ARTIST TOP

美術史家・森 耕治の欧州美術史論Vol.1
ゴッホ、太陽が燃え尽きる時

私が所属するベルギー王立美術館は、これからお話しするゴッホが、生前に、彼の作品がたった1点だけ売れた場所でした。売れた作品は、「赤いブドウ畑」と言って、王立美術館で開催されていた「20人展」という前衛美術展に出展された際に、そのメンバーだった実業家の娘、アンナ・ボッシュが購入しました。その展覧会は、ベルギー象徴派のクノップフや、ジェームス・アンソールがメンバーだった「20人展」でした。
さてそのゴッホですが、ゴッホは今から128年前、1890年に、パリの北の郊外のオーヴェール・シュル・ウワーズでピストル自殺しました。しかし私は、ゴッホは自ら進んで命を絶ったわけではなく、死を選ばざるを得なかったと確信しています。本稿では、最後の最後まで生き抜く戦いをして、絵を描き続けながら燃え尽きた太陽の画家の人生と作品についてお話ししたいと思います。
(本稿は、フランス語をはじめとするベルギー語圏の発音に基づいています。一部の固有名詞は日本語と異なる場合がありますので、ご了承ください)

「ひまわり」1887年

ベルリン美術館所蔵の「ひまわり」は、ゴッホ作品の中でも特に人気が高い一方、たびたび外国の美術館に貸し出されてしまうため、ベルリンで見る機会の少ないことで有名です。私が最近本作を目にした時は、2年前の8月にオルセー美術館に展示されていました。
ゴッホが描いた「ひまわり」は、1枚きりの作品ではなく、数年にわたって何枚も描かれており、現在11枚が確認されています。このうち最初の4枚は、1887年にパリで制作されました。当時ゴッホは、弟のテオとモンマルトルのふもとのピック通りのアパートに同居しており、すべてテーブル上に置かれた状態で描かれています。中でもベルリンの「ひまわり」は、構図が一番単純で主調色が定まらず、ヒマワリを正面から、しかも2輪だけ描かれているため、4枚のうち最初に描かれたのではないかと推測されています。
ゴッホは、1887年の暮れにクリシー通りとサン・ウオン通りの交差点にあった大きなレストラン「グランド・ブイヨン」で、親友のエミール・ベルナールほか数人とグループ展を開催しました。これは事実上、ゴッホが生前企画したほとんど唯一かつ大規模な「回顧展」となりました。残念ながら、そこでゴッホの作品が売れたという話は聞いたことがありませんが、本作は、おそらくそこに出展された作品の一つだったのでしょう。そしてそのグループ展にやってきたのが、後にアルルでゴッホと共同生活を始めたゴーギャンでした。ゴーギャンはその年の10月に、フランス領マルチニックで病に倒れ、11月にフランスに戻ってきたばかりでした。
この時を境にゴッホとゴーギャンは意気投合したらしく、本作ともう1枚の「ひまわり」 (メトロポリタン美術館蔵)の計2枚を、ゴーギャンの作品「川岸にて」と交換しています。そのゴーギャンの作品は現在アムステルダムのゴッホ美術館に所蔵されています。家畜を連れた現地の二人が、岸辺でなにやら話し合っている情景が描かれた作品です。情景をだいぶ上の方から見たように描き、遠近法も浮世絵のようにずいぶん圧縮されています。恐らく日本にあこがれていたゴッホ自ら選んだのでしょう。いわば、この絵が、後の二人のアルルでの共同生活と、ゴッホの「耳切事件」のきっかけとなったのです。
「画面概略」
この絵をオルセーで見た時、私には、実物大のほぼ倍の大きさで描かれた2輪のヒマワリが、まるで右方向に渦を巻きながら絡み合い、周囲の空間の赤・黄・緑の短い線の集まりをも回転させているかのように感じられました。
向かって右のヒマワリは半分枯れており、でき始めた種が黒くなりかけています。ヒマワリを不慣れな人が描くと、内側の花の細部にこだわってしまいがちなのですが、ゴッホは、放射線状に筆のタッチをつけて褐色の下地を作った後、紺色の細い曲線を時計の針の方向に回すように描き込んでいます。左の花は、しっかり結実した黒い種が、紺色の細線と、くすんだ明るいグリーンの曲線によって、時計の針の方向に渦巻いています。
「絵に込められたゴッホの思い」
そもそも8月から9月に畑に残されたヒマワリは、すでに花が枯れているか終わりかけになっており、基本的に太陽に向かって顔を向けることはありません。結実した黒い種の重さに首を垂れ、夏の焼けるような太陽光を背中に受けながら、じっとうつむき加減のまま、種を収穫されるまで耐えているのです。収穫されたヒマワリの種は、さらにプレスにかけられて絞られ、良質の食用オイルとなります。
それではこの2輪のヒマワリの花は、何を表しているのでしょうか。ここで思い出して頂きたいのは、当時のゴッホが展覧会で1枚の絵も売れない貧乏画家であり、弟のテオの下で暮らしていたということです。つまりこのヒマワリは、世間の無理解と闘いながらも、いつか兄のヴィンセントが世間に認められることを信じて一心同体となり、夢を共に追いかけたテオとヴィンセント兄弟の二つの魂を暗示しているのです。
この絵には、後にアルルで見せたようなコバルトブルーと黄色の対比のような色のまとまりはありません。しかし、ほとんど枯れてしまったヒマワリに、このような渦状の回転を与えることで、昼間に、太陽の動く方向に合わせて花を回転させていた、7月の最盛期のヒマワリを想起させます。それは、あたかも自分と弟を勇気づけているかのように、不屈の輝きを放って私たちを魅了するのです。

「タンギー爺さん」1887

ゴッホが懇意にしていた絵具屋「タンギー爺さん」62歳の肖像画です。外出用の上着に帽子をかぶり、両手を膝の上で合わせた神妙なポーズをとっています。ゴッホがパリに住んで2年目の、1887年夏以降に制作されました。面白いことに、本作は現在ロダン美術館が収蔵しています。ロダンの彫刻の中から突然ゴッホの代表作が目に飛び込んでくるのですから、鑑賞者も驚くのではないでしょうか。
タンギー爺さんの肖像画は全部で4点確認されています。背景が茶色で、前掛けをつけた暗い色の肖像画と、白黒の正面向きのデッサン、さらにそのデッサンを基にして描いた背景が浮世絵の肖像画が2点と、計4点です。この浮世絵を背景にした2点のうち、どちらが先に描かれたものかという議論が昔からありますが、ロダン美術館の作品の方が完成度が高いので、これが後で描かれたものであると考えられています。
「パリ時代のゴッホ」
ゴッホは、1886年2月28日に突然ベルギーのアントワープから、弟の住むパリにやってきました。そしてテオの働いていたモンマルトル通りの画廊に、厚かましくも「ルーブルのサル・カレに正午に来い」と電報を送りつけました。
当時テオが借りて住んでいた9区のマセ通り(旧名ラバル通り)のアパートは、モンマルトルの丘のふもと、現在のメトロ・ピガールとサン・ジョルジュの間にありました。かつてそこには、1881年に創設された有名キャバレー「シャ・ノアール」や、ベルギー生まれの有名な画家アルフレッド・スティーブンスの住まいもありました。しかしマセ通りのアパートは兄弟二人で住むには小さすぎたため、モンマルトルに上る有名なルピック通りへと引っ越すことになりました。こうしてテオは、絵が全く売れない兄の経済的面倒も見る羽目になったわけです。
パリ滞在中の最初の年、ゴッホは、モンマルトルのコルモンという官展の審査員だった画家のアトリエに通いました。その頃の画風には、オランダ時代やアントワープ時代と同様、暗い褐色の画面が目立ったのですが、1887年の夏以降から、ゴッホの絵に急に明るい色彩が現れました。浮世絵の強烈な色彩と凝縮した遠近法に憧れ始め、実際に自作に浮世絵の影響が顕著に現れたり、ヒマワリの絵を描き始めたもこの時期です。
一文無しの兄を自宅で養うことになったテオにとって、不幸中の幸いは、マセ通りからほんの数分のところ、メトロはサン・ジョルジュ駅のすぐ横のクローゼル通りに、この絵のモデルになったタンギー爺さんの店があったことです。タンギー爺さんは、貧乏な画家からは、作品と引き換えに絵具を渡したり、時々貧乏画家たちを自宅に食事に呼んだり、店の前に無名画家の作品を販売目的で展示したりしていました。タンギー爺さんは、テオにとっては無収入の兄の面倒を見てくれる、数少ない理解者だったのです。その上、アルル時代以降は、テオは兄が次々と送ってくる作品の置き場所に困って、タンギー爺さんの家の屋根裏部屋を借りて、そこに大量の画布を保管していました。
「貧乏画家の味方 タンギー爺さん」
モデルのタンギー爺さんは、本名をジュリアン・タンギーといいます。出身はブルターニュ地方の小さな街サン・ブリユーで、1860年にパリに出てきて以降は、左官屋や絵の具職人として生計を立てていました。しかし、1870年に勃発したプロシア戦争の敗北後、徹底抗戦を主張するパリの市民によって同年3月に結成された自治政府パリ・コミューンに、タンギーは戦士として参加しました。
パリ・コミューンは、世界初の共産主義政権とみなされることが多いように、実際に婦人参政権、言論の自由、信仰の自由、労働組合、政教分離等の革命的な政策をかかげた政府でした。しかし、1871年5月に、プロシア軍の援助を受けたフランスのベルサイユ政府軍とパリ市内での凄惨な市街戦の末、パリ・コミューンはたった2ヵ月の短命で終わってしまいました。パリ市民に3万人もの犠牲者と、5万人もの逮捕者を出した、フランス近代史上唯一の内戦です。
幸いにもタンギーは、パリ陥落時に政府軍の銃殺からは免れたものの、ブルターニュ地方のブレストの刑務所に4年間も囚われの身となりました。そして釈放後に始めたのが、クローゼル通りの絵具屋だったのです。当時、チューブ入り絵具が特許製品として販売されるようになってから、まだほんの十数年しか経っていませんでした。タンギー爺さんの最初の願いは、モンマルトルやピガールあたりの貧乏画家たちに、自家製のチューブ入り絵具を宅配して、忙しいはずの彼らの手伝いをすることだったと伝えられています。
タンギー爺さんの店には、ゴッホ以外にも、ベルナール、セザンヌ、モネ、バジル、ピッサロ、ルノアール、シスレイなど、後世に名を残す前衛画家たちが頻繁に来店していました。
モネは後に、タンギー爺さんの店について、こう回想しています。「彼の店は本当に小さくて、ショウ・ウインドーも小さいので、そこには絵は一枚しか展示できません。そこに我々の作品を一枚ずつ代わりばんこに展示することに決めました。月曜日はシスレイ、火曜はルノアール、水曜ピッサロ、私は木曜日、金曜日はバジル、土曜はヨンキント、、、、」
またタンギー爺さんは、ゴッホがパリの北のオーヴェール・シュル・ウワーズで非業の死を遂げた時、パリからはるばる埋葬に駆けつけています。このことからも彼の人柄や、ゴッホを心から大切に思っていたことが理解いただけるでしょう。
「背景の浮世絵について」
ゴッホは、ロダン美術館所蔵の「タンギー爺さん」を、白黒で描いたデッサンを基にして、ルピック通りのアパートで描いたのでしょう。その時、自分がアントワープ時代からこつこつ集めた浮世絵を背景に使うことを思いついたのです。後述する広重の浮世絵などは、当時日本ではうどん1杯の値段と同等でした。その上、開国後の日本円がヨーロッパ貨幣に対してべらぼうに安かったことを考えれば、貧乏なゴッホでも浮世絵を買い集めることは難しくなかったに違いありません。ちなみにゴッホ兄弟の浮世絵コレクションは約500枚にも上り、現在もゴッホ美術館で大切に所蔵されています。
「タンギー爺さん」の背景に使われた浮世絵は、少なくとも4点については作家名と題名が明確になっています。まず向かって右下の浮世絵は、渓斎英泉作の「雲竜内掛の花魁」です。ただし真作とは左右反対になっています。これは、ゴッホが模写したのが、本物の浮世絵ではないからです。シャルル・ジレという人が編集長を務めていた「パリ・イリュストレ」という雑誌が、1886年発行の45と46合併号で日本特集を組んだのですが、その表紙に「雲竜内掛の花魁」を左右逆に掲載するというミスが生じました。ところがゴッホは、その誤りに気がつかないまま、背景に模写し直したのでしょう。ですからアムステルダム美術館の「タンギー爺さん」に描かれているのは、背景があべこべな「雲竜内掛の花魁」なのです。
一方、左には、ゴッホの浮世絵コレクションのメインをなす歌川国定作の「三世岩井粂三郎の三浦屋高尾」という役者絵が描かれています。岩井粂三郎がこの役者の名跡です。この浮世絵はゴッホ美術館にも所蔵されています。描いた歌川国定(三代目歌川豊国)は、生涯の作品数は1万点を越えると言われる大変な量産作家です。その分、作品は廉価で流通していましたので、ゴッホにとっても手に入りやすかったのでしょう。
右上のサクラの見える浮世絵は、これもゴッホ美術館が所蔵する歌川広重の代表作「五十三次名所図会 四十五 石薬師義経さくら範頼の祠」です。歌川広重は、前述の三代目歌川豊国の友人でした。
五十三次の江戸から数えて44番目の宿が石薬師宿で、その宿の名前の由来となった石薬師寺のそばに、浮世絵のモチーフとなった源範頼の蒲桜があります。範頼は義経の異母兄で、平家追討に向かう途中に、石薬師で戦勝を祈って、サクラの枝を逆さに土に挿したところ、それが芽を出してみごとなサクラの木になったと言い伝えられています。
そして、タンギー爺さんの頭上に見える富士山の絵は、ゴッホ美術館所蔵の歌川広重作、「富士三十六景さがみ川」です。
最後に、左下に見えるアサガオは、長い間、歌川広重(二代目)の「東都名所三十六花選 入谷朝顔」と考えられてきました。しかし1999年に作者不明の「東京名所 いり屋」が発見されると、「タンギー爺さん」の背景のアサガオとの類似点が多いことが明らかになりました。現在では、この「東京名所 いり屋」こそが、ゴッホの模写したアサガオであるという意見が有力です。

「パリ・イリュストレ」の表紙

三世岩井粂三郎三浦屋高尾

ゴッホのアルル時代の代表作の一つ「ラングルワ橋(アルルの跳ね橋)」です。今年の5月に、気温が25度になった天気の良い日に、恩師の川端紘一画伯のスケッチ旅行に同行して、アルルを再び訪れました。その時に、この「ラングルワ橋」にも、また戻ってみました。ラングルワというのは、かつてこの跳ね橋を、船がやってくるたびに、上げたり下げたりしていた男の名前です。
画面上には、南仏の真っ青な空を背景に、黄色い跳ね橋がくっきりと浮かび上がり、そこを今馬車が渡ろうとしています。実際のラングルワ橋は木製の黒い大変重厚な橋ですが、ゴッホは灰色の石まで黄色で明るく軽い雰囲気に描きました。


左下の岸辺では、村の女性達が、洗濯しているところです。彼女達の姿は、ゴッホが敬愛したミレーの「洗濯する女たち」を思い起こさせます。他にも、ゴーギャンのマルチニック時代の作品「川岸にて」の影響もあったかもしれません。少なくとも、ゴッホが画面に村の女性達の洗濯する情景を描きこんだのは、単なる偶然ではなかったと考えられます。
さてゴッホは、1888年2月19日に弟のテオと暮らしたモンマルトルのアパートを発ち、日本のような太陽を求めて南仏に向けて旅立ちました。彼がなぜアルルを選んだのかについて、明確な理由はわかっていませんが、南仏出身の友人ロートレックの影響があったのではないかと思われます。
そして、テオと暮らしたルピック通りのアパートは、前日に、親友のエミール・ベルナールといっしょに壁を浮世絵で飾って、弟のテオのために、兄のヴィンセントがいつでもアパートにいるような雰囲気にしておきました。ゴッホがアルルに到着したのは、翌日の2月20日でした。最終目的地はマルセイユだったようですが、経由地だったはずのアルルに彼は定住します。
ところで、彼がアルルに到着した2月の南仏は、例外的に天気が悪く、路傍には雪が積もったままの悪天候でした。強烈な太陽を求めてやってきたゴッホにとっては、大きな見当違いだったことでしょう。天候が回復するまでの間、ゴッホはホテルの部屋の中で静物画を描いて過ごし、天候が回復した3月9日から、アルル郊外へ初春の風景を描きに出かけています。オランダのクレラー・ミュラー美術館が所蔵するこの「ラングルワ橋」は、ようやく訪れた春の陽光を、ゴッホが満身に浴びながら描いたものでした。
ゴッホが弟のテオに送った3月14日付の手紙には、このように書かれています。「仕事に関して言えば、今日は15号の絵を描き上げました。青い空にくっきりと浮き上がった跳ね橋の絵で、その上を小さな馬車が通っています。川も同様に青くて、緑の草むらとオレンジ色の岸辺、それにカラコと雑多な色の頭巾をかぶった洗濯女達がいます。」
また同時期に書かれた友人のベルナール宛の手紙には、もう少し左寄りの角度から描かれたスケッチも添えられていました。そのスケッチには、太陽に向かって肩を組んで歩くカップルの姿が愛情たっぷりに描かれています。いつか、こんなのどかな田園地帯を、ゴッホ自身も恋人と散歩したかったのかもしれません。ところがこのスケッチに描かれた太陽は、このあと急速に彼の絵から消えていきます。それは彼自身の魂の中に、太陽が生まれたためでした。
ヨーロッパでは、よくこの作品と広重の「大橋あたけの夕立」との関連性を指摘されます。確かに橋を描いたことでは両者に共通点があります。強いて浮世絵との関係を言うならば、輪郭線と大胆な原色の使用でしょう。それ以外のこの絵の特徴は、画面が近、中、遠景の3つに分割されており、そのため画面が単純ながらも明るくて力強く構成された上に、奥行きのある画面に仕上がっている点です。近景は、画面下に描かれた初春の緑の雑草と、その雑草によって一部隠れた小船に注目してください。この小船は、同じ年の6月に、海辺の村サント・マリ・ドゥ・ラ・メールに数日間写生に出かけて描いた浜辺の漁船を連想させます。そして中景は洗濯する9人の女性達とその前の水面と跳ね橋、遠景は橋の向こうに見える糸杉と、馬車のすぐ下に見える対岸の堤防です。
それではもう一度、画面を見てください。ゴッホの視線は水際の低い位置にあって、広大な空と跳ね橋を見上げています。画面上部では、その澄んだブルーの空の中に、黄色い跳ね橋がくっきりと浮き上がっています。特にこのあたりは地平線の見える広大な平野が広がっている地域です。その跳ね橋を渡る馬車の音と、画面左の赤い岸辺で洗濯する女性達の話し声が、春風に乗ってここまで聞こえてくるような錯覚に陥ります。またブルーの水面上には、橋の影と、岸辺の洗濯女がかもし出した円形の波が見事なハーモニーを生み出しています。
ここでは、ゴッホは見たままではなくて、感じたままの春の情景を表現したのです。また、この円形のブルーの波は、後に制作された「ローヌ河上の星空」やサン・レミ時代の「星月夜」で表現された、渦を巻くように躍動する夜空の表現へと変遷を遂げることになります。
現在のラングルワ橋は、アルルの中心部から南西に小一時間ほど「アルル・ア・ブック運河」沿いに歩いたところの田園地帯の中にあります。
この運河は全長35キロメートルあり、アルルとマルセイユ間を、小さな貨物船の航行を可能にする目的で、1834年に造られました。ラングルワ橋は、翌年の1835年に、他の8つの橋といっしょにオランダ人の技師によって設計されて建設されており、そのためかオランダの運河の風景を想起させます。またこの運河は、アルルの水門を経てローヌ河とも結ばれており、水はローヌ河よりマルセイユ方向に流れています。
ところで、当時の小船は、もちろんエンジンなど搭載していなかったので、運河の横の道を、馬が船をロープで引っ張って走っていました。現在もその道を歩いて「ラングルワ橋」へと行くことができます。途中には、予約制の船上レストランや、まるでオランダのように、船を家代わりに使っている人達の船が何隻も停泊しています。その上半分沈没した船まで放置されています。それらの船の前の岸辺には、郵便受けや柵まで設けられており、斜面になったわずかの岸辺には、しっかり花まで植えられています。
さらに歩いていくと、猟犬が気持ちよさそうに運河の真ん中を泳いでいました。その横では、無免許で釣りをしていた人が「環境警備隊」とやらにお説教されていましたが、警備隊の車が遠のくと、また何もなかったかのように釣りを続けていました。
運河沿いではいたるところで小鳥がさえずり、日本と違って湿度が低いために、木陰に入ると心地よく、ワインでも飲みながら昼寝したくなります。
運河だらけのオランダで生まれ育ったゴッホでなくても、この場所を気に入ったことには納得しました。
そんな平和な景色の中を小一時間も歩いて「ラングルワ橋」にたどり着きました。現在は「ゴッホの橋」とも呼ばれています。橋の横の案内板には「ラベンダー売りのラングルワ橋」とも書かれています。ラベンダー売りとは、画中の洗濯女達でしょう。


運河がちょうど広くなって池のようになった場所の端に、中の島が作られていて、橋は、運河の右岸から中の島をまたぐ形で設置されています。1988年には歴史建造物の指定を受けました。昼間でも観光客の姿は少なく、私が訪れた時には、洗濯女の代わりに、地元の高校生達が、水門を梯子代わりにして水面まで降りて、そこで水泳していました。
橋の下流側は、「モンカルド水門」と呼ばれる狭い水門になっていて、かつては運河を行き来する船は、この水門を抜けて航行していました。その水門の下流側には、現在使われている木製の橋があります。さらに200メートル下流には、黄色いつぼみの睡蓮が水面を覆っていました。6月には睡蓮が満開になるでしょう。
ところで、本当のラングルワ橋は、1930年に長さ45メートルのコンクリート製の橋に取り替えられてレジナル橋と呼ばれていました。つまり本当のラングルワ橋は、1930年になくなってしまっていたのです。さらに第二次世界大戦の末期の1944年8月には、運河上のすべての橋と同様、南仏に上陸した連合軍の進攻を阻むために、このレジナル橋もドイツ軍によって破壊されました。唯一フォスというところにあった橋は、ゴッホの時代のままの状態で破壊をまぬがれたものの、この生き残りの跳ね橋も、とうとう1959年に取り外されています。
幸いなことに、取り外された橋は、ブッシュ・デュ・ローヌ県と地元の商工会議所によって、本来のラングルワ橋より何キロメートルか下流の「モンカルド水門」に、ゴッホの橋を再現する目的で取り付けられました。そのために現在のラングルワ橋は、ゴッホが描いた本当の橋よりもアルルから離れてしまったわけです。
復元されたラングルワ橋は、左右上部にそれぞれ長さ8.3メートルもある天秤状の物があって、それを左右にシーソーのように上下させることで、フレッシュの端につながれた下のタブリエールという縦横4メートルの板が回転しながら上下する仕組みです。これが左右に2枚あるわけですから、橋の全長は8メートルであることがわかります。
ところがこの橋は、今では常時跳ね上げた状態になっており、通行することができません。その上、ゴッホの絵に描かれたような雑草の生い茂る斜面だった岸辺は、現在では護岸工事が行われて、野生の麦が生い茂っています。そのためこの場所には、現在でもゴッホが目にした牧歌的雰囲気を留められているのです。

「夜のキャフェテラス」1888

本作もゴッホのアルル時代の代表作の一つ「夜のキャフェテラス」です。彼が描いた夜の情景のうち、最初の1枚です。描かれた場所は、アルル市内の昼間は大変にぎやかなフォーラム広場にある大きなキャフェです。今もその場所には、作品そのままのキャフェが「キャフェ・ラ・ニュイ」と名を変えて営業を続けています。下の写真は、現在のキャフェテラスを同じ場所で、同じ角度から撮影したものです。
しかし前述の「ラングルワ橋」でも触れたとおり、本来ゴッホは、日本にあると信じた強烈な太陽を求めて、はるばるアルルにやってきたはずです。実際、初春に描いた「ラングルワ橋」で、真っ青な空に黄色い跳ね橋が浮かび上がっていたように、彼は燃える太陽を黄色で表現していました。
そんな強い太陽を求めて南仏のアルルで暮らし始めたゴッホが、よりにもよって夜の絵を描き始めたことは、一見矛盾しているかのようです。
しかし、ゴッホが妹のウィルヘイミナに1888年9月9日と16日に2回に分けて書いた手紙にはこのように記されていました。「私は、ここでは日本風の物は必要ではありません。私はここが日本だといえるのです。当然の結果、目を開いて、目の前にあって印象を与えてくれるものを描きさえすればいいのです。」
言い換えれば、ゴッホの魂の中に太陽が生まれて、その魂の光が夜の世界すらも照らしはじめていたのです。そんなある日の夜、アブサン酒を求めて、町のキャフェに出かけたゴッホが見つけたのが、フォーラム広場で黄色く光り輝くキャフェテラスだったのです。

さらに、手紙の後半部分で、彼は「夜のキャフェテラス」について説明しています。「新しい絵では、夜のキャフェの外側を描きました。テラスには何人かのお客さんの小さな姿が見えます。すごく大きな黄色のランタンが、テラスとその前面、歩道、さらに舗石まで照らして、舗石はピンクがかった紫色を帯びています。星座が輝く青い空の下で、道沿いに並んだ家々の壁は、濃いブルーか紫で、それに木々の緑が加わっています。これが黒を使わない夜の絵です。美しい青と紫に緑だけです。こんな色彩に囲まれて、明かりのついた広場は、黄緑と淡い硫黄色に染まっています。この夜の情景をその場で描くことがすごく楽しいです。」
この手紙から、現在では絵の具の老化によって黒く見える右側の家並みも、本当はダークブルーと紫で塗られており、黒が排除されていることがわかります。
ところで、ゴッホのアルル期以降の作品には、象徴主義的傾向があることで知られています。象徴主義の一特徴として、作品を見る者が、描いた本人さえ感じていなかったような解釈を行えることが挙げられます。この「夜のキャフェテラス」でも同じことが言えます。
実はこの作品では、ゴッホは無意識のうちに、人間の明暗の激しい人生と、希望と冷酷な現実が織り成す人間模様を表しています。この画面は、対角線上に引いた2本の線によって、4つの部分に分割することが可能です。
一番上が星の輝く夜空です。新約聖書のマタイによる福音書の第2章には、星に導かれてイエスを拝みに当方の国の占星術の学者のエピソードが書かれています。星は希望の象徴と理解できます。それに対して、やや紫に発色した下側の石畳は、仏語でcoeur de pierre(直訳が石の心)、意訳すると「冷酷な心」という解釈が可能です。
一方の左側の黄色いキャフェテラスは、言うまでもなく、彼の心の中で燃焼していた太陽を暗示しています。またその熱い太陽は、画面右側の闇の世界と見事なコントラストを示しています。その上、テラスそのものも、手前のゴッホのいるはずの側には、無人のテーブルと椅子が無造作に置かれたままです。死ぬまで世間の無理解と戦いながら、愛を求め続けたゴッホの孤独感が秘かに現れています。
そして右側の暗い家々は、ゴッホの隠しきれない不安感を象徴しているのです。パリの弟テオの下から旅立ち、希望いっぱいにアルルで新生活を始めたゴッホではありますが、その実は大きな不安との戦いでもあったわけです。

耳を切った男

ゴッホがアルル時代の1888年12月24日、クリスマス・イブの夜に、自ら耳を切ったことは、極めて有名な話です。事件前日の12月23日、ゴッホがテオに書いた手紙には「ゴーギャンは、このアルルの良い町と、黄色い家での共同作業、それに特に私に失望しているように思える。」「ゴーギャンがすごく冷静な決断をするよう待っている。」と書かれてあります。
そして翌日のクリスマス・イブの夜、ゴーギャンの回想によれば、食事の後、一人で外の空気を吸いに出た彼の後を、ゴッホが走って追いかけてきました。殺気を感じて振り返ったところ、ゴッホの手には剃刀が握られていました。ゴッホをにらみつけたところ、ゴッホは頭を下げて黄色い家に帰っていったということです。その直後にゴッホは自分の耳を切り取ってしまいました。
その「耳切事件」の翌日に、ゴッホはアルルの「オテル・デュー」という病院に強制的に入院させられました。下の写真は、その元病院の中庭に、ゴッホが絵を描いた場所に設置されたパネルです。この病院は、現在は当時のように外側を復元して、「エスパス・ヴァン・ゴッホ」という名の文化センターになっています。そしてここを退院した翌年の1月、ゴッホは頭に包帯を巻いた自らの姿を描いたのです。


ところでゴッホは、どちらの耳を切ったかご存じでしょうか。よく画面を見てください。よくこの自画像を素直に見て、ゴッホは右の耳を切り落としたとよく言われますが、正解は左の耳です。ところが作品は、ゴッホが鏡を見ながら描いたために、左右逆になってしまいました。右利きのゴッホは、右手でカミソリを持って、左手で左の耳タブをつかんで自分の耳を切ってしまったのです。
それでは、この耳切事件はなぜ起こったのでしょうか。事件が発生した状況を2ヵ月前まで遡ってみると、実はゴッホの耳切事件の背景に、幾つもの要因が複雑に絡み合っていることが明らかになってくるのです。
アルルで画家の共同体を作ることを夢見たゴッホは、とうとう弟のテオの協力を得てゴーギャンを10月23日に呼び寄せることに成功しました。しかし、ゴーギャンがアルルに来た理由は、共同体などという夢をゴッホと追いかけるためではなく、金に困っていた彼が、画商のテオの経済援助を当てにした一時的なものにすぎませんでした。ちょうどゴーギャンのアルル滞在中に、画商のテオはゴーギャンの作品を売ることに成功して、ゴーギャンには500フランが渡されることにもなりました。これは現在の約50万円に相当します。
しかもゴーギャンが訪ねてみると、待っていたのは粗末なベッドと椅子だけの黄色い家での耐乏生活でした。フランス海軍の元将校で、退役後は両替商として裕福に暮らしていたゴーギャンにとって、この南仏の環境は我慢ならないほどお粗末でした。さらに、ゴッホは家事全般に無頓着であったため、黄色い家は散らかり放題で料理も作れず、ゴーギャンはアルル滞在中、毎日ゴッホの分まで食事を作らされたと言います。
また二人の画風も、原色の大胆な使用という点では共通点があっても、ゴーギャンはその土地の雰囲気や風俗を感じ取った上で、イメージを十分に頭の中で暖めてから描いていくという点で、ゴッホの即物的な描写とは大きく異なっていました。一つ屋根の下で暮らしながらも、表現法という点では、両者とも絶対に譲れない部分を持っていたのです。
ここまで対立する要素がある二人が仲違いするのは、誰の目にも明らかだったことでしょう。さらにゴッホの分裂気味の精神状態があるわけですから、お金の問題さえなくなれば、すぐに出て行ったゴーギャンの気持がわからなくもありません。
しかしながら、お金の問題があったのは、ゴーギャンだけではありませんでした。ゴッホが10月22日付けでテオに送った手紙には、何箇所もお金の問題に言及しています。まず冒頭部分で、「君の能力以上に、金の面倒をかけているのではと、私はすごい不安感をいだいています。」と記しています。そして同じ書簡中には、自分一人なら毎月150フランでいい、ゴーギャンと二人なら倍ではなくて250フランで十分だと書いています。しかも、テオは仕送りを条件に、ゴーギャンに毎月作品をパリに送らせるつもりでしたから、二人なら250フランにゴーギャンの作品つきで、商売人のテオに「お得ですよ。」と強調したのです。
そのために、ゴーギャンがゴッホにアルルを離れると宣言した時に、ゴッホの脳裏に、テオへの経済的負担が増大して、画家業を続けられなくなるという恐怖感に襲われたことでしょう。
しかし、どれだけゴッホとゴーギャンの不仲、金銭的な問題、それに弟との葛藤があったとしても、ゴッホが自分の耳を切り取り、それをなぜ自分のなじみの娼婦ギャビー(通称ラシェル)に渡したのかという疑問については回答が得られません。


その答えのヒントを与えてくれるのが、ゴッホ耳切事件の年に描いた「アレンヌ」です。著名な作品ではありませんが、エルミタージュ美術館に所蔵されています。描かれた場所はアルルの中心部にあるアレンヌと呼ばれる古代ローマの競技場です。幸い1830年以降修復が進み、ゴッホがアルルにいた頃は、そこで盛大な闘牛(コリーダ)が行われていました。現在もアルルのアレンヌでは、イースターから9月半ばまで闘牛が行われることが知られています。ゴッホがアレンヌの中で描いた絵は、恐らく闘牛を見るために競技場の中に集まった人々の姿だったのです。
ところで、闘牛士のことを仏語でマタドールといいますが、マタドールは闘牛の最後の場面であるファエナで、対峙した牡牛を赤い布で何度も挑発しつつ、突進してくる牡牛を華麗な身のこなしでかわし、最後に剣の一突きで殺します。これをエストカドゥといいます。戦いの後、マタドールは、主にこのファエナの一連の勇敢かつ華麗な動きを、観客たちによって審査されることになります。マタドールが立派に戦い終えたなら、観客達は、白いハンカチを振りかざし、競技委員長にマタドールに殺した牡牛の耳を戦利品として与えるよう要求します。マタドールの戦いぶりが極めて賞賛に値すると見られた時は、両方の耳が渡されることもあります。そして勝ち誇ったマタドールは、人々の肩に担がれて堂々と正面の出入り口から退場となります。また、そのマタドールは、戦利品の牡牛の耳を、愛する女性に渡すことがあるとも言われています。ここで事件の話に戻りましょう。ゴッホは自分で切った耳を、なじみの娼婦ラシェルに渡しました。この行為は、まさにコリーダのマタドールの姿に重なって見えてくるのです。
しかしゴッホの行為は、勝利者マタドールの役と、殺された牛の役を、一人で演じていることになります。このことに気づかない点に、ゴッホの狂気性が象徴されていると言えるでしょう。彼は、アルルで画家の共同体を築こうとして最後まで戦いました。貧困と世の中の無理解、さらに先輩画家のゴーギャンの影響さえも徹底して拒絶し、独自の画風を確立しようとしました。しかし、よりにもよってクリスマス・イブの日に、彼の夢は敗れ去り、敗北を味わうことになったのです。発作的に逆上した彼の脳裏に、戦いを終えて勝利に酔うマタドールと、息耐えた牡牛の両者が現れたことでしょう。勝者ゴッホは剃刀を手にして、敗者ゴッホの耳を切り取り、それをお気に入りの娼婦ラシェルに捧げたのです。無意識下に自らを敗者としていたゴッホの姿は、滑稽さと悲哀とを含有して、現代の私たちの目に映るのではないでしょうか。

「星月夜」1889年

これは、耳切事件の翌年、ゴッホが入院したサン・レミのサン・ポール・ド・モーゾレ病院で描いた代表作「星月夜」です。仏語タイトルは La nuit etoilée 「星空」です。
夜空の星が、非常に大きく円形に黄色がかった白い光を放ち、右上の三日月は、太陽のように黄色く輝いています。しかも雲が渦巻く光の波のように、画面の左から右へと下の山沿いに流れていきます。画面左では、その渦巻く光の波を突き抜けるかのように、糸杉のダークグリーンが垂直方向に波打っています。恐らくこの糸杉は、画面構成のために、ゴッホの想像で描き加えられたのでしょう。
ヨーロッパの美術史上、夜空の星と雲をここまで生き物のように描いた画家は、過去にいませんでした。
光の渦の下には、地平線上のアルピーユ山脈がうっすらとシルエットの帯となって表されて、その下には1.5キロメートル先のサン・レミの家々と教会の高い尖塔が描かれています。暗闇の中の家のところどころから、石油ランプの明かりがこぼれ出ています。

ところでゴッホは、いつどこでこの作品を描いたのでしょうか。精神病院に入院中のゴッホは、一人で自由に外出はできません。それでは昼間のうちに、病室の窓から丘の下に見えるサン・レミの町の教会を記憶しておいて描いたのでしょうか。ところがゴッホの病室は東向きで、病院の北側に位置するサン・レミの町を眺めるのは、窓から身を乗り出さなければまず視界には入りません。その上、サン・レミの町には、このような尖塔のある教会は存在しないのです。私は以前、この教会がどこにあるのかを、サン・レミの観光案内所で訊ねたことがありますが、回答は次の通りでした。「色々な説があって、どれが正しいか言えません。ゴッホはオランダ人だったから、オランダの教会のことを想像していたのではないでしょうか。」
確かに電気もない当時のサン・レミの町は、夜は闇の中に溶け込んで、真っ暗で見えたのは北の空に輝く星だけだったはずです。しかも、その夜空を見上げる場所は、外に出ることが許されない小さな病室です。しかしゴッホは、その窓から見た星の輝きに、キリスト教徒として新たな希望を見つけたに違いありません。
なぜなら北の星を眺める男の姿は、旧約聖書の出エジプト記に書かれた、イスラエルの民を北へ北へと約束の地に導き続けたモーセの姿に重なります。また、非常に大きくなって輝く星の情景は、占星術の学者達が、イエスの誕生を告げた星を見て、エルサレムにやってきたという、新約聖書のエピソードを思い起こさせます。
この「星月夜」は、病室の窓から見たリアルな夜空の描写ではなく、精神病院の中という環境にもかかわらず、ゴッホの不屈の精神と希望、それに信仰心が同時に視覚化されたものだったといえるでしょう。

「壺の中のアザミと麦の穂」

本作は、野に咲く紫色のアザミと麦の穂を、茶色の粗末な壺に入れて描いたもので、現在は箱根のポーラ美術館に所蔵されています(展示名「アザミの花」)。オーヴェール時代のゴッホの花の絵は私の知る限り9点ありますが、うち7点は花瓶にさした状態で描かれています。しかも人物画と同様に、制作された月が6月に集中していますが、これはこの月の天候が悪かったためでしょう。また、花の絵の大半が、丸いテーブルの上に置かれた花瓶の花であることも興味深い点です。現在のところ、ゴッホの部屋に丸いテーブルがあったという記録や証言はないことからから、この丸いテーブルは恐らくガッシェの家のものと考えられます。また壺も、ガッシェ家のものを借用したのでしょう。ゴッホはテオ宛の6月4日付けの手紙で「ガッシェの家は、骨董屋の店のように、割合つまらない色々な物でいっぱいだ。それでも花を飾ったり、静物を並べるのに適当なものが揃っているから不自由しない。」と述べています。なお現在公開されているガッシェの家には「緑の壺の中の花」という絵に用いた日本風の壺が展示されています。
当時の状況から考えるに、ゴッホは毎日の雨にうんざりしながら 、教会の裏の麦畑の道を歩いて畑の横や、路傍に生える花を摘んだり、ガッシェの家の庭でみつけた花をテーブルの上に置いて描いていたのでしょう。
ところで、オーヴェール時代に描いた野原の花の絵について、ゴッホはいったい何を言いたかったのかについては、現在までにほとんど論じられていません。私はもしかすると、ゴッホは聖書やギリシャ神話の中から、花にちなんだエピソードを借用して、メッセージを伝えたかったのではないかと思うのです。
まず、この絵の写真を見てください。縦41センチメートル、幅34センチメートルの小さなキャンバスに描かれた野のアザミと麦の穂です。葉にあるとげのような深い切り込みのために、人々に嫌われて、畑のそばで踏みつけられるのが精一杯のはずのアザミに目を向けて、それをあたかも美しい花のように、麦といっしょに描いています。ゴッホにかかると、たとえアザミであってもこんなに美しくなるのです。
西洋美術史においては、アザミがしばしばイエス・キリストの受難を象徴するアレゴリーとして用いられました。さらによく調べてみると、新約、旧約聖書にはアザミという言葉が、実に8回も登場するのです。その中で、旧約聖書の「エゼキエル」書の2章には、こんな言葉が記されています。「人の子よ、あなたはアザミと茨に押し付けられ、さそりの上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない」。もともと牧師を目指して神学を学び、ベルギーのボリナージュ地域で宣教師までしていたゴッホが、この言葉を知らなかったわけはありません。太陽と画家の共同体を夢見てアルルに行き、夢破れてサン・レミの療養所に入り、パリ郊外のウワーズ川のほとりのオーヴェール・シュル・ウワーズまで流れ着いたような彼にとって、「人の子よ、あなたはアザミと茨に押し付けられ、さそりの上に座らされても、彼らを恐れてはならない」という聖書の言葉は、世の中に認められないでいる自分を絶望させないための最適な言葉だったのかもしれません。そして、路傍で見つけたアザミをキャンバスに描きながら、彼はこの聖書の文句を何度も思い起こしたことでしょう。
また、いっしょに描いた麦の穂は、同時期に描かれた「麦畑の前の若い女性」でも同様に、新約聖書ヨハネによる福音書第12章の文句を暗示していると考えられます。「1粒の麦は、地に落ちて死ななければ、1粒のままである。だが、死ねば、多くの身を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
つまり、この一見単純そうなアザミと麦の静物画は、世間の無理解の中で一人わが道を歩んでいたゴッホの孤高の人生が投影されているというわけです。

「からすのいる麦畑」

「からすのいる麦畑」もまた、ゴッホの代表作と申し上げて過言ではないでしょう。ゴッホは最期の70日余りを、パリの北の郊外のオーヴェール・シュル・ウワーズで過ごしました。そして1890年7月27日、丘の上のお城の裏の麦畑でピストル自殺を企て、2日後に下宿のラブー亭で亡くなりました。
この絵は、ゴッホ兄弟が葬られている丘の上の墓地からほんの300メートルほど西に行った麦畑の夏の風景です。7月6日に、ゴッホがパリのテオのアパートを訪れて、彼に重大な心境の変化が生じた直後に描かれた作品です。
パリに行った日に果たして何が起こったのか、何がゴッホに突然の心境の変化をもたらせたのか。これは、昔からゴッホ研究者の永遠の課題だといえます。一応定説らしきものを挙げれば、その日、テオの妻のヨハナが、ゴッホに夫が彼に毎月仕送りしている金が重荷であるといったのではというものです。でも、その直後にヨハナがゴッホに送ったはずの手紙が奇妙にも紛失していることや、当時のテオの収入なら、ゴッホに仕送りしていた月150フランは、それほどの負担でもなさそうだということがわかり、本当の理由は謎とされてきました。
本稿では、私なりの仮説を述べたいと思います。弟のテオは、兄が自殺した翌年の1月25日にユトレヒトの病院で謎の病死をしました。その様子はまるで狂ったかのようだったと言われており、これまで献身的に兄を支えてきた彼の姿からはおよそ想像もつきません。病院のカルテには記録されていないものの、現在の研究では、狂死の原因は梅毒だったと考えられています。テオはヴィンセントの死からたった3ヵ月足らずの10月半ばに発狂し、それから3ヵ月後の1891年1月に他界しました。兄ヴィンセントの死からたった6ヵ月後でした。しかも、11月18日にオランダのユトレヒトの病院に運ばれてきた時には「時間と空間の感覚がなくなり、何を話しているのか理解できない。」「全身麻痺が進行」「衣服を引き裂いた。」「食事を取ることができない。」といった病院の医師の記録が残っています。テオの死が、本当に梅毒によって引き起こされたのなら、病院に連れて来られた時は、すでに第4期と呼ばれる末期症状だったはずです。それに、テオが感染した期間はもっと何年も前のはずで、ゴッホが自殺した頃には、明らかな自覚症状も出ていたのではないでしょうか。実際に、ゴッホがオーヴェールについた直後に母に送った手紙には、テオが以前よりも顔色が悪いと書いています。
しかし、現在のような社会保険はなく、治療のために入院すれば妻も赤ん坊も、兄のヴィンセントも唯一の収入源を失うことになります。そこでテオは、病気を隠して働き続けながら、兄の絵が売れ始める可能性に賭けていたのでしょう。しかしながら、ゴッホは生涯で1枚しか絵が売れなかった画家です。ついに働けないほど病状の悪化したテオは、ヴィンセントが7月6日にパリにやってきた際に、自らの状況を打ち明けたのではないでしょうか。テオが入院すれば、当然ヴィンセントには仕送りをする人がいなくなり、彼は生きていけなくなります。そんなヴィンセントの絶望感を察して、弟のテオは7月14日に、兄に「本当の危険は、貴方が思っているほど深刻ではありません。我々の健康状態が互いに良ければ、またそれが必要になったのですが、頭の中のある計画に少しずつ着手できるのです。」と書いた手紙を送りました。問題が単なる金の問題だったなら、テオは決して「危険」などとは書かなかったはずですし、この書簡において、はっきりと健康の問題がからんでいることを示唆しています。
またこの作品に関しては、ゴッホの7月10日付けのテオ宛の手紙に、彼の心境が率直に書かれています。「すでに3枚の大きな絵を描きました。大きな麦畑が荒れ模様の空の下に広がっています。私は大変な悲しみと孤独感を遠慮せずに表現しようと思います。可能な限り早いうちにパリにそれを持って行って、君達にそれを見てもらいます。というのは、口では言えないことも、絵でなら言えるのではと思っているからです。」この文面から、彼が、これから直面する困難、つまりテオが梅毒の治療のために入院せざるを得ないという現状に真正面から立ち向かおうとしていてるように感じられます。
画面を見てみましょう。収穫間近になった黄金色の麦畑が地平線まで続いています。穂が重たくなって、麦は右のほうに傾いています。その麦畑には、真ん中に地平線に続く道が走っており、手前からは左右に道が分かれています。まるで、麦畑の中に描かれた十字架のようです。そんな平和な光景を脅かすかのように、ウルトラマリンの空が、嵐の前のように不気味に振動して、その中に、白い雲が二ついっしょに揺れています。そして、その不気味な空に、カラスの群が空高く舞い上がりました。
この絵は多くのゴッホファンから、ゴッホの事実上の遺作と看做され、その上、ゴッホの死後何十年も経った後、ゴッホはこの麦畑でピストル自殺を図ったという伝説すら生まれました。
それでは、もう一度作品に注目してください。刈入れ前の麦畑の上の空は渦を巻いたように表現されていて、たしかに嵐の前の空のように見えます。その空をからすの群が飛んでいます。画面の手前では農道が十字にクロスしていて、それが十字架の象徴だったなら、彼が最後の最後まで信仰を失っていなかった証ではないでしょうか。さらにこの作品には、大半の美術史家が見落としている点があります。十字架の縦の部分をまっすぐ歩いていくと、ゴッホがピストル自殺を図った本当の場所である、オーヴェールのお城の裏に出るのです。今でもその場所には、道案内の標識が出ています。
今、私は最後の瞬間まで彼が信仰を失っていなかったと言いました。しかしゴッホは、自分でも気が付かないうちに、自分が最後に歩む道を描いていたことになります。彼の中では、それほど生と死との激しい葛藤が生まれていたのです。


また、この絵の黒い鳥については、多くの美術評論家が死の象徴であると解釈しています。でも本当にそうでしょうか。かつてのエッテン時代のゴッホを知る人によれば「ゴッホはしきりに嵐と戦うからすのデッサンを描いていた。」と証言しています。またゴッホの手記には、「私は鳥かごにいる。何もかけるものはない。ばかものめ。必要なものはすべてある。あぁ神さま。他の鳥のような自由がほしい。」と書いています。
もう一つ大切なことがあります。確かに中世においては、黒い鳥が凶兆や死を表していました。ブリューゲルの作品にも、何度も黒い鳥が死のアレゴリーとして用いられています。さらに、古代ギリシャのホメロスの叙事詩「オデュッセイア」にも、黒い鳥は不吉なことの象徴として書かれています。しかし、実はもっと身近なところで、カラスは別の意味に使われているのです。旧約聖書の創世記の第7と8章に書かれたノアの箱舟のエピソードで、大洪水になってからおよそ11ヵ月と10日たってから、水面上に山々の頂が見えるようになったので、ノアは箱舟からカラスを飛ばしました。聖書には「カラスは飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。」と記されています。そして、その後、今度はハトを2回放ったところ、2度目に放ったハトはオリーブの葉をくわえて戻ってきました。このノアの箱舟の記載により、キリスト教徒には、カラスが絶望的な環境の状況の中での希望を表すことがるのです。
ここでは、発想の転換が必要です。西洋美術史においては、多くの場合において、カラスは死の象徴でした。だからと言ってその定義づけを機械的に、幼い時から聖書に慣れ親しんだゴッホの作品にむりやりあてはめようとするから解釈に誤りが生じたのです。ここで彼が残したメッセージは、十字架のように見える農道の上で、必死にこれからやってくる嵐と闘おうとしているカラス達の姿でした。嵐と戦うカラスは、ゴッホが手紙に書いたように、悲しみと孤独に戦う彼自身の姿であり、同時に嵐の後の希望を表していたのです。そんな情景を描く事で、必死になって自分自身を励ましていたのでしょう。

「オーヴェールの近くの平野」

本作は7月半ばに、オーヴェールのお城の裏の水平線が見える広大な麦畑を描いたものです。幅92センチの30号Fのキャンバスに描かれています。
またの名をレリー城というこのお城は、17世紀にイタリア人の銀行家によってオーヴェールの丘の上に建設され、その美しさは世界的にも有名です。
城の正面には、丘の斜面に沿ってまるで段々畑のような庭があります。そして、城の背後には、かつて地平線の見える広大な畑が広がっていました。残念ながらその場所は、現在は高級住宅地に変貌し、当時の面影を偲ぶことはできません。この城に行くには、ラヴー亭を出て、《からすのいる麦畑》とは街道を正反対の方角に向かう必要があります。そしてポントウワーズ方向へ少し歩くと、丘の方ヘ斜めに上がる大きな道があります。
その坂道「ミッテラン通り」をしばらく歩くと、お城の入り口が右に見えてきます。しかしゴッホは、この絵をもう少し上に上がったお城の北側のベルテレ通りから、北西の方向に、ほぼ現在のミッテラン通りと平行に視線を向けて描いています。
なぜこの方向なのかというと、反対方向は、ウワーズ河沿いの下り斜面になっていて、このようなほぼ水平の地形にはなりえない上に、お城の長い塀が続いているからです。
それでは、もう一度画面に注目してください。《からすのいる麦畑》と打って変わって、目の前には平和な田園風景が広がっています。
麦畑の上を飛んでいたカラスの群もいなくなり、空そのものも静かで平和な夏空になってしまいました。
画面中央の左に注目してください。収穫後の干し藁が積み上げてあります。さらにその左側には、並木がずっと地平線まで続いており、そこに長い街道が通っていることがわかります。これは、オーヴェールから北西に走る現在の大通り、ミッテラン通りでしょう。
また画面下半分は、草の生い茂る草原で、右下にはたった3本のヒナゲシが咲いています。パリの北西の地域では、ヒナゲシは5月から7月上旬にかけて麦畑に咲くため、これはこの年の最後に咲いたヒナゲシなのでしょう。
ゴッホが7月23日にテオに送った手紙には、この絵のスケッチが添えられていました。現存するゴッホの手紙の、最後から2番目のものです。
30号の油絵は、おそらく手紙より少し早い7月17日から20日頃に描かれたものでしょう。ということは、彼が自殺を図る約1週間前の作品ということになります。
7月6日に、パリのテオのアパートで兄弟間に起こったはずの重大問題にもかかわらず、あたかも澄み切った心で描いた風景のように感じられます。
しかし、この絵こそが、ゴッホの自殺を覚悟した作品であり、しかも彼の自殺する場所を自ら描いた場所だったといえば、驚かれる方も少なくないでしょう。確かに、この少し前に描かれた《からすのいる麦畑》の躍動する情景とは根本的に異質の心境を感じさせます。この2枚の作品の格差は私にとっても大きな謎でした。
しかし、自分を養ってくれていた弟テオが梅毒の末期に至り、「このままでは治療が手遅れになった死んでしまうかもしれない」、そして「弟が死ねば自分は生きていく手段がなくなってしまう」と悟った時、追い詰められた彼が、キリスト教徒として聖書のどこの箇所を読んでみたかを想像してみてください。
生きるべきか死ぬべきかを問い続けていた彼の心境にぴったりの聖書の箇所は、「フィリピの信徒のへの手紙」です。これは、ローマで獄中の人となっていた聖パウロが、西暦61−62年頃に、現在ギリシャ領である東マケドニアのピリッポイのキリスト教共同体に獄中から宛てた手紙です。獄中にあって死を覚悟しながら、澄み切った心で、遠い東マケドニアの信者達に信仰を述べ伝えています。死に直面しながらも、これほどまでに平穏で澄み切った心を持ち続けた聖パウロと、ゴッホが死の直前に描いた、静かで澄んだ風景画には、奇妙な共通点が感じられます。第一章20節から24節までを抜粋しました。

どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

ゴッホは自分が死ねば、テオ宅に残した作品の価格が上がりやすいことを知っていました。自分の死によって、まず弟の経済的負担を減らし、かつ値上がりするであろう自分の作品の価値で、弟の治療費と生活費の足しにしようと考えたはずです。
ところで、この絵を描いた場所こそゴッホが自殺を企てた本当の場所であることは、彼の自殺直後から知られていたことでした。
ゴッホの友人で画家のエミール・ベルナールがゴッホの死後4日後の8月2日に、生前のゴッホを支援した数少ない美術批評家のアルベール・オーリエールに書いた手紙を、以下に一部抜粋します。

確かに彼は日曜日の夜、オーヴェールの畑に出かけて、イーゼルを干し藁に立てかけました。そしてお城の裏で、拳銃を自分に向けて撃ったのです。激しいショックのために彼は倒れました。(弾は彼の心臓の下に入りました)彼は3度続けて倒れ、また立ち上がり、彼が滞在していた宿まで帰ったのです。 (以上)

「3度続けて倒れた」というのは、十字架を担いだイエスが、刑場のゴルゴタの丘に行く途中で、十字架の重さに耐えかねて3回倒れたというエピソードに基づいた、エミール・ベルナールの善意の創作です。しかし少なくともエミール・ベルナールは、はっきりと「お城の裏」と書いています。
また、この自殺の場所の問題については、フランスのアラン・ロハンという研究者が2012年に発表した「自殺の拳銃は発見されたか」という本の中で、極めて興味深い事実を挙げています。
ゴッホと親交のあったガッシェ医師の息子のポールは、父譲りの美術愛好家で、父と同様に油絵を描いていました。そのポール・ガッシェがルイ・ヴァン・リッセルの雅号で描いた風景画があります。この作品はポントウワーズのピサロ美術館が所蔵していますが、ここには、右側にオーヴェールの城の裏の壁とその横のベルテレ通りが描かれ、左には高く積み上げられた藁が見えます。
そして、この絵の裏には、ポール・ガッシェの手になるラベルが貼られています。そのラベルには、「ルイ・ヴァン・リッセル オーヴェール、1904年、フィンセントが自殺した場所」と記されてあるのです。 ゴッホが墓地の近くの麦畑で自殺したという話は、何十年も後に創り上げられたフィクションだったのです。
またアラン・ロハン氏の同じ本の中で、ゴッホが自殺に使用したと思われる拳銃について詳しく解説されています。この拳銃は、1959〜60年頃、収穫が終わった直後に、お城の裏の畑で、お百姓さんが畑の土の中から見つけたものです。この拳銃は、その後の鑑定で、口径7ミリで、1865年以降に主にベルギーのリエジュで生産された、たった5フランの非常に廉価な護身用拳銃でした。この口径7ミリという点は、ガッシェ医師の息子のポールが、ガッシェ医師がゴッホの傷の手当をした時のメモを基に書いた本の記載に一致します。「濃い赤い穴の周りに、二重の紫と茶色の輪ができていた。」「弾丸は5番目の肋骨の横から入って、腹部にいたっている。」同じ本によると、傷口の周囲にできた紫の輪は、弾丸が体内に入った際に生じる症状であり、2番目の茶色の輪は火薬の爆発によって生じたもので、至近距離から弾丸が発射された時の現象だそうです。この所見が正しいなら、ゴッホは、自分のシャツのボタンをはずして、至近距離から自分の胸に向けて引き金を引いたことになります。
したがって私の見解としては、ゴッホはお城の裏のベルテレ通りから畑に入って、干し藁の陰で、ラヴー亭から失敬した口径7ミリのベルギー製拳銃を自らの胸に向けて撃ったのが真実だと考えられます。それでは、なぜこの場所を自殺の地として選んだのでしょうか。
そもそもゴッホは、のどかな田園風景を好んでいました。約1週間前に描いた本作のように、見渡す限り家一軒ない広大な平野で、夏の太陽の下で静かに死にたかったのではないでしょうか。しかし、死を決意しても、なんとか生き延びたいという生への執着が、ピストルを心臓に向けることをためらわせた原因だったのでしょう。また、自殺を図った7月27日は日曜日でした。毎週日曜日には、彼を良く知るゴッホ医師がオーヴェールに戻っていることをゴッホは知っていました。拳銃の狙いをはずすことで、ガッシェ医師にも悲痛な心の叫び声を聞いてもらいたかったのかもしれません。
最後に、亡くなったゴッホの埋葬についてお話しましょう。臨終に立ち会ったテオやガッシェ医師、ラヴー亭の主人、その他数少ない地元の友人達の取り計らいで、ゴッホの葬儀は死亡した翌日の7月30日水曜日午後2時半、オーヴェールのノートルダム教会で行われる予定でした。しかし直前になって、その葬儀は取りやめになってしまいました。教会の神父テテシエールが、ゴッホが自殺したことを知って、教会を葬儀に貸すことを拒否し、その上、棺の提供さえ拒否したのです。
弟のテオとゴッホの母の名でだされた葬儀の案内をよく見ると横線で消された部分があります。消された部分には「オーヴェール・シュル・ウワーズの教会にて」と書かれてありました。教会の鐘は、その日だけ、ゴッホのためには鳴らなかったのです。
当時は、葬儀とそれに要する道具類すべてが教会の独占事業でした。葬儀が民間の手にゆだねられるには、1904年の政教分離法の成立を待たねばなりませんでした。そのために、ささやかな葬儀が、ラヴー亭の1階の奥で行われました。神父にも見放されたゴッホのために、ガッシェ医師が聖書の一節を読み上げてくれたそうです。
ゴッホの遺体は、その後15年間にわたり、墓地の片隅に一人っきりで埋葬されていました。しかし1905年、15年の墓地使用期間が切れて無縁仏になりかけた時、テオの妻ヨハナが二人分の永代墓地を購入して現在の場所に移されました。ちょうどこの年に、アムステルダムの市立美術館で、ゴッホの最初の大規模な回顧展が開かれました。しかし、オランダで死亡したテオの亡骸が、オーヴェールの墓地に運ばれて、ヴィンセントといっしょに埋葬されたのは1914年でした。それ以来ヴィンセントとテオは、オーヴェールの墓地で仲良く並んで永眠しています。現在、二人の墓はいつも蔦の葉で覆われています。この蔦はガッシェ医師の庭の壁に這っていたもので、ガッシェ医師の息子のポールが、1946年頃、墓を保護するために植えたものでした。ポールは、生前オーヴェール村に10万フランを寄付して、ゴッホ兄弟の墓が永久に村によって管理されるように手配しました。現在私たちがゴッホのお墓参りができるのも、ポールのおかげと言えるでしょう。
ゴッホの人生と死は、時代を先取りした天才画家が、どれほど世間の無理解を前にして、孤独な戦いを強いられるかを物語っています。ゴッホの画風は、世の中よりも20年先を走っていました。そんな孤高な戦いの中で、唯一の理解者がテオだったのです。
ゴッホは死にたくて死んだのではなかったのです。本当は、もっとテオと共に素晴らしい絵をたくさん描き、喜びを分かち合い、人生を謳歌したかったのに違いありません。そんな彼の生への叫びを聞きながら、残された作品を鑑賞するなら、また違った味わい方ができるのではないでしょうか。去年の夏ゴッホのお墓のあるオーヴェールにお墓参りに出かけました。そこにはゴッホ兄弟のお墓が仲良く並んで、二人が永眠しています。その光景を見ながら、ふと、ゴッホがパリ時代に描いた2輪のヒマワリを思い出しました。

Safari未対応