、この肖像画のモデルであるマダム・デュ・バリーです。ルブランが描いたマダム・デュ・バリーの肖像画は3点現存します。この肖像画は1点目ですが、ルブランは制作年を1786年と回想録に記しています。しかし、多くの歴史家が実際の制作年を1781年と見做しています。なぜルブランが制作年を5年も遅らせて書いたのか、その理由は後で説明しましょう。
また1点目と2点目が完成作で、3点目は、完成前にルブランが亡命したため未完のままになってしまいました。でも2点目は、ルブランが知らない間に、何者かによって顔が全面的に加筆されてしまったために原作とは全く違ったものになってしまいました。結局、完全な形で残った完成作はこのモスリン・ドレスを着て、麦わら帽子をかぶったこの作品だけです。
ところで、若くしてフランスに嫁がされたマリ・アントワネットは、マダム・デュ・バリーを毛嫌いしていました。当然ルブランは、マダム・デュ・バリーの肖像画を描いたことは隠していたはずです。
でも、実際にこの肖像画を注文したのは、マダム・デュ・バリー本人でなければ、昔の愛人ルイ15世でもなく、彼女の新しい愛人バリサック公爵でした。
マダム・デュ・バリーは、ルイ15世が死去した直後、彼女を憎んでいたマリ・アントワネットによって、彼女はパリ郊外の修道院に無理やり送られてしまいました。でも、一年後に釈放されて、さらに翌年の1776年に、ルイ15世にプレゼントされたルーブシエンヌに戻ることが許されていました。
過去の寵姫が、国王の死後は大抵修道院送りなるのが普通だったことを考えると、たった一年で修道院から出て、早期に昔の居城に戻れたのは大変運がよかったといえます。
しかしマダム・デュ・バリーであっても、革命後、ルイ15世が処刑された同じ年の12月に、同じギロチン台に上ることになるとは想像できなかったでしょう。
制作時の思い出を、描いたルブランが回想録の第10章に綴っています。

1786年に初めてルーヴシエンヌに行って、マダム・デュ・バリーの肖像画を描きました。そこで制作すると約束していたのです。このかつての寵姫のことは頻繁に聞いていたので、彼女と出会うことには大変な関心がありました。マダム・デュ・バリーはおよそ45歳でした。(中略)
彼女は大きすぎない程度に大きく、やや太り気味でした。のどがやや大きかったのですが、大変な美女でした。お顔にはまだ美貌が残ったままで、くっきりして優雅な顔立ちでした。髪の毛はシルバーがかった灰色で、子供のように天然パーマがかかっていました。顔色だけが悪くなっていました。

この最後の「顔色だけが悪くなっていました」に私は注目します。ルブランが2度目に描いた肖像画が、後に何者かによって顔の部分のみが大幅に描きなおされて、特に頬に過剰な頬紅が塗られているのは、彼女の顔色の悪さを隠すためだったのではないでしょうか。
それでは、肖像画に注目してください。マダム・デュ・バリーは体を4分の3ほど右にひねって、顔を正面に向けて、ややうつろな表情でほほ笑んでいます。過去の栄光を思い出すような眼差しです。
明るくてシルバーの長い髪の毛は、後ろで大きなリボンで束ねられて、大きな麦わら帽子には、大きなライトブルーの羽飾りがつけられています。彼女は半透明のヒラヒラのついたエリのついた白いモスリン・ドレスを着て、胸元は大きなブルーのリボンで被われています。ルブランの回想録によれば、マダム・デュ・バリーは、当時、ロブ・ペニュワールと呼ばれる長い部屋着と、白いモスリン・ドレスばかり着て生活していたようです。
ところで、この白いモスリン・ドレスと麦わら帽子をかぶって、右に体を4分の3ほど向けたポーズと構図に見覚えがあります。1783年にルブランが描いた「ゴール姿のマリ・アントワネット」です。マリ・アントワネットがバラをもっている点と、マダム・デュ・バリーの胸元がブルーのリボンで被われている点を除いては、構図もモデルのポーズも、絵そのもののコンセプトも、酷似しています。
その上、両者がかぶっている麦わら帽子は、まったく同一のもののようです。この仮定が正しければ、この麦わら帽子は、ルブランが持ち込んで、両者にかぶらせたことになります。でも、王妃はマダム・デュ・バリーを憎んでいましたから、間違っても、マダム・デュ・バリーの肖像画が王妃の肖像画のひな型になったことは王妃の死後であっても言えなかったのでしょう。
ましてや、マダム・デュ・バリーに一回でもかぶせた麦わら帽子を王妃にかぶせて肖像画を描いたことは、絶対に秘密にしたかったはずです。そのために、マダム・デュ・バリーの肖像画の制作年を意図的に5年も遅い1786年と回想録に書いて、王妃にとって屈辱的な事実を隠蔽したのです。
マリ・アントワネットの一言事件
さて、マダム・デュ・バリーとマリ・アントワネットの確執について述べれば、避けて通れないのが「マリ・アントワネットの一言事件」です。
マリ・アントワネットがフランス王家に嫁がされた理由の一つに、祖国オーストリアが宿敵プロシアと対抗するために、プロシアの敵であるフランス王国と同盟を組むという目的がありました。つまり敵の敵は味方というわけです。
しかも、17世紀の前半にいったんはポーランド国王となったスタニスラス一世は、ルイ15世の王妃マリ・レクザンスカの父親でした。つまり、ルイ15世はポーランド国王の義理の息子であって、当然ポーランド国王の継承問題に口をはさむ権利がありました。そして実際に1734年には、フランス軍と、ポーランド支配を目指すロシアの間で、ポーランド領内で戦闘がありました。でも結局スタニスラスはポーランド国王には返り咲けませんでした。
そして、スタニスラスは王位を放棄する代償として、当時は真正ローマ帝国の一部だったロレンヌ公国を一代限りの条件で与えられました。ロレンヌ公国は、スタニスラスの死後、正式にフランス王国に編入されました。
そして、ロシアとプロシアは、消極的なオーストリアを巻き込んで、着々とポーランド分割の準備を整えていました。
ロレンヌ地方第二の都市ナンシーの中心部にあって、ユネスコの世界遺産になっている美しい広場「スタニスラス広場」は、スタニスラス公が建設させたものです。
マリ・アントワネットの輿入れは、オーストリアにとっては、ただでさえデリケートなポーランド分割問題に、フランスがこれ以上干渉しないようにという一種の保証だったのです。
そんな外交上の大役を背負っていることも理解できずに、たった15歳の若さでフランスの皇太子のもとに嫁がされたマリ・アントワネットは、出生も定かでない、平民上がりのマダム・デュ・バリーをとことん軽蔑していました。当時は、位の高い女性は、自分より身分の低い女性には言葉をかける義務がありませんでした。また、身分の低い女性は、身分が上の女性に勝手に言葉をかけることは許されていませんでした。マリ・アントワネットはルイ15世の妹たち、つまり叔母さんたちを除いては上がいない立場ですから、当然軽蔑しているマダム・デュ・バリーには一言の挨拶さえしないでいました。
ところがマダム・デュ・バリーは黙っていませんでした。王にクレームをつけ、王も愛人に押されてとうとうマリ・アントワネットの冷淡な態度を「礼を欠く」とか「侮辱的」とか言って圧力を加えました。でもマリ・アントワネットがいっこうに態度を改めようとしないために、とうとうルイ15世はオーストリア大使を呼び出して威嚇するありさまでした。マリ・アントワネットとマダム・デュ・バリーの戦いは、とうとう外交問題にまで発展したのです。強情なマリ・アントワネットも、さすがに自分の夫のお妾さんへの態度が、両国の外交問題に発展するのは恐れて、ルイ15世とオーストリア大使メルシーの前で、トランプ遊びの後でバリー夫人に声をかけてやると約束しました。
しかし、もともとマリ・アントワネットにやる気がなかったうえに、意地悪な叔母様方の計略のために、この計画は水の泡となりました。
この失敗は直ちに大使によってウィーンに報告されました。この問題が大きな外交問題に発展して、ひいてはポーランド分割問題へのフランスの新たな介入を引き起こすことを恐れた女帝マリア・テレジアは、娘のマリ・アントワネットに非常に厳しい手紙を送って「デュ・バリー夫人を、王のお仲間入りを許され他のご婦人方たちと同様に見なさなければなりません」と警告しました。
そして年が明けて1772年の宮殿の新年式の席で、マリ・アントワネットはたった一言、デュ・バリー夫人に向かって《Il y a bien du monde aujourd’hui à Versailles》.「今日はベルサイユは大変な人ですね」といいました。この一言は、マリ・アントワネットにとっては敗北でしたが、歴史的には、オーストリアが、ポーランド分割問題に対するフランスの沈黙を勝ち取ったとみなされています。
王様のお妾さんを馬鹿にすると、大国間の戦争になりかねないという、恐ろしいようなバカげた史実です。

「ゴール姿のマリ・アントワネット」

「ゴール姿のマリ・アントワネット」

ヴィジェ・ルブランが宮中盛装姿マリ・アントワネットの最初の肖像画を描いてから5年後の1783年、彼女はただの部屋着姿のマリ・アントワネットを描きました。仏語タイトルのゴールとは、現在では死語になっていて辞書にも出てきませんが。当時のモスリンの安い部屋着、または召使の着るドレスでした。いまなら、むしろ少し色っぽい夏物ドレスといった感じです。意訳すれば「部屋着姿のマリ・アントワネット」になります。
画面に注目してみましょう。画中のマリ・アントワネットは、帽子のリボンと同じ生地でバラの花を束ねて、微笑みをうかべながら観客の方を見つめています。
当時の貴婦人の着た、コルセットの上の窮屈なシルクのドレスと違って、ずいぶんゆったりとしていて、適度にデコルテされ、ウエストの周りを、半透明の長いマフラーのようなもので巻いてベルト代わりにしています。宝石類は見当たりません。天気が良ければ、このまま散歩着として使えそうです。もしかすると、実際にマリ・アントワネットは、彼女が愛したベルサイユの奥に建てられた小トリアノンか、アモーと呼ばれる田舎家で、こんなドレスで気兼ねせずに散歩していたかもしれません。
おまけに女王がかぶっている大きな帽子は、一種の麦わら帽で、大きなブルーのリボンと、同じ布地で作られた大きくて高い飾りがついています。
また、他のマリ・アントワネットの肖像画で見られるような、長い髪の毛を頭の上に積み重ねたロココ風ヘアスタイルはせずに、左右ほぼ均等に分けた髪の毛を、背中に垂らしています。また。その髪の毛の一部が、肩の白い素肌にかかっているのがとても自然で色っぽく感じられます。
モスリン・ドレスにバラ、麦わら帽に素朴なヘアスタイル。さらに、当時「粉」と呼ばれていた真っ白いパウダーを顔に付けずに、素顔のままのようです。パウダーをつけないために、女王の頬はうっすらとピンク色に輝いて見えます。この一連の演出は、ヴィジェ・ルブランのアイデアに違いありません。特におしろいとヘアスタイルに関しては、ヴィジェ・ルブランが回想録に「私は王妃におしろいをつけずに、髪の毛を額の前で分けるように懇願しました。」と書いています。
ただし、女王を飾り気のない、素朴な美女として描いたのは、すべてヴィジェ・ルブランのアイデアというわけではありません。当時、マリ・アントワネットは豪華な衣装や、宝石類に国の金を湯水のように浪費する女王として、庶民の目のかたきになっていました。その非難を和らげる政治的目的のために、この絵は1783年の官展に出展されました。
ところが、結果は正反対でした。王侯貴族や大商人たちは、女王がシルクのドレスを着ていないことで。「フランスのシルク産業を滅ぼす」とか、当時オーストリア領になっていたフランダース地方の毛織物業者を喜ばす行い」とか言って非難を浴びせかけました。表現の自由など存在しなかった時代の話です。
恐らく宮廷からも、ルブランに「描きなおせないか」とプレッシャーがかったことでしょう。そこで極めて迅速に対処したところがルブランの偉いところです。同じ構図で、シルクの豪華なドレスを着せて、ネックレスを付け、豪華な帽子もかぶったバージョンを官展の期間中に完成させて、それで、みごとに入れ替えて、世間の批判を避けたのです。2番目の豪華なドレス姿のバージョンは「バラのマリ・アントワネット」と呼ばれて、今でもベルサイユ宮殿が所有しています。
ところで、ルブランは、マリ・アントワネットに豪華な衣装を着せた不本意なバージョンを制作しても、背景を宮殿内ではなく、小トリアノンの木立とバラ園に代えて、精いっぱいの抵抗を示した跡がうかがえます。
みなさんは、どちらのバージョンがお好きでしょうか。

「弟子二人とアトリエにいる画家」

本作はルブランと一緒に革命前のパリで一世を風靡した女流画家アデライド・ラビーユ・ギアールとその二人の生徒の自画像です。この絵の制作2年前に、ルブランと6歳年上のアデライドは、同時にロイヤル・アカデミーのメンバーとして認められました。いわばルブランにとっては同僚であり、ライバルの一人でした。
アデライデのお父さんはパリ1区のフェロンヌリ通りにファッションのブティック「ア・ラ・トワレット」を持っていました。ルイ15世の愛人だったマダム・デュ・バリーは若い時にこのブティックにお針子さんとして働いていました。ルブランは、そのマダム・デュ・バリーの肖像画も描いています。二人の女性画家は「世間は狭いですねー」とロイヤル・アカデミーで言ったことでしょう。
画面概略
制作時にはアデライドは36歳でしたが、非常に美しく、かつ華麗に描かれています。でも顔を注意してみると、やや眠たそうな表情で、あえて若く描こうとした形跡がありません。こういう点は、リアリストとして評判だったアデライドの特徴の一つで、修正と演出が得意だったルブランとは異なっています。
彼女はシルバーに輝くシルクのデコルテ・ドレスに身を包み、薄暗い背景から浮かび上がっています。胸元の大きなリボンは左手で持ったパレット上に垂れています。リボンが汚れないか気になります。長いドレスは床を覆い、歩くときは召使に裾を持ってもらう必要があります。
大きな羽帽子には、ドレスと同じ記事のリボンが結んであります。
また画面左に描かれた、画面からはみ出した大きなキャンバスとイーゼルによって、絵が小さくなることを防いでいます。
大きな羽帽子には、ドレスと同じ記事のリボンが結んであります。
背後の手前の生徒は、ほほえみを浮かべながら先生の絵に見入っています。後ろに半分隠れた生徒は、そのふっくらとした頬っぺたと、特徴的な眉毛から、のちに新・古典主義作家として有名になったマリ・ガブリエル・カぺと思われます。カぺの自画像は、上野の国立西洋美術館にも所蔵されています。
この絵はアデライド自身が非常に気に入っていたらしく、ルイ15世の娘であって、偶然にも同じファースト・ネームを持つ王女アデライド・ドゥ・フランスから、10000リーブルで購入のオファーが入ったにもかかわらず、彼女が一生手元に置いていました。
二人の女流画家の違い
ルブランもアデライドも革命前に肖像画家として高い名声を得た女流画家でしたが、革命後の二人の運命は根本的に異なっていました。
ルブランは、マリ・アントワネットの画家になったところまではよかったのですが、革命後立った3カ月後には国を追われて、丸12年間もの間、亡命生活を余儀なくされました。
反対にアデライドは、革命後は早々に共和主義者の国会議員の肖像画を描き始めます。モデルの中には、急進派ジャコバン派のロベスピエールや、外務大臣で、あのドラクロワの実の父とみなされるタレイランドもモデルの一人でした。
この世渡りのうまさのために、彼女は1795年以降、2000リーブルの年金を受け取れるようになりました。ところがその成功も束の間、1803年、第一帝政の直前に54歳で亡くなりました。一方、ルブランは、晩年は苦難の日々が長かったものの、87歳の高齢で天寿を全うしており、なんとも皮肉な結果と言えます。

「ヴィジェ・ルブラン夫人とその娘 ジャンヌ・ジュリー・ルイーズ」

ヴィジェ・ルブランは王侯貴族の女性だけを描いていたのではありません。ルーブルが所蔵する、この愛らしい母性愛に満ちた「ヴィジェ・ルブラン夫人とその娘 ジャンヌ・ジュリー・ルイーズ」は、女性作家が自分の娘と一緒に描いた肖像画として、美術史上最初の成功例です。制作時には娘のジュリーはまだ6歳だったはずです。
当時はやりのL字型の長椅子に腰かけたお母さんのルブランは、黄金色のスカートに白いモスリン・ドレス、さらにブルーのコートのような上着を着て、娘のジュリーをしっかりと膝の上に抱いています。微笑みながら観客を見つめるルブランの表情と、お母さんの胸にくっつきながら、恥ずかし気に観客を眺めるジュリーのまなざしが、程よいコントラストを呈しています。
彼女の口元に注目してください。わずかに開いた口から、白い歯が見えます。当時は貴族であっても、前歯がかけている人が少なくなかったという事情もあって、肖像画は口を閉じて描くのが普通でした。ルブランはその常識を覆して歯を見せる肖像画を創りだしました。
またこの絵でも明確なように、ルブランの肖像画のもう一つの特徴に、ヘアスタイルと衣装を、その時の状況と雰囲気に合わせて大胆に変化させている点があります。彼女はスタイリストの先駆者でもありました。
この絵は、制作の翌年の1787年に開かれた官展に出展された際に、La tendresse maternelle「母性愛」という異名まで獲得したほど人気を博しました。この成功に満足した当時の建設大臣に相当するアンジヴィレール伯爵が、1789年に別のもう一枚を注文しました。この「アンティック」と呼ばれるバージョンには、ギリシャ風のテュニック姿に、髪の毛を真っ赤なリボンで束ねた色っぽい母親としてのルブランと、お母さんにしっかりハグして甘える娘の姿が描かれています。
彼女のむき出しになった輝く肩と腕のライン。それに娘を抱きしめながら、微笑む表情に、抵抗し難い魅力を感じます。

「マリ・アントワネットの子供たち」

この絵は、マリ・アントワネットと3人の子供たちを描いたものです。制作年は1787年ですから、大革命勃発のわずか2年前です。
マリ・アントワネットとその子供たちは、ベルサイユ宮殿の、現在の「平和のサロン」当時の「女王の部屋」に勢ぞろいしています。モデルたちは、左の窓から入ってくる太陽光で、薄暗い部屋の中で浮かび上がっています。また。構図を整えるために、右端にはずいぶん背の高い戸棚も運び込まれてきました。
マリ・アントワネットは、真紅のドレスに、赤い羽根と、大きなダチョウの羽根飾りのついた巨大な帽子をかぶり、膝に次男のルイ・シャルルを抱いています。左の女の子は、長女のマリ・テレーズで、右端でゆりかごを指さしている男の子は長男のルイ・ジョゼフです。
マリ・アントワネットの姿を注意深く観察してみてください。イヤリング以外は、まったく宝石類を身に着けていません。当時は飢えた民衆の、ルイ16世とマリ・アントワネットへの憎悪感が急激に膨れ上がっていた時期です。特にマリ・アントワネットは、豪華な衣装や宝石類に国費を湯水のように使っているという噂が飛びかっていました。この絵で、彼女が宝石類をほとんどつけない姿で描かれているのには、そんな社会状況を考慮した上だったのです。
また彼女の表情はなぜか悲しそうです。この理由については後でご説明しましょう。
子供たち
ここでマリ・アントワネットの子供たちについてご説明しましょう。まず、マリ・アントワネットが膝に抱く男の子です。この子は次男のノルマンディー公ルイ・シャルルです。絵が出来上がったときは、まだ2歳だったはずです。画面右に描かれたお兄さんの病死後は、世継ぎとなり、お父さんのルイ16世の処刑後は、ルイ17世として囚われの身のまま事実上即位したと看做されます。
次に、左でお母さんに寄り添う女の子に注目してください。長女のマリ・テレーズです。絵の制作時にはまだ9歳でした。家族全員が病死または処刑されたのちも、パリのテンプル塔で幽閉されながら生き延びて、1795年に、母マリ・アントワネットの祖国オーストリアに捕虜交換の一環として引き渡されました。その後、1799年に、従兄のオングレーム公爵と結婚して天寿を全うしました。
少し脱線しますが、マリ・テレーズの夫のオングレーム公爵のお父さんは、王政復古期に国王になったシャルル10世です。そのために、オングレーム公爵はルイ19世とも呼ばれて、事実上の皇太子でした。言い換えれば、妻のマリ・テレーズは、次の女王になるはずでした。
ところが、その義理のお父さんのシャルル10世は、1830年8月2日に自ら退位して、王位を子供がいなかった息子ではなく、孫のアンリ・ダルトワに譲位することにしたのです。そして、長男のオングレーム公に王座を放棄する宣言書に署名させようとしました。しかし、彼は約20分間躊躇しました。理論的には、この20分間は、長男のオングレーム公がフランス国王であり、妻のマリ・テレーズは女王であったと看做されます。
ただし、結果は孫のアンリ・ダルトワは王座につけず、議会はリベラルなルイ・フィリップを王座につけたのです。
画面右で空のゆりかごを指さしているのは長男のルイ・ジョゼフです。この絵の制作時にはまだ6歳でした。生き延びていれば国王となったはずでした。残念ながら大革命直前の1789年6月4日に、療養先のムードンで病死しました。

長男の死後、マリ・アントワネットは、死んだ息子が描かれたこの絵を見るのがつらくて、この絵を宮殿の壁から外すように命じたと伝えられています。
右のゆりかごには誰も描かれていません。X線写真でも、赤ん坊が描かれた痕は発見されませんでした。しかしこの空のゆりかごは、絵の完成直前にたった生後11カ月で病死した、次女のソフィ・ヘレンヌ・ベアトリックスを暗示しているのです。
そのことを念頭に置くなら、なぜマリ・アントワネットの表情が硬くて悲しいのか理解できると思います。

マリ・アントワネットの肖像画を描く画家

ヴィジェ・ルブランの代表作の一つであり、自画像である「マリ・アントワネットの肖像画を描く画家」です。亡命先のローマで、最初からフィレンツェのウフィツィ美術館のために制作されたものです。彼女は生涯50枚以上の自画像を描きましたが、肖像画家としてのルブランは、この絵で技術的な頂点に達したといえるでしょう。多くの美術史家が、ルブラン芸術の最盛期を、革命以前としていることは、全く正しいことです。
画面概略
キャンバスの前に座ったルブランは、やや上体を曲げて、顔だけ観客の方に向けています。微笑みを浮かべ、半開きになった口からは、白い歯が覗いています。虫歯等のために、前歯が描けている女性が多かった時代です。口を半開きにしてそろった前歯を見せる肖像画自体が斬新な描き方でした。そして、ほとんど化粧していない素顔に、一点の白が加えられた瞳が輝いています。
左手にはパレットと筆を持ち、右手でマリ・アントワネットの肖像画を描く彼女の姿は、亡命先でも女王に忠実であったことをうかがわせます。
ブラウンの天然パーマの髪の毛は、手作りの純白のターバンで覆われています。でも完全に覆わずに、髪の毛を一部露出させている点と、モスリンで作ったターバンの結び目が、まるでウサギの耳のようにかわいらしく映ります。
紺色のシルクのワンピースから、大きな純白のレースのエリが浮かび上がっています。またワンピース自体も、腰にベルトのように巻いた真紅の布地によって、見事なコントラストを示しています。
亡命したルブラン
ここで、ルブランがフィレンツェまで亡命した経緯についてもう少しお話しましょう。1789年10月6日、フランス革命勃発から3カ月後、王党派とみなされていたルブランは、身の危険を感じて娘と一緒に亡命の旅をはじめました。亡命の旅はなんと1802年まで、約12年も続きました。その間、イタリアの各都市、オーストリア、そしてベルリンを経てロシアのサン・ペテルスブルグとモスクワまで旅行しながら、絵を描き、そしてまた亡命を続ける生活でした。亡命直前に、国王ルイ16世は、ルブランに肖像画の制作を依頼したそうです。その名誉にもかかわらず、制作せずに亡命せざるをえなかったのには、宮廷画家として、革命の急進派によって逮捕される危険が迫っていたからです。
亡命を始めたとき、わずかの所持金のみもって、娘と一緒にトリノ、パルマと移り、たどり着いたのがフィレンツェでした。欲張りな彼女の夫が、ルブランと娘の逃避行に十分な資金を渡さなかったのです。
行先に関する彼女の判断は極めて適切でした。なぜなら、ルネッサンス期より芸術の都として栄えたフィレンツェには、スポンサーとなりうる大貴族がまだ大勢いたからです。
彼女がフィレンツェで訪れたのは、ウフィツィ美術館でした。そこで2年前に制作されたオーストリア人の女性画家アンゲリカ・カウマン作のスケッチブックとチョークを持った自画像を見せられました。その時のことを彼女は次のように回想しています。
「アンジェリカ・カウマンの肖像画を、一種の誇り、同じ女性としての名誉を感じながら注目しました」
事実、後にローマに滞在した時に、ルブランはわざわざローマに住んでいたカウマンに会いに行き、そこで2晩も過ごしたほどです。
そして、ルブランはフィレンツェ滞在中に、彼女自身の肖像画を描いてウフィツィのコレクションに加えるよう注文を受けました。いわば2大女性画家の自画像による競争が企てられたわけです。考えようによっては、彼女の回想の中の「同じ女性としての名誉」というのは、ライバル意識を感じたとも解釈できるでしょう。
誰が実際に肖像画を注文したかは、ルブラン自身明らかにしていません。回想録にも「フィレンツェ市のために、私自身の肖像画を描くよう依頼される栄誉によくしました」とのみ書かれています。恐らくウフィツィの責任者か、トスカナ大公の側近であったことでしょう。
そして、ルブランは、次の目的地であるローマについたなら、すぐに制作に取りかかることを約束して旅立ちました。彼女は幸い美術界ではすでにスター的存在でした。ローマでも、最初はアカデミー・ドウ・フランス内に部屋を借りて制作を始めることができました。アカデミー・ドゥ・フランスは、1803年にナポレオンが現在のヴィラ・メディチに移転したもので、若い画家たち、特にローマ賞を受賞したエリート達に、ローマで古典を学ばせるためのフランス政府の機関でした。
ローマで彼女は、2カ月半かけてこの絵を仕上げました。結果は大成功でした。彼女は芸術の都フィレンツェでも、一流の肖像画家として名声を博すことになったのです。
彼女はその後1795年から1801年までロシアに滞在し、フランス・イタリアと変わらぬ名声を博しました。

「タンプル塔のマリ・アントワネット」

この一見ごく普通のフランス女性の肖像画に見えるのは、マリ・アントワネットの獄中の肖像画です。彼女が処刑される直前、パリのタンプル塔に幽閉されているときに、ポーランド出身の宮廷画家アレクサンドル・クシャルスキによって描かれたものと言われています。
1792年6月20日にフェルゼン伯爵の手引きによって、ロイヤル・ファミリーはドイツ国境に向かって逃避行をはじめました。しかし、優柔不断なルイ16世のために、国境に近いバレンヌという町で逮捕され、パリに連れ戻されてしまいました。
しかし、王家が逮捕される直前、王に忠実だったシュアズール公率いるドイツ人軽騎兵隊はバレンヌに到着し、王の命令を待っていました。あの時、王が直ちに騎兵隊に護衛させてドイツ国境に向かったなら、ロイヤル・ファミリーは全員助かり、ヨーロッパの歴史も変わったはずです。また、王が後30分バレンヌで時間を稼いでいたなら、王党派のブイエ将軍率いる騎兵部隊がバレンヌに到着して、王家全員を救えたでしょう。しかしマリ・アントワネットの夫であり王であるルイ16世は、何ら命令を出さず、無様にも捕えられてしまったのです。
そしてロイヤル・ファミリーはパリに引き戻され、8月以降は重罪人用の監獄タンプル塔に家族と共に幽閉されてしまいました。次に1792年9月に王政が廃止されて共和政となり、さらに1793年1月21日に夫ルイ16世はコンコルド広場でギロチン台の露と消えました。画中の王妃が牢獄で喪服を着ているのはそのためです。
大革命直後にヴィジェ・ルブランが亡命して以来、クシャルスキははわずかの間でしたが、マリ・アントワネットの画家となりました。彼の描いた肖像画は、ルブランによる極めて華麗で美しい女王の肖像画に慣れた私たちには、想像できないほど質素で普通の女性に見えます。
ツワイク著の「マリー・アントワネット」(岩波文庫)でも、この絵について以下のように触れています。
「この夏誰か無名の画家が描き上げた、あのマリー・アントワネットの最後の肖像画を見る時、かつての牧羊劇の王妃、ロココの女神の面影をそのうちに見出しことはほとんど不可能である。(中略)年から言えば38歳であるにもかかわらず、彼女は苦難に耐えてきたのだ。すでに老婦人の姿である」
ただし、極めて警戒厳重だったタンプル塔にどうして外国人の画家が入り込み、その上、王妃の部屋で肖像画を描く余裕があったのかが理解し難く、また画家が実際にタンプル塔に忍び込んだことを証明する記録等も存在せず、制作年に関しても信ぴょう性に欠けるきらいがあります。
また、パリの歴史博物館であるカーナバレ博物館には、クシャルスキの絵と上半身がうり二つで、マリ・アントワネットがタンプル塔の薄暗い牢獄で一人、開いた本の前で腰掛ける姿の肖像画が所蔵されています。しかしこの作品は作家名不詳で、しかも制作年は女王没後22年も後の1815年とされています。
マリ・アントワネットは、バッツ男爵によるタンプル塔での最後の救出作戦が失敗に終わってからは、残った子供たちからも引き離され、その上フェルゼン伯との交信手段さえも奪われ、たった一人で残された時を過ごさざるをえなくなったのです。
母としてのマリ・アントワネットにさらに非常な仕打ちが加わりました。反逆罪の証拠が見つけられない共和主義者たちは、王妃の幼い息子、ルイ17世が母親に性的虐待を受けていたと虚偽の訴えを裁判所に出し、息子を洗脳して裁判所で母を犯罪者扱いにしたのです。それにもかかわらず、マリ・アントワネットは息子を恨まず、神を信じつつギロチン台を自ら上がっていきました。そんな極限状態での彼女の心境がこの絵に表されているのです。
画面概略
王妃は、すっかりやつれて、微笑みは消え失せ、黒い喪服を着て、寡婦のベールをかぶって、うつろな視線を投げかけています。これがつい4年前まで、ベルサイユで何一つ不自由のない生活をしていた王妃の姿であるとは、だれも想像できないでしょう。
しかしその虚ろな瞳の向こうには、遠く離れたフェルゼンを思い、わずかな希望を愛する男に託し続ける女心が察せられます。
前年の6月20日、ロイヤル・ファミリーが逃避行中のヴァレンヌで逮捕されてパリに連れ戻された後、マリ・アントワネットは愛するフェルゼン伯爵に、自分の指に付けていた金の指輪を密かに送りました。その指輪には仏王家の紋章である3つの白ユリと共に「意気地なしよ。私を見捨てるものは」という文句が刻まれていました。彼女は、フェルゼンが最後の最後まで彼女を見捨てずに、身を挺して彼女を救うために全力を尽くすことを知っていたのです。
情勢を見極められずに勇気もなく、たった一言、救援に駆け付けた騎兵隊に「ドイツ国境に向けて直ちに進め」と命令が下せなかった夫より、本気で自分を愛し、命がけで自分と子供たちを守ってくれるフェルゼン伯爵の方が夫よりはるかに頼もしかったに違いありません。
事実フェルゼンは、その後、国民軍によって厳重に警戒されていたチュイルリー宮に大胆にも忍び込み、愛するマリ・アントワネットと夜を共に明かすことに成功しています。王妃がタンプル塔に幽閉後も、彼はありとあらゆる外交手段を用いて、愛する女性の救出を試み続け奔走しました。それが功を奏しないと分かったなら、共和主義者の買収さえ辞さなかったのです。
命がけで女性を愛し、愛のために戦い続ける男の典型がフェルゼン伯と言えます。そんな悲劇的恋物語の実話が、マリ・アントワネットを世界で最も人気のある王妃にしたのではないでしょうか。

「マリ・アントワネット」

この粗末な服に帽子をかぶり、両手を後ろで縛られた女性のデッサンは、荷馬車でギロチン台へと護送される途中のマリ・アントワネットの姿です。岩波文庫のツワイク著「マリー・アントワネット」の表紙にもなっています。
王妃は長い髪の毛を切られ、やせ細っています。でも彼女は処刑台に運ばれる途中の馬車の上でも、しっかりと背筋を伸ばして、前を向いていたことがこの絵から伺えます。
ギロチン台のあった現在のコンコルド広場に連れて行かれるマリ・アントワネットを、サントノレ通りのジュリアン宅から描いたのが、新古典主義の巨匠ダヴィッドです。ルーブルの有名な「ナポレオンの戴冠」やベルギー王立美術館所蔵の「マラーの死」を描いたダヴィッドは、悪名高き独裁者ロベスピエールと同じジャコバン派に属するれっきとした国会議員でした。大革命中に数多くの貴族や僧侶たちを虐殺し、ギロチン台に送ったジャコバン派の議員兼画家のダヴィッドにとって、マリ・アントワネットは、もはや革命のありふれた被写体でしかなかったようです。
マリ・アントワネットの遺書
マリ・アントワネットは、処刑台に送られる、その荷馬車の上でも毅然とした態度を崩しませんでした。その精神力の強さは、彼女が処刑の前夜に義理の妹、すでに処刑されていたルイ16世の妹エリザベスの文面からも読み取ることができます。母として、カトリック信者として最後まで子供たちのことを思い、信仰を捨てなかった彼女の態度は涙なくしては手紙を読むことができません。それの原文を抜粋翻訳してみました。

妹へ。最後の手紙をしたためます。先ほど死刑宣告を受けました。でも犯罪者がうける恥ずべき死ではありません。私はあなたのお兄さまのおそばにまいります。お兄さまが無実でいらしたように、私も同様の強さを人生最後の時に示したいと思います。良心に何らやましくない人達のように、私の気持ちも落ち着いています。
私の可哀そうな子供たちを残していくことが大変残念でなりません。あなたがご存じの通り、私は、子供たちと、善良で優しい妹のためのみに生きてきました。貴女は、友情からすべてを犠牲にして私たちと一緒にいてくださいました。その貴女を何という境遇に残すことになるのでしょう。裁判の弁論中に、娘が貴女から引き離されたことを知りました。ああ、なんと憐れな娘でしょう。娘にはあえて手紙を書きません。書いたところでとどけられないでしょう。それに、この手紙が貴女に着くかどうかも分かりません。
私の祝福を彼らのために受け取ってください。いつの日か、彼らが大きくなった時、貴女のそばに子供たちが集って、貴女の愛情深いお世話を受けられますように祈っています。
息子が、父上が何度も言われた最後の言葉を決して忘れぬように。「我々の死の復讐を絶対にしてはならない。」(中略)
私を苦しめたすべての敵を許します。そして、ここでおばさまたち、兄弟姉妹たちにお別れいたします。

この最後の手紙は、マリ・アントワネットが想像した通り、妹のエリザベスには届けられず、判事を経てロベスピエールの手にわたり、王政復古後の1816年にようやく発見されました。
処刑後のマリ・アントワネットの遺体は、市内の集団墓地であるマドレーヌ墓地に捨てられました。そして王政復古の1815年に、ルイ18世の命令によって、遺体の一部が発見されて、歴代の国王の眠るサン・ドゥニ大聖堂に夫ルイ16世と共に葬られることになりました。現在サン・ドゥニには、二人の大理石像が飾られています。
さてルブランは、王妃の処刑をずいぶん後になってから亡命先のウィーンで知ったようです。彼女は悲報をウィーンで受け取ったときの心境については、ほとんど何も書いていません。
しかし、回想録には次のように書いてあります。「幸せと平和を満喫しているからと言って、フランスと祖国の不幸を頻繁に思わなかったと言えばうそになります。特にルイ16世とマリ・アントワネットの思い出によく浸りました。王室の皆様の死の直前の、厳粛で感動的な場面を絵にしたいと切実に願ったほどです。
偶然王の側近だったクレリーがウィーンに亡命中であることが分かり、クレリーにロイヤル・ファミリーの最後の日々の様子を教えてくれるように手紙で懇願しました。クレリーは、私に王や王妃の服装の色や、姿勢といった細部まで手紙に書いて答えてくれました。しかし、彼の解説があまりにもリアルすぎたために、私はショックのあまり泣き出してしまい、結局『王家の最後の日々』は制作できませんでした。」

さて、ルブランは1802年1月、実に12年におよぶ亡命生活を終えてパリに戻ります。しかし時代と美術の世界は急速にナポレオンの時代へと変化しつつありました。また美術の潮流はダヴィッドに代表される新古典主義へと変わり、ルブランの画風は流行遅れとなっていました。
ルブランはその後も、相変わらず王侯貴族の肖像画を描き続けて、その中にはナポレオンの妹のカロリンヌ・ミュラの肖像画もあります。また晩年には多くの風景画も描きました。しかし彼女はその後約2世紀間、他の巨匠たちの陰に隠れた存在となり、彼女が再び脚光を再び浴びるようになったのは、ほんの10年ほど前の話です。
マリ・アントワネットもかつては民衆から最も憎まれた王妃でしたが、現在では最も愛される王妃の一人になっています。しかし、それまでにあまりにも多くの時間が要されたことには、なんともやりきれない気持ちです。

 

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